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理知か?感情か?古くて新しい課題「現代という時代の気質」 エリック・ホッファー(柄谷行人訳) Ⅰ <ことばの森を逍遥する>

エリック・ホッファーといえば、「沖仲仕の哲学者」と呼ばれたアメリカの著述家です。農園の季節労働者をやりながら図書館で物理学・数学・植物学を学び、モンテーニュに影響されて哲学的な興味を触発された後、沖仲仕として働きながら思索や著述をつづけたかなり稀有な人です。

いわゆるマルクス主義の影響が絶大であった20世紀、知識人(インテリゲンツァ)とは何かという問題が重要なイシューであった時代に、異彩を放っていた文筆家です。マルクス主義には、知識人が大衆を啓蒙するという図式があり、自分を知識人だと自己規定する人たちには、多かれ少なかれエリート意識があったのでしょう。知識人とはどうあるべきか?そういう議論が盛んだったようです。

もちろん知識に対する信奉がメインストリームであった一方で、知識にたいして疑義を差しはさむ者も、少数ながらはあったのです。知識を寡占する知的エリートたちが、特権的な場所からものを言うのでは、けっきょく大衆の解放を目指す目的とは矛盾してしまうのではないか、そういう危惧もあったと思います。

吉本隆明によれば、知識人はその思想の中に、つねに大衆の原像を繰り込んでいなければならないのだと言っていました。具体的にどういうことかは、すぐに理解しがたいのですが、「赤児を背に負い洗濯板で洗濯しながらする思想」こそが本物だというような比喩の仕方をしていたと思います。たぶん、書斎の中だけで考えることは、しばしば知的な抽象空間に閉じ込められ、現実から遊離してしまって、偏向したり迷走したりしてしまうから、普通の生活者の感覚を離れない努力をすべきだという主旨でしょう。そういう意味ではまさに、エリック・ホッファーは、大衆の原像を繰り込んで思想をした人といってよいかもしれません。

『したがって、「真の信仰者」とは一世紀もつづいた変化によって浮きぼりにされた可塑的な人間の典型なのである。変化への適応はまた、アメリカ的な精力的活動家(ハスラー)をも生み出したが、こちらは「真の信仰者」と同様に少年的、原始的、可塑的な一タイプではあっても、イデオロギーも共同体の呪術もなしに機能する人間である。』

西欧の知識人は、アメリカ的な実利主義に対して批判的な傾向があるのでしょうが、ホッファーはアメリカ的なものの長所をよく見ていたといえます。西欧には知的な伝統があり、ギリシャ以来培われた思想的厚みがあり、西欧の知識人はそれらを誇りとすると同時にまたそれに囚われている、ホッファーはそう見ていたのでしょう。アメリカ的なものの美点は可塑性にあるといいます。アメリカ人は、伝統的なものがもたらすイデオロギーや共同体の呪縛をもたないので、自由な柔軟さがあるというのです。つまり可塑性の高さは、変化によく適応できるということを意味します。

それは、たとえていうと、戦士のようなものだと、彼はいいます。戦士は、自分のイデオロギーに拘泥することなく、どんなイデオロギーにも適応して全力で戦闘する者が優秀なわけです。つまり戦士が思想の厚みをもつことは、不要かつ有害であって、戦闘の成果には何の役にも立たないからです。

あるいは、こんな言い方もしています。戦争の勝利者、つまり征服者は、被征服者の文化を模倣する自由と柔軟さがあって成功するのだとも指摘しています。自分たちが既に持っているもの(伝統)に執拗にこだわり、他を受け入れない頑なさには、たとえ戦争に勝利する実力があっても、被征服者とともに新しい文明を築く度量がないのだということです。

『事実、武人の伝統をもつ国民、たとえば日本人や外蒙古のジンギスカンの子孫のような国民は、近代化の推移をロシアや中国のような隷属的な農民の民族ほど困難としないのである。』

この具体的地域への指摘が正しいとは思えません。ホッファーは現在の中国の経済発展を知らずに書いていますから、それは仕方ないとして、ロシアや中国に武人の伝統がないと決めつけるのは偏見だと思えます。でも、正しいかどうかというより、この可塑性=自由=武人という図式の作り方は、おもしろい発想ではないかと思うのです。いわゆる正統派の知識人は、こんな乱暴なことは言えないだろうという気がします。

