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カンボジアで見つけた新たな国際協力のカタチ

まさに好々爺といった雰囲気の老人が、木陰でこちらを眺めている。

先日、私はカンボジア・プレイベン州にある『カンボジア日本友好学園』にいた。
独立行政法人 国際交流基金の国際交流プログラム『日本語パートナーズ』に参加し、カンボジア短期4期として現地の小学校から中等・高等学校、大学まで、幅広い教育機関で日本の文化紹介をおこなうためだ。

『カンボジア日本友好学園』は、

”1999年にコン・ボーン氏が創設した中高一貫の公立学校。首都プノンペンから車で約3時間のプレイベン州にある。以前よりボランティアベースの日本語教育がおこなわれている。”

と、派遣前の研修で基本情報を知った。日本語や日本文化に興味のある生徒がたくさん在籍している学校だと聞いていたので、一緒に派遣されるメンバー一同、同校での文化紹介活動をとても楽しみにしていた。

カンボジアでの日本文化紹介

活動当日は、午前の部・高校生、午後の部・中学生に分けて、それぞれのクラスで同じ内容の文化紹介をおこなう。

まずは教室で、日本の都道府県・お祭りを画像や動画で紹介。さらに、無地のうちわに日本語で好きな言葉を書いたり、日本から持参したステッカーを貼ったりするオリジナルうちわの制作をおこなった。
少しずつコミュニケーションを取りながら、徐々にお互いの緊張もほぐれ、生徒たちとの距離が縮まったタイミングで、校庭に出て、うちわを持ちながら阿波おどり体験。

生徒たちのキラキラした目が印象的だった

みんな笑顔で、私たちが用意したプログラムを楽しんでいた。私もホッとしながら、メンバーと一緒に後片付けをしていたとき、ふと冒頭の老人の姿が目に入った。

優しい眼差しをした老人の近くには、多くの生徒たちが集まっている。
一人ひとり、年上を敬うように顔の付近で手を合わせ、丁寧に挨拶をしている。
なかには、スマートフォンを取り出し写真を求める生徒がいたり、真剣な表情で老人に話しかける生徒がいたり。

そう、この老人こそがカンボジア日本友好学園の創設者コン・ボーン氏だったのだ。

私が知らなかったカンボジアの歴史

ボーンさんは、午前中の文化活動を終えた私たちに、ぜひ案内したい場所があると言い、向かった先は、生徒たちの教室がある校舎とは別の建物の一室。部屋のなかは、四方それぞれに写真やパネルが数多く展示されていた。

ぱっと見て、学校の沿革や表彰実績だとわかった。

直前まで、屋外で阿波おどりをして体中から汗をかいていた私にとって、クーラーが効いたこの部屋は、とても快適で、しばらく休憩できると心の中で喜んだ。

自身の体験談を語ってくださったコン・ボーン氏

すると、ボーンさんはそれぞれの展示物について、説明し始めた。
私は、クーラーの冷気で体力が回復していくのを感じながら、軽い気持ちでボーンさんの話に耳を傾けていた。
しかし、ボーンさんが『Short Biography of Mr. Kong Vorn』(コーン・ボン氏の略歴)の前でクメール・ルージュ時代の体験談を話したとき、私の気持ちが一変する。

「当時のクメール・ルージュ政権は、専門家や知識人、僧侶をはじめ、カンボジアの旧政権や外国とつながっているという疑いがあると、一斉に逮捕して躊躇なく処刑しました。

私も日本の新聞社に勤めていた過去がばれて、家族と離ればなれになり、処刑場のある森へ連れて行かれました。森へ着くとすぐ、布で目を覆われ、身ぐるみを剥がされます。完全に何も着ていない全裸の状態です。

捕まった人々は、一列に並び、少しづつ前へ進みます。何mか歩かされたあと、目隠しが外され、今置かれている状況に気付きました。私たちは、死体を棄てるために掘られた穴へ向かって、歩かされていました。

先頭まで行くと、背後からナイフで首を刺され、その穴へ突き落とされるのです。ついに、私の番が近づいてきました。辺りを見渡すと、すっかり夜が更け、雨が降り出していたので、真っ暗な闇に包まれています。

