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『入門 山頭火』について

 自殺をしようと思ったことがある。つか、実行したことがある。今生きている生は虚偽であり、生きるに値しないと強く感じた際に生きている意味を感じることができなくなり実行した。記憶が正しければ、三十路の誕生日前後に実行した。何も成すことが出来ない三十路を迎えた心境はとても苦しかった。
 自らを殺すにしても苦しみを覚えずに終えたいと考えた僕は、焼酎を4リットル程を飲み干し、上下左右もわからない状態で野外で寝ていれば死ぬるだろうと考えた。時は弥生といえど夜になればかなり寒い。それを利用して眠るように終える方法を選んだのだ。
 実際に焼酎を一気飲みし、フラフラと小岩と市川を断絶する江戸川の辺(座標で言えば35.7324550, 139.8997572)に足を運んだ。なんかいい塩梅の場所を見つけ、そこにどっかりと座り込み残りの焼酎を流し込んでいた。信じられないほど寒かったし、酒の勢いもありいつの間にか気を失っていた。
 気がつくと朝であった。寒く乾燥し総武線が通過する音がかすかに聞こえた。死ぬことが出来なかった、死ねなかったのだ。今生きている生を終わらせようとしたのだが、いつも通りいつもの時間に目が覚めた。視線を空に向けながら考えてみた。死ねなかったと。
 江戸川に己の内側に有るものを全て嘔吐とし、そぞろ家に歩を運んだ。道中考えることと言えば、何故死ねなかったかについてばかりであったが、強烈な二日酔いの頭では何も考えることが出来なかった。家に付き、風呂に入り、途中で買ったポカリを飲みながらそのまま気絶した。再度、目が覚めると夕方であった。西日が世を照らすと影になる部屋の中で考えてみた。もちろん、今後についてである。
 僕は、今の生はかなり苦しいものであり、その苦しさから逃れたいが故に自身を殺すことを選び実行した。しかし、甘かったのだろうか。自らを殺すことは叶わず、ポカリを飲みながら腹減ったな何か食おうかな、もうちょっと回復したら酒飲みたいな、とか考えている。この考えは、本当に自らの命を終わらせ終わりを迎えたいなと実行した人間の考えなのだろうか。もしかすると、僕以外の人間はこの「酒飲みたい」とか「死にたい」とかの間を遁走しながらうまく均衡をとっているのではないかと、考えた。
 種田山頭火の句に「分け入つても分け入つても青い山」という句がある。これは娯楽で登山とかワンダーフォーゲルでイェイイェイとかそういうものではなく、種田山頭火の心情を表した句になっている。
 それを証明するがの如くに、前書きには「大正十五年四月、解くべくもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。」と、書いてある。それ故に、右に述べた句は、どこか切羽詰まっているような、なにか追い詰められたような圧迫感すら覚えることができる。
 僕は、この山頭火の句と、右に述べた自身の体験と重ねて解釈しようと試みたがよくわからない。「解くべくもない惑ひ」とは何なのだろうか。「酒飲みたい」という願望と「死にたい」という願望の狭間を遁走することなのであろうか。誕生日から少し経った今でも答えがない問いにブチ当たっている。
 という感じの内容が書いてあった。多分。なんにせよ、町田康の『入門 山頭火』は今年一番面白かった本です。

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