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ジョン・ウィックと暴力

  いつの日か、犬と戯れていたら、母親から「ジョン・ウィックの最新作が観たいから付きってほしい」と驚くべきオファーがあった。なぜ暴力的な映画を…と驚いていたが、メル・ギブソンのパッションを「血がいっぱい出て、痛々しいから」という理由でリピートした人だと思い出し、まぁ母親ならジョン・ウィックぐらい観るか…と思い直した。
  いつしか書いたのだが、暴力の本質は恐怖による支配にある。どういうことかと言うと、暴力が行使された際に発生する身体的な痛みは精神的な恐怖を湧き上がらせ、暴力の行使者はその恐怖をうまくコントロールすることにより相手を支配する、これが暴力の本質である。今かいた本質というのは、ゴールディングの蝿の王やマッカーシーのノー・カントリー・フォー・オールド・メンなどの文学作品に色濃く反映しているし、映像作品で言うと、白石和彌の凶悪がわかりやすい例だと思う。
  この暴力に対する個人的な考えは今でも揺るぎなく考えているし、時を経ても変わることがないと思う。して、ジョン・ウィックは暴力的な映画と書いたが、ジョン・ウィックにある暴力はどう作用しているだろうか。
  ジョン・ウィックは暴力映画である。この点に関しては何も反論することはない。ナイフでグサーッと相手を刺し、銃をドンドコぶっ放し、凶暴な犬が殺し屋の金玉をアムアムを食んだりしている、これを暴力的な映画と言わずして何というのだろうか。しかし、右に書いたような暴力の本質というのはジョン・ウィックで観ることはない。むしろ、爽やかにスタイリッシュに人を殺しまくっているのだ。ここにジョン・ウィックの暴力の違いがある。
  ジョン・ウィックで行使される暴力は演武に近いと思う。己が磨き上げた武をスクリーンの中で披露し、鑑賞している人間の心を踊らす。まさに、演武のようなものだ。わかりやすい他作品と比較してみると、白石和彌の凶悪で描かれるねちっこい暴力はジョン・ウィックでは影も姿もない、その代わりスタイリッシュに暴力を行使する。主人公であるジョン・ウィックは殺し屋という暴力のプロであり、行使する相手もプロの殺し屋。プロ同士がスタイリッシュに暴力を行使している様子はまさに演武のようであり、右に述べた暴力の本質は存在しない。そのため、ジョン・ウィックを観ている時間は磨かれた武を見ている気分になる。
  ジョン・ウィックが行使しているのは確かに暴力なのだが本質を持ち合わせていない。しかし、暴力であることは確かなのでよくわからないパラドックスが発生してしまう。演武のような暴力には恐怖・支配という側面は抜け落ちいるのだろうか、今一度、考えなければ、以上、ジョン・ウィックジョン・ウィックうるさい文章終わり!!!!!!!

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