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彼女について①

愛とはなんであろうか。ここ数年、そんな問題にぶつかることが度々ある。
それを探るために誰かと色々な愛の話をしたいのだけど、どうにもむず痒い。そこで考えた。
気恥ずかしくて、恋人にすら滅多に愛など伝えられないが、宛先のないラブレターでならば愛を語れるかもしれない。
ふと、そう思いなんとなく書き始めてみている。

彼女の話をする。

彼女とは、まだ出会って半年くらいだ。ものを書く人で、彼女の紡ぐ言葉は等身大な誠実さを持っていて、好感が持てる。
人との関わり合いにおいて、年月というものが関係性の深さを証明する重大なものであると信じていた僕にとって、彼女とのつながりは価値観を揺るがすほどのものであると言えるかもしれない。

人生のある瞬間から人々は、どこかよそよそしさを残しながらお互いを「友達」と呼び、友人関係を構築するようになる。踏み込みすぎず、踏み込ませることもない。そんな距離感のある関係性が、かつては虚しく思えていた。お互いの全てを公開し、それを知った先に本当の理解や、繋がりがあると信じていた。しかし、全てを曝け出すことが、必ずしも相手に対する誠意の表れでないことは、この4、5年で僕が学んだことの一つでもある。人と人との距離感には、それぞれ性質があるということなのではないかと考えるようになった。

彼女とも、はじめは単によそよそしいものだったように思う。それでも妙に愛想の良い彼女とは話しやすく、僕は自然と自分の思っていることを言葉にすることができた。多くの場合、僕の中では「相手はこんな話興味ないかな」「いきなりこんな入り組んだ話は迷惑がられるかな」という自意識と、「でもこれが自分だしな」という自己表現の欲望が喧嘩をして、そのうちに時間は流れていき、うまく会話をするタイミングを逸する。これは僕がコミュニケーションをする上での大きな悩みの一つである。
しかし彼女は、「私あなたの話を聞いているよ」という副音声が聞こえてくるような、優しげな眼差し添え棒読み仕立ての相槌で、会話をつなげていった。そうなると僕も彼女に様々な自分のことを話しても良いのかもしれないという気がしてくる。後日会って話したとき、全然僕との会話の内容なんて覚えていなくて(ついでに顔も忘れられていた)、「いや、全く聞いてないではないかこの娘」とはなったのだが。しかし、他者に対してそのような雰囲気を持った接し方ができる人は、少なくとも僕にとっては関わりやすい存在であったし、自身もこうでありたいなと思わされたのである。

彼女との会話は、きちんと成立する。大抵の会話は、言いたい内容が正確に伝わっていないためか、相手の返答が噛み合っていないなと感じることがある。そういう時、僕は「そうじゃなくて」という言葉を挟んで、摩擦を感じながら話題の軌道修正をする熱量は持っていない。というか、きっと僕は会話というものはその程度のものだと思っている。同じ言葉を発し、共感の意を表して、なんとなく分かり合えた気分だけ持ち帰れば、普通はそれで良いのだ。まるで少し腐った果物を拾って、うまいうまいと言い合って食べるように。
しかし彼女との会話においては、自分の伝えたいことを伝えることができ、それを受けて発される彼女の言葉がよくわかる。しっかりとひとつのテーマに対して、議論を掘って行けるのだ。当たり前のことのようだが、なかなか出来ることではない。少なくとも僕は家族以外でそのような経験をすることは多くはない。そのことだけで僕は彼女のことがずっと特別に思えるようになった。

彼女とはよく映画や小説の話になる。
特段、彼女と抜群に趣味が合うわけではない。むしろ作品の好みに関しては逆の意見のことも多い。しかし、いや、だからこそ良いのだ。
どいつもこいつも、価値観の合致を関係性において優位に扱いすぎている。同じ趣味なら話題は尽きないし、好きなものが同じならその良さを分かち合える。それはたしかに素晴らしいことだ。しかし、それが無いからといって誰かと誰かの関係を壊すほどの重大さは、価値観などには無いと僕は思う。もしそういうことがあるとすれば、その関係自体が、価値観の共有のみに依存する脆弱なものだったということに過ぎない。僕らは、一つがだめになっても他の魅力で繋がりあえるよう、関係性を育てていく努力をすべきなのだと思う。

ところで、僕はSNSを利用するが、めったに「いいね」を押さない。心から良いと感じ、この先も不変の熱量で良いと思い続けられるものにしか僕の「良い」という評価を与えたくないのだ。要するに、プライドが高い。そんなくだらないプライドなんて価値がないと思いつつも、僕が押す「いいね」にはどうしても責任が伴うような気がして、気軽に押すことができない。その場の勢いで「いいね」を押してしまったら、後でやっぱり「良い」には達してなかったのではないかと思い悩んだ末に、いいね外しを行ったりする。これが好意だと思われたらどうしよう、なんて考える。自分の「良い」の市場価値を下げたくない上に、自分の「良い」が他になにか大きな意味を持ってしまうのではないかと想像を巡らせてしまうのだ。全く、どこまでもプライドが高くて自意識が過剰な男だ。うんざりしてきた。
しかしそんな僕でも、彼女には手加減なく「いいね」を押せる。だって彼女は「良い」。そして、その「いいね」を過剰な好意やその他の意味に取られる心配を全くしないで済む。だから、僕は彼女に平気で出会えて良かったと心から述べることができる。なぜなら、彼女は結婚していて、この関係性は、そんな言葉ごときではどこにも向かうことがないからである。

彼女に対しての感情は、異性として「あなたが好きです」という好意よりは、人間的に「素敵ですね、あなた」という好感であることが僕も彼女もわかっているから、変な自意識に邪魔されずに思う存分伝えることができるのだ。
どこまで行っても僕は彼女の人生のプライベートな側面には無関係な存在なのだと思うし、その立ち位置を気に入っている。

僕らはしばしば、唐突に互いを呼び寄せ、酒を片手に今まで述べたようなどこにもたどり着かない愛などについての話をする。その中で、彼女の、闇雲に感嘆の声を漏らすのではなく、適切な距離感で興味を持って人の話を聞く姿勢が美しいなと感じている。それは大袈裟な共感や、過剰な好奇心など伴わない、中立的な興味だ。僕は自分の主張がわりと常にある方だが、決して相手を巻き込んで自分の意見に賛同させたいわけではない。だからこそ時には少し冷たいと思われそうな彼女のその距離感が、僕にはちょうど良い。相手を敬えばこそ、取れる距離感だなと思うのだ。

僕は彼女のことを全ては知らない。どうやって生きてきて、どんなことに傷ついて、何に救われてきたのか知らない。知らないことの方が多いかもしれない。でも別にそれで良いのだ。
単に踏み込み合わない関係とは違って、根本的には無関係であることに自覚的な僕らは、見せたくない場所や見たくない場所をお互いに敬意を払って避けることで、お互いの良いところだけを楽しみ合うことができる。
そして、その関係性を尊いと思う。

だから僕は、また彼女と酒を飲みたいと思うのだ。

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