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タイトルは中身が簡潔にわかりやすく書いたほうが読まれると言われたがそんな気前の効いたことはできない話を書く。タイトルは「しんせかい」。

  タイトルのことは無視します。ムカつくから。
  すっかり秋も深まり冷房もいらない気温になってきた。外出の機運も高まってきているし、ここいらでいっちょノーパンで外に出てみることにする。あぁ、今年も僕の下半身を守ってくれてありがとう下着。こういった日々の感謝を積もらせていくことで、人は極楽浄土への道を一歩、また一歩と踏みしめていくのだな。あぁ、ありがたいありがたい。南妙法蓮華でQ。
  しかし、外出の意欲は降ってはすぐに止む秋時雨のように消えてしまい、結局部屋にこもって本を読むなどしている。もう取り上げる話題も本にばかり依存しており、しっかりと引きこもりへの道を一歩、また一歩と踏み固めている。これでは極楽浄土へ行くことなど夢のまた夢。あなや、かなしきやかなしきや。南妙法蓮華でQ。
  山下澄人の「しんせかい」を読んだ。帯にでっかく第156回 芥川賞受賞と書いてあり、なんだこいつ話題性で本を買う人間かと思われていると買うのが少し恥ずかしかった。しかし、第156回なんて7年前の受賞。そんな7年も前のこと思いながら仕事をしている本屋もいないだろう。つまり、これは僕の思い上がりであり、それを思うこと自体が恥ずかしいのだ。また、極楽浄土から一歩遠ざかった気がした。
  して、この「しんせかい」だが、評価の中に「聴いたことがない美しい音楽を聴いた気分になる」というものが帯にあった。たしかに、この評価は的を得ている。今まで読んでいた小説はそれぞれの文体は違えども、どこか形式のようなものを感じ取ることができた。地の文があり会話文がありという形式だ。当たり前のことだが、小説は地の文と会話文があることで成り立っている。それを作家たちは思い思いに形を変え、満足行くまで捏ね上げて完成に至る。この「しんせかい」もこの形式に則っているのだが、なぜか違和感を感じる。小説は小説なのだが小説とは違う形式の文章を読んでいる気分になる。この違和感は何なのだろうか。
  答えを探すようにインターネットを彷徨ってみたところ、どうやらこれはト書きや台本に似ているらしい。なるほど、それで違和感か。演出でなにもしない時間である間を表すように、句読点もセリフの一部であることを表すように、演劇で行うテクニカルなことを文章で表しているのか。なるほど、これが違和感の正体。故に「しんせかい」。と思ったが多分これは違う。

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