『無為を余儀なくされた有能な人間の集団ほど爆発しやすいものはない。そのような集団は過激主義や不寛容の温床になりやすく、いかに不合理で邪悪であろうとも、壮大な行動を約束してくれるならどんなイデオロギー的改宗でも受け容れてしまいやすいのだ。ヒトラー以前のドイツでは、すぐれて行動能力があるとみずから認じていた一群の人間が無為のまま宝のもちぐれさになっていたので、行動への無際限の機会を提供したナチス党に忠誠をつくしたのである。』

これもちょっと乱暴な決めつけに見えますが、しかし、ある種の真実を突いているのは間違いありません。いわゆる知識人は、何が正しいのかというイデオロギー対立に躍起になると、果ては枝葉末節な細部に分け入って、アレがおかしいコレがちがうという揚げ足取りのようなことに終始するきらいがあります。けれども、そのイデオロギーの中身がどんなに稚拙なものであれ、感覚的あるいは感情的に存在を掬い取ってくれるような熱狂のエネルギーに出会うと、いとも簡単にその熱狂に加わってしまうことは歴史的事実が証明しています。

ホッファーは、ヒトラー時代のドイツを引き合いに出していますが、もちろん戦前の日本も同様です。戦争へと傾斜していく軍国主義イデオロギーが、けっして知的に質の高いものであったとは思えませんが、積極的か消極的かはともかく、ほとんどの知識人がこれに賛同したのです。ファシズムのような熱狂がひとたび社会を覆いはじめると、これに賛同しない知識人は“役立たず”のレッテルを貼られるわけで、積極的に社会の“役に立つ”ことで自我の満足を得るためには、ファシズムに同調するのが近道なのです。「無為を余儀なくされた有能な人間」というのは、なかなか言いえて妙です。有能といわれる知識人、あるいは自分を有能と認められたい知識人は、社会に必要とされているという自己満足感が、生の大きな原動力になっているはずです。天才的な科学者たちが、原爆や毒ガスの開発に躍起になった理由のひとつだろうと思います。一般の庶民(大衆)にも、社会的な承認欲求はありますが、それは知識人ほど強烈ではないはずです。いわゆる庶民の感覚では、大向こうに認められ賞賛されたい欲望は低く、日々の平穏な暮らしがあれば満足だというのがふつうです。

もちろん知識人の社会的承認欲求の高さは、平穏なときであれば、社会的に有意義な仕事、ステータスの高い仕事、つまり社会の役に立つ仕事に、そのエネルギーが振り向けられる確率は高く、そのこと自体は本人の自尊心と社会への貢献が両者とも満足させられるWIN・WIN関係だといえるでしょう。けれども、ひとたびその歯車が狂い始めると、知識人は庶民以上に頑迷で自己中心的でタチが悪いというのは、けっこう鋭い指摘ではないでしょうか。

『穏健であろうとつとめているときでさえ、黒人革命の広報機関はわれわれを苛だたせ、軽蔑でいっぱいにするのだ。黒人はこういっているようにみえる。「私をあんたの腕に抱き上げてください。私は見捨てられ、虐待された子供なのです。私をあんたのお気にいりの息子として引き取ってください。私に食物と着物を与え、教育をほどこし、愛し、甘やかしてください。今すぐ実行してくれないとあんたの家に火をつけるか、戸口で腐ってあんたが吸う空気を毒してやるぞ」。』

いまのメディアでこういう発言をすると、まちがいなく炎上するだろうことを言っています。差別されている人たちが、自分たちの正義を振りかざして特権を要求するのは逆差別だ、というのに通じます。ただ、ホッファーが言っていることは、それほど単純なことではなさそうです。ホッファーは白人ですが、けっして恵まれた境遇にはありませんでした。黒人はたしかに差別されていますが、恵まれた境遇にある人もいます。この世のなかに存在する矛盾や理不尽は、黒人/白人問題に収斂するほど単純なものではなく、たくさんの要素が絡み合っています。にもかかわらず、黒人が白人に虐げられていることだけが、この世界の矛盾のすべてだという言い方をされると、不遇の白人たるホッファーは苛立ちを抑えられないのだということを正直に書いているものと思います。

この問題は、社会の至ることころで起こる問題です。「黒人差別はなくすべきだ」これは正しいテーゼです。けれども、いくらテーゼが正しいからといって、それを無制限に拡大主張することは正しくないかもしれない、ということを考えるべきだということです。いまイスラエルで起こっていることは、この問題を深く考えさせる契機になっています。

