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読書が飽きたのでプラモを作ります

 本を読むことに飽きた。いや、飽きてはないんだけど、なんつか、マンネリである。読書という行為は自身のセンスにだけを頼りにするものなので、どれくらいかの期間ぶっ続けで行っていると、自身のセンスに飽き飽きし惰性で書を消化し始める。
 それが悪い行為という訳では無い。読書自体、ただの娯楽でありそれを惰性で消化するというのは、娯楽としての本分かもしれないし。しかし、そんな本分の中に使っていても、時間の無駄ではないか?お前はそんなことをしている場合なのか?という強迫観念に苛まれ集中することができなくなる。損状態では文字の情報とかなんもかんもが認識できなくなる。
 であれば、どうすればいいか。本を読むのを辞めればよいのである。本を読むのを辞めて、他のことを始めれば良い。つまり、書を捨てよ町へ出ようと言うやつだ。街へ出て建物とか路地とかを見ながらいいねぇとか呟いたり、安酒場でメチルアルコールを飲み腐ったりすればよろしい。そうだ、そうしよう。読書を諦めたら良いのだ。
 というわけで、プラモデルを作り始めた。そ外に出る?ちょっと人に会うのはしんどいので…。因みに、右で述べた強迫観念云々とか言うのは丸っ切り嘘である。読書に飽きたからと言って、そんなに思い詰めたことを想像するわけがない。
 というわけで、プラだ。プラモだ。プラモデルだ。読書とあんまり変わらない気もするが、頭で理解することと指先を駆使して理解することはまるっきり違う。なんというか、読書での理解は文章による情報を得て理解につなげる二次元的・平面的なものだとしたら、プラモデルでの理解は指を動かし触覚と視覚を経て脳に情報として取り込まれる三次元的・立体的なものだと思う。部品を組み立てていくと実物が出来上がるのこともその認識を加速させる。今こうやって書いている文章を二次元的なものであるということも平面的であるよなと思うし。そんなんだからプラモデルは面白い。読書に飽きたらすぐにやったほうがいい。
 して、プラモデルをいつ頃か触ってなかったと写真を見返して見ると、前年の9月から触っていなかった。おとろしい、もう少しで半年とか経とうとしているじゃないか。これはプラモデルを作る筋肉、いわゆるプラモ筋が衰えて死んでいる可能性がある、と思っていたのだが、そこは意外とどうにかなった。どうにかしてくれたのだと思う。触ったのは天下のタミヤ。プラモ筋が衰えて死んでいる僕でも、こうつくったらイケるでと優しくアテンドしてくれる様は本当に最高だと言うしかない。
 作ったのはマーダーⅡ。AFVだ。AFVという言葉を意味も分からず使っているのだが、これはなんと言おうとAFVだ。アホほどファビュラスでヴァイブスが高い。故に、AFV。僕は何を書いているのだろうか。
 思い出したのだが、この前友人と飲んだ際に「何人の人間を殺している兵器の模型を作るなんて理解できない」と面と向かって言われたことがある。確かに、兵器の模型を作る際には「人をいっぱい殺している兵器を模したもの」という認識に直面する。つか、向き合わざるを得ない。それも毎回。なので毎回毎回その認識と向き合い、うまく自分の中ですり合わせを行い、なんとか完成まで漕ぎ着ける。この摺り合わせで出た答えはなんとなく僕の中で落ち着いているのだが、これだ!という言語化がしにくい。それはなぜか。理解が立体的であるからである。
 つまりどういうことか。理解が立体的であるのであれば、立体で答えを出せばいいのである。例えば、以前AFVを作ったことがある。それがこれだ。

ネタのように捉えられるかもしれないが、これが僕の「人をいっぱい殺している兵器を模したものを作る」ということに対しての答えである。これが何と聞かれたとしても、うまく答えることができないのが歯がゆいところであはあるが。
 多分、今回も右のものと同じような感じに仕上がるだろうと思う。どういったふうに仕上げようか。うまかっちゃんのパッケージを見ながら出来栄えを想像するだけでワクワクが止まらない。

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