このまま何も抵抗することなく死ぬのは嫌だと思い、看守の一瞬の隙をついて襲い掛かり、全力疾走で森へ逃げ込みました。

必死で逃げたのですが、足が木々にぶつかり、激痛のあまり途中で体を伏せてしまいました。ただ、そのおかげで追っ手は私が伏せているのに気付かず、命からがら生き延びたのです。」

ボーンさんの言葉ひとつひとつが私の胸に突き刺さり、気が付けば涙が流れていた

その後、インドシナ難民として家族とともに日本へ来ることができたボーンさんは、言語や文化に苦労しながらも、周囲の日本人に支えられ、再度カンボジアに戻る機会を得る。

荒廃した祖国を目の当たりにしたボーンさんは、
「国を建て直すには、子どもたちに正しい教育をする必要がある。子どもたちが学ぶ場を充実させたい!」
と強く思い、カンボジア教育支援基金を設立。
日本の企業や団体、人々のサポートを受け、カンボジアに5つの学校を建てた。

1999年、自身の生まれ故郷であるプレイベン州に、この『カンボジア日本友好学園』を創立。日本からのボランティア教師を招き、日本語教育にも力を入れているとのことだ。

あまりにも凄惨で、心身ともに深い傷を負ったはずのボーンさんは、決してあきらめることなく、不屈の精神でカンボジアの教育制度の再建に寄与していた。

最後にボーンさんが私たちに掛けた言葉は、
「私は日本にとても感謝をしています。日本に関わることができたから、今の私がいます。あなたたちも、今日学校に来てくださり、学生たちはとても貴重な体験ができました。心から感謝しています。ありがとうございました。」

私がカンボジアに来てよかったと思えた瞬間だった。

『殺戮 荒野からの生還』を読んで

『クメール・ルージュ』
原始共産主義を掲げ、指導者ポル・ポトが率いた政治勢力または武装組織の俗称。1975年~1979年までカンボジアを支配し、『民主カンプチア連合政府(ポル・ポト政権)』として、同国を凄惨な時代へと巻き込んだ。

私が生まれる数年前まで存在していた政権にもかかわらず、ボーンさんの話を聞くまで『クメール・ルージュ』という単語だけを知って、カンボジアに大虐殺の負の歴史があったと理解している程度だった。

もっと当時の真実を知りたくなった私は、帰国後、地元の図書館で一冊の本を借りてきた。

『殺戮 荒野からの生還』コン・ボーン著

ボーンさんの著書だ。
本書は、クメール・ルージュ前のつつましくも優しさにあふれたカンボジア国民の様子をはじめ、ベトナム戦争によるカンボジア国内の混乱、クメール・ルージュ政権下における人々の暮らしなど、ボーンさんの半生と並行して、当時のカンボジア国内の変遷を記載している。

ちなみに、処刑場から脱走した直後の数日間も詳細に書かれている。まるで映画のような奇跡の連続と、ボーンさんの人望や知恵があったからこそ、絶望的な状況から生き延びることができたのだと理解した。

もともと日本の共同通信社で現地スタッフとして働いていたボーンさん。ジャーナリストならではの視点と観察力で、とても読み応えのある内容だった。

そんな当時のカンボジア情勢を内側から知ることのできる本書には、何人もの日本人の名前が登場する。もちろん、出会ったすべての日本人が良かったわけではないのだろうが、ボーンさんの記憶に残っていて少し嬉しかった。

今の私にできる国際協力

読み終えたあと、はたして私はボーンさんを含め、カンボジアの人々に何ができるのだろうかと考えた。
本のなかに登場した先人のように、まとまった資金援助ができるわけでもないし、日本語教師としてカンボジアへ赴任することもできない。

今の私にできることがあるとすれば、、、

そうだ、文章を書くことだ!

今回の体験を発信して、少しでも多くの人に、カンボジアの歴史や現状に興味を持ってもらいたい。コン・ボーン氏の存在や功績を知ってもらうきっかけをつくりたい。

これが私にできる国際協力のひとつだと考えて、この記事を書いた。

今の私にできること。それは微力だけれど、決して無力ではない。

そう信じて、自分なりの国際協力を続けていくつもりだ。

2015年に日本が開通した『つばさ橋』。カンボジアの500リエル紙幣にも描かれている


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