所持と質量
所持するということに質量という要素がなくなって久しい。
今やこの世は、スマートフォンとかいう鉄の板の中にすべてが詰まっており、そいつの画面を弾けばどこでも気になっていた音楽を聴くことができるし、どこでも書を開くことを可能とする。実際、僕も電子書籍をスマートフォンのにダウンロードをしては忘れてほったらかしにする、という行為を繰り返している。しかも、SFは電子書籍で購入したほうが何か風流だろ、というサイバネ感傷を持っているので、未だに表紙が開かれもしないウェルズの本とかが眠っている。ここに質量を持たずデジタルで所持することの弱点があると思う。
そう、忘れてしまうのだ。紙独特の温かみとかレコードと比べると音の質がダンチとか、そういう話ではなく、単純に忘れてしまうのだ。
質量がある本で例えてみると、本という質量は溜め込めば溜め込むほど自身の周りを圧迫し始め、ズンズンと積み上げられた質量は万年床以外足のやり場を許さなくなり、ある種の人間が切望する本に囲まれた生活を実現することができる。しかし、その生活は客観的に見ると、違法建築物に囲まれた生活をしているようなもので、積み上げられた質量は風が吹けば倒壊し始め軍隊となり万年床で天井のシミを数えているトンチキを襲い始めるだろう。そうなるとどうなるか。
今手元に溜め込んでいる本(例えば勢いで買ったけど全く読む気にならない大江健三郎など)があるなら試してほしいのだが、本の背の下部分、いわゆる本のカドと呼ばれる部分で、思いっきり膝小僧をぶち叩いてみてほしい。すると膝の皿は無惨にも打ち砕かれ、破片は肉を裂き皮膚を突き破って、多大なる血液を噴射し痛さのあまり昏倒。あなたは本で自傷行為を行ったことを後悔し、もう二度と本を溜め込むことなく定期的に消化することを誓うことになるだろう。
して、本を溜め込み万年床を形成した場合でも同じで、倒れ込んできた本はあなたの顔面に襲いかかり、最悪の場合は脳髄を撒き散らして死に至るし、死に至ることがなくとも、脇腹→側頭部→顔面→金的→首→鳩尾の順で破壊されることになる。つまり、質量というのは溜め込めば溜め込むほど、命を危機に晒すというリスクを背負うことになるため、定期的に消化をしなければならないという責務を抱えている。今思いついたのだが、命を質量に握られている高揚感が、紙の本に温かみを感じることに繋がっているのではないのだろうか。というのであればそれも頷くことにする。
一方で質量のないデジタルはどうであろうか。デジタルといえども、データ量という形で数字の質量は存在する。だが、その数字は右に述べた質量と比べてどうだろうか。デジタルの質量は溜め込めこんだとて、スマートフォンの動作が重くなり、なんか不便だなクソだな叩き割ってやろうかなと思うぐらいが関の山である。そんなスマートフォンの動作が重くなった程度では命の危機に瀕することはないだろう。たといそれが、自傷行為をSNSにアップして承認欲求を満たそうとしているメンヘラ女子が持つスマートフォンで起こったとしても、だ。
デジタルという質量は、溜め込んだとて命の危機に瀕することがない。故に、買った後もそもまま放置される。だって放置したとて膝の皿を割ることもなければ死ぬことも無い。ただただ残高を少しすり減らしただけになる。残高がすり減ったとしても、なんか今日昼飯食うのがまんすりゃいっか、程度の諦めで整合性がつくことだろう。故に、僕は本を買う際は、質量のある紙の本を選ぶことにしているし、最近ではウェルズの作品も紙の本で買うことにしている。電子書籍で持っているのにもかかわらず。バカか僕は。
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