ヨーロッパにおける長年のユダヤ人差別、そして究極のホロコースト、それら苦渋の歴史を乗り越えてカナンの地にやっと建設されたユダヤ人国家、イスラエルは虐げられた人々の理想の楽園という理念を背負っています。その「正しさ」こそが、イスラエルの妥協を許さぬ強権的姿勢の根拠になっているのでしょう。しかし、だからといって、何をしても許されるはずはありません。大きな声で正義を主張する者たちには、必ず偽善の影が寄り添っています。

『黒人革命の問題性は、何をもって敵となすかという選択に本質があらわれる。それはおとなしい敵・・・真の敵は危険すぎる・・・を豊富に供給されることを望んでいる。そしておとなしい敵に出会う方法とは、自分の友人つまり白人のリベラルこそ、白人であるがゆえに敵なのだ、と宣言することである。ジェームズ・ボールドウィンやリロイ・ジョーンズのような人物が黒人の主張を生涯かけて擁護してきた白人のリベラルをそしったりなぶったりするとき、ほとんどこういう心理的歪みをそこに嗅ぎとることができる。』

これも、斜交いから見るようなきらいもありますが、なかなか鋭い指摘だとも思います。原理主義的な黒人解放論者が、自分たちを虐げる敵(白人保守派)を・・ではなく、自分たちに一定の理解を示すリベラリストを攻撃したりするのは、心理的歪みが原因だろうと指摘しています。この心理的歪みというのは、日本の例でいえば、かつての左翼が陥った内ゲバのようなものに通じると思われます。

近親憎悪ということばは、血でつながった関係は断ち切ることができないから、いったんそこに憎しみが生まれると、その憎悪は閉塞のなかで捩じれたり混線したり鬱屈したりして、手が付けられなくなってしまうことから生じたのでしょう。けれども、関係を容易に断つことができる他人であっても、自分と近しい関係であればこそ、あるいは同胞と見なされる関係であればこそ、いったん齟齬が生じはじめると、ことさらに異質な部分をほじくり出し、そこへ憎悪の矛先を向けてしまう、そういうことがしばしば起こります。はるか遠くの敵よりは、近くにいる味方のなかに敵を見出してしまうという心理機制です。

どうして、そういうことが起こるのでしょうか。簡単に答えられることではありません。ただすぐ思い浮かぶことは、おそらく「理知」によって起こるというより、「感情」によって起こるのだろうということです。人間というのは、そうそう理知によって行動しているものではありません。人間の行動理由は、相当程度「感情的なもの」に占められているというのが、わたしたちの実感ではないでしょうか。

適切な比喩とはいえませんが、マルクス主義的な図式を援用するなら、人間の精神というのは、下部構造が「感情的なもの」、上部構造が「理知的なもの」によって構成されていると見ることもできる気がします。感情とは何か?理知とは何か?をきちんと定義することは困難です。ただ、人間の心の動きを司る主な要因は、おそらく理知的なものではなく、感情的なものにあるといえるのではないでしょうか。フロイトが考えた無意識的なエスのようなものといってもいいかもしれません。

「差別はよくない」「誰とでも仲良く」というテーゼは理知の側からやってきますが、だれかを「批判したい」「やっつけたい」というような衝動は感情の側からやってきます。もし他者を批判したいという衝動が、自分を正当化したいという感情からやってくるのだとすると、その自己正当化の感情をさえ満たしてくれるような主張であれば、その中身が理知的に正しいかどうかは二の次になってしまうのでしょう。

一般に、言論の空間というのは理知的なものによって動いていると信じられているのでしょうけれど、言論といえども、けっきょく人間のすることですから、感情的なものを離れて存在することはありえません。いっけん表面的に論理的なことばも、感情の吐露であるにすぎないような場合が往々にしてある、そういうことが生粋の生活者であるホッファーにはよく見えていたのではないかと思います。

嫉妬や自尊心や憎悪や歓喜や正義感など、まず人間には感情的なものがベースにあるはずです。それはおおよそ、「こころ」と呼び習わされてきたもののことです。そして、その「こころ」に、宗教や論理やイデオロギーなどの「もっともらしい形」が外から与えられると、曰く言い難い実存的な感情は、たやすく多数の他者とつながれる共感(錯覚)を生んでしまうのではないかと思われます。いますこしずつポピュリズムが世界を席捲してゆくようにみえるのは、旧弊なリベラリズムのことばが偽善と欺瞞にまみれてゆくにつれて、うまく掬い取ることができなくなった曰く言い難い民衆の負の感情に、それが明解な答えを与えてくれるように見えるからではないでしょうか。

※『 』内は、「現代という時代の気質」 エリック・ホッファー(柄谷行人訳)よりの引用です。

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