親友の死が僕に与えた影響

身近な人の死が僕に与えた影響について。。。

人の死という非常にセンサティブな内容なため書くことを少しためらった。しかし生きている人間はその人の死を自分にとってマイナスに働かせるのではなく、ある種プラスに働かせるガソリンのような役回りに変える必要があります。その考えの基この記事を書くことにしました。

今の僕の思想は確実にこの出来事で大きく変化した。

大学時代の友人が亡くなった。大学時代は仲の良い5人でほとんどの時間を共にした。5人に共通して言えることは「自分勝手」である。やりたいことはやるし、やりたくないことはやらない。皆自分の意見をしっかり持っており周りに流されることを極端に嫌った。周りのチャラチャラして中身の無い会話ばかりしている集団が嫌いで、それを避けて自然に集まったのがこの5人である。

その中でも彼は、ムードメーカー、自分勝手だがここぞという時にはすごく気が利き、頼りがいのある人間だった。

彼と学生時代からよく話していたことが、「社会の歯車になるなんて、くだらないし絶対嫌だよな。やるからには自分が中心になる世界を作りだしたいよな。」僕は経営者、彼はミュージシャンになりたいと常々言っていた。

そんなこんなで私達も、嫌っていたはずの周りの大学生の例に漏れず、就職活動の時期になると、さも当然かのように自然に自分の夢を諦めて、就職活動を始めた。

最終的に私は一般の会社員、彼は公務員という社会人一歩目のスタートを切った。

毎年長期休みになると、全員で飲みにいくことが恒例になっていた。それぞれが、昔持っていた成りたい自分と現状とのギャップに愚痴を吐きながら酒を飲むという今考えると何も生産性は無いが居心地が良い会であった。

年を重ねるごとに、理想と現実のギャップへの愚痴から、今の仕事で達成した功績であったり、やりがいと言った話にシフトチェンジしていった。

しかし今思えば、彼だけは未だにどうしても理想と現実のギャップというものを抱えており一人だけ前に進めていなかったような印象がある。

社会人4年目に差し掛かったタイミングで彼が命を断ったと電話で連絡があった。すぐに全員が駆け付け、お通夜やお葬式を行った。実感が湧いていなかったことが現実味を帯びてきて、悲しみと絶望で一杯になった。他のメンバーにいろいろ話を聞いた。夢であったミュージシャンも中に入ってみると先輩バンドマンへの接待等でくだらなく諦め、公務員というレールに乗ってみたものの予想通りくだらなく、そもそも自分の実現したい世界は存在しない、生きている意味を見出せないという感覚になっていたようだ

それを受けてハッと思い出した。そもそも自分にも実現したいものがあった。見ないように目の前のことに必死に取り組んでいた内に、いつしか忘れていた気持ちがフラッシュバックした。

不幸にもこの時期に祖父、親友、愛犬といくつもの死に立ち会うことになった。自分だっていつ亡くなるかも分からないという事を痛感した。

自分はやりたいこと実現したいことに必死に取り組み、その上で死ぬ瞬間に後悔しない生き方をしなければならない。

自分の会社を作るということは自分の世界を実現できるかもしれない。できないかもしれない。やってみないと分からない。だから挑戦する。


さて、冒頭でも書いた通り、人の死に対する捉え方はいろいろとあると思う。ただ僕はマイナスばかりに捉えるのではなく、人生におけるガソリンに変えなければならないと強く実感した。そんな出来事でした。







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