宿屋をめぐるは堂々堂々
例えばの話だ。こういった前置きから文章を始めると、このあとに続く文章がとんでもなく高尚で思慮が冴えわたる明晰な文章が続くのかと身構える事があると思うが、この場に関してはそうではない。今から続くのは、稚拙で幼稚で同仕様もない持論が連連と流れてゆくだけである。ぬらりぬらりと。
それはさておき、例えばの話である。人は肉体と魂、この二つに分けられるという。それは、肉体のほうは器であり、魂のほうは中身といってもいいだろう。して、この中身というのは水みたいな液体状のものであり、姿形は変幻自在。器に入っていない状態だとグニャグニャとこれといった形を定めることが出来ないものであり、そのまま放っておくと形を定めることが出来ないまま消え去ってしまうだろう。
一方で器はどうであろうか。器っちゅうものは、平べったいものだったり底が深いものだったり管と管が交差して複雑な構造を有しているものなどがある。姿形は多種多様でありながら、どれもこれもが姿形を変化させることは難しいという一定の規範を有している。しかし、器は所詮器。中身がないものであれば、器として機能する事ができず、ただそこに鎮座するだけのものになってしまう。
この中身と器、両方が揃わない限りはどちらも上手く機能することが出来ない。どちらかが存在してどちらかが無いものであればただただ朽ちていくのである。中身は器があるからこそ中身になることができるし、器は中身があるからこそ器として機能する。
この共存体は面白いもので、中身と器の力関係はイコール、均等ではないということだ。右にも述べたように、器は平べったいものだったり底が深いものだったり管と管が交差して複雑な形を有している物がある。その器に中身が放り込まれると、自然と中身も器と同じ形になり、変幻自在であったはずの中身は器と同じ形の状態で過ごさなければならなくなる。器に入り込んだことで消滅の危機はなくなったが、一生の運命を決定づけられる。このことから、力関係は器のほうに寄っており、中身は器の形のまま如何にして過ごして行くかを強いられることになる。
しかし、これを変形させることは可能である。だが、容易ではない。器というのは超自然的存在、なんか神っぽい存在がそれを作っているので、器の形を変えようものなら神っぽい存在の意志に反することになる。もちろん、器の形を変えることは可能だ。それができればの話でしか無いが。神っぽい存在が器をお作りになられたというのであれば、中身の運命は器に入った瞬間から決定づけられたようなものである。
中身は自身の意志でどう過ごすか決定することができるだろう。あれが食いたい酒が飲みたい女を抱きたい酒を飲みたい遅くまで寝たい。いろいろな意思があるはずだ。しかし、それは本当に自身の意志と言えるのだろうか。例えば、また、まただ。また例え話をひけらかすのか、バカッ。自身の意志と思いこんでいたものが、神っぽい存在が決定づけたものであるのだとすれば。器にばまりこんだ中身というのは、ただただ神っぽい存在が酔狂で作り上げたものだったとすれば。
町田康の『宿屋めぐり』を読んだのだが、たぶんこんな事が書いてあった。違うような気もするけど、こんなことを書いてましたー。
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