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危険な読書のススメ〜愛と幻想のファシズム

 これが書かれたのが1984-1986年というのがまず驚きだ。まだ昭和だし、昭和天皇健在だし、バブル前でもある、そんな時期に、来たる日本を憂いて、バブル崩壊と更なるアメリカの属国へまっしぐらになるであろう日本政府を憂いて記された小説。いやもうタイトルがタイトルだから、少し敬遠してるうちに30年以上経ってしまった。

1987年と言えばもう一人の村上、村上春樹は「ノルウェイの森」の特大ヒットな年でもあり、その頃は本屋に行くと「あなたはどちらの村上が好き?」的な感じで、同じぐらいの幅を使って店舗に置いてあったと記憶する。そんな自分は、このblogを読んでくれている人には明白なように村上春樹派ではある(読了書籍数ベースで)。だが個人的には村上龍の政治への造詣が深いところは好きで、彼が過去主催していたメルマガ読者でもあり、触れていた時間は大差ないかもしれない。

 どうしてこの本を今更読もうとしたか?と言うと、同じく俺が大好きな内田樹氏も触れていたことがあった(はず)で、いつか読まなきゃなとここ数年思っていたから、と言うのが一つ。そしてこのblogでも記した、「グローバリストに抗したヒトラーの真実」と言う本を読んだから。昨今のSNS上の厳しいコンプライアンスによる発言自粛だったり、はたまた逆に「自分の政治的意見は言え!」的な空気感の狭間な今、最も敬遠されていると思しき「ファシズム」とはなんぞや?いやヒトラーとはなんぞや?と言うものを分かっておく必要があると個人的には感じていてね。あと同じぐらいマルクス〜資本論に関しても知っておかないといけないのではないか?「触れてはいけない」と言う空気感だけを理由に学ばないのは逆に危険じゃないか?と思っていてね。ある種の宗教と一緒かもしれない。宗教というだけで洗脳と言うだけで敬遠するのではなく、なぜ信者がいるのか?そしてどれぐらい危険か?もしくは実は危険じゃないのではないか?などを各自が考えれるようなバイタリティを持たないと、逆に大手メディアか文春砲の垂れ流す情報の信者になってしまうじゃないか?と。

 うわー我ながら危険な領域のことを記してるのかもしれない、と思ってる自覚はある。だからblogに記している。自分がまた何年後かに読み直しても参考になる感想文を書いておこうと言うのが目的だ。もうこのまま前置きだけで終わってもいいんだけど、一応感想文的なものも記しておこう。


『愛と幻想のファシズム』村上龍 著 1987

 先に記したようにこの本「愛と幻想のファシズム」は1987年に書かれているが、ある種の予言書めいたことにも結果的になってしまっている。バブル崩壊はもちろんのこと、電化製品から自動車を軸にどんどん世界を席巻していくバブル日本をどのようにしてぶっ潰すか?と言う欧米、特にアメリカを中心とした動きがあるであろうこと。この本の中では大手企業が合体した「ザ・セブン」と言う団体が世界を席巻していくさまが描かれるが、その「ザ・セブン」は昨今言われるDSと同じだ。もはや国という単位ではなく、経済を軸にした別な枠組みが世界を再構築していくであろうことは、現在に鑑みても当たっていると言っていい。下手な国よりもAmazonとかMicrosoftとかAppleとかマクドナルドの方が世界への影響力がある訳だからね。

 まだ冷戦期に書かれているんだけど、冷戦崩壊と米ソの接近も予測されているし、中国のその後の暴走も予測されている。が、村上龍はあとがきでも記してるが、それ自体はどうでもいいと言っている。予言書として書こうとしたのではないと。著者が記そうとしたのは、この資本主義な「システム」が覆い尽くす世界をひっくり返すにはどうすれば良いのか?をテーマに記した小説だとのこと。この後に書かれる『五分後の世界』なども「もし日本が太平洋戦争で降伏しなければどんな世界になっていたか?」を小説にしたものだし、『半島を出よ』は「北朝鮮がもしクーデターをおこして日本に攻め込んできたらどうなるか?」という小説だしね。

 なにせ著者村上龍は「どうすれば日本人が日本人としてのプライドを持った社会を、この世界の中で構築できるのか?」を軸にしていろんな形の物語を記してきたんだとも言えるかもしれない。

 そういう意味では、かなりハードボイルドなタッチではあるけれど(その一点が理由で俺はハルキ側の方が好きなのだけど)、ある男たちが偶然をきっかけに立ち上がり、日本政府から果ては欧米の有力者たちを手玉にとっていくこの小説は小気味いい物語ではある。そしてトージという主人公がトップの政治団体の狩猟社も、小説の中で周囲からはファシズムと呼ばれたりしているが、自称はしない。この、自主性のない国日本がプライドを持って立ち上がるにはある程度の荒療治が必要なのかもしれないし、周囲の国からは一時的にはファシズムと呼ばれる行程を経ることも必要なのかもしれない?という設定で、結果「南」「第三世界」という扱いの国々もまとめて一つになっていけそうになるところで物語は、終わる。蔓延るアメリカ式資本主義を倒せそうなところで、終わる。「システムを破壊するためにシステムを作ってしまっただけなのかも?」という自問自答と共に。

 小説の役割は色々あるけれど、現実逃避やファンタジー(一緒かもだけど)や背中を押すポジティブ物語だけではない、こうしたかなり政治的で、世間的に危ない領域とされるところに未来へのヒントがある(かもしれない?)という切り口の物語もあっていいのではないか?改めてそんