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詩、イマジナリーフレンド

  詩を読むのができない。そう、できないのだ。あの短文の繰り返しを目にすると頭の中がグチャグチャになる感覚がある。これは何故ななのか。
  しっかり考えてみると、僕は文字というのは常に長く続いているものだと思い込んでいる。例えば、市川駅から逗子駅に行くように。はたまた、てだこ浦西から那覇空港に行くように。文章には、出発点があり最終的に到達する地点があるものだと考えている。その構造があるので小説や論文などは最後まで読むことができる。つまり、作者のより設定された最後があるという安心を覚えたからこそ最後まで付き合うことができるのだ。その設定が詩では感じることができない。故に、詩を読むことができないのだ。
  できない、と書いたが、別に読めない訳では無い。この読めないは、単語の意味を理解できないとか、文脈を理解できなとか、そういう原初的な問題ではなく、詩を読んで言わんとしていることはなんとなく理解はできる。しかし、読むことができないのだ。例えば、今手元にある山之口貘の詩集にある加藤清正というタイトルの詩が理解できない。いや、言わんとしていることは何となく理解る。動物園の虎と加藤清正を重ねて憂いていることは理解る。僕も身勝手のそんな気持ちになることはある。しかし、理解ができない。わからないのだ。なぜこの人たちは短文で心情を伝えようとしているのか!
  理解ができなさすぎて、相談してみることにした。誰にか。それは僕の頭の中に住まう友人、すなわちイマジナリーフレンドに相談することにした。この空想の友人は「人間は心の中にギャルを吸わせてなんぼ」みたいな言説を目にして以来、僕の心のなかに鎮座している。
  この空想の友人は僕が何かを悩む度に出現するのだが、「まぁ良いんじゃない?」と一言だけ残して消えていく。ギャルというものを目にしてできたはずの存在は、我関せずのような態度を取って消えていく。いや、何がギャルか。アホかバカマヌケ。そんなの、ただただの道すがら通りかかったオッサンだろ。
  そのオッサンに相談するのだ。思うに、そのオッサンは僕と思考パターンは違うものだろう。故に、相談すればなにか詩に対して解決策が見出すことができると思ったからだ。しかし、返ってきた答えは「まぁ良いんじゃない?」。なにを解決してくれるのだこいつは。いい加減、叩き出してやろうかこいつは。
  しかし、このイマジナリーフレンドの存在は重要である。右にも述べたように、思考パターンが違うのだ。僕が良しとしないものに対しても、なんかフワッと肯定してくるのだ。そのフワッとした肯定は信用する事ができず何度となく無視してきた。我関せずの態度が逆説的に働いて良い結果をもたらしたこともあるが、大抵の場合、こいつの結論は役に立つことはない。しかし、何故か付き合っている。意外と気のいいやつなのであるこいつは。
  つか、何の話をしているのだ僕は。詩が得意ではないという話からなぜイマジナリーフレンドが出てくのだ。

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