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コロ助は『ロマン』を読んだ。

 ウラジーミル・ソローキンは自身の著である『ロマン』を「よく書けたテクスト」と評している。この『ロマン』という作品を読んだ後に、彼の言うところのテクストは一体何のかについて考えている。
  本作ははっきり言ってかなり退屈な作品である。これは作品自体がつまらないというわけではなく、自身の勉強不足によるものだ。なので、ロシア文学の有識者であれば、十九世紀ロシア文学の隙のない文体模写や精密な内面描写や人物描写など、読んでいてニヤリとする部分が多くあるだろう。しかし、僕にはそれを論じることはできない。それは何故か。阿呆だからである。いや違う、ロシア文学についてしっかりとした知識がないからである。
  して、この『ロマン』だが前半から中盤、具体的に五分の四は本当につまらなかった。しかし、文章的な技法はかなり目を見張るものがかなり多く読んでいて飽きることはなかった。しかし、内容が本当につまらなく、都会から田舎に戻ってきた主人公の恋愛模様とか知らんがなと常にぼやいていた。しかし、このつまらない部分は終盤に行われる惨劇の前段階に過ぎなかったのだ。
  この『ロマン』という作品はスプラッター小説である。そう、手足をバラバラに切り刻んだり、内臓をぶち抜いたりするあのスプラッターだ。そしてこのスプラッター的展開は、主人公の「ロマン」が斧を手に持った瞬間からいきなり始まる。あの五分の四も占めたつまらない部分からいきなり始まるのだ。これには本当に
困惑した。先程までウォッカを飲みながらゲラゲラ笑っていたロマンが、斧を持った途端、ロボットになったかのように親族、友人、村人を惨殺しまくる。なぜいきなりグロテクスなことを…と驚いたが、これには多分意味がある。
  美しいロシアの風景を遠近法を駆使し描写した文章、ロマンの詳細で装飾的な心理描写を書き出した文章、賑やかな民衆や敬虔な信仰心をテーマにした文章など、今まで構築していた美しいと呼ばれる文体模写を一切無視をして、「ロマンは〜した」という単文の繰り返しになる。これは一体何なのだろうかと考えてみたところ、以前『青い脂』の中で書いた破壊行為のことを直接的に表しているのではないかと思った。
  破壊行為とは、一方的に破壊することではなく、先人たちが作ったものを土台にして再構築すること、と書いた。それを『ロマン』という作品全体を通して行われているのではないか。十九世紀の作家たちが作り上げてきたものを、二十世紀の作者であるソローキンが斧を手にしてぶち壊していく。「よく書けたテクスト」と評したことは、この作品で行われている破壊行為そのことではないだろうか。故に、この作品は小説として接するよりも、ロシア文学におけるテクストとして接した方がいい気がする。まぁそれも、ロシア文学に知見があってこそという前提がある話だが。
  して、読んだ後に知ったのだが、この「ロマン」という単語はロシア語において「小説」を意味する単語らしい。そのことを考慮すると、主人公「ロマン」の凶行について何となく整合性がついた気がする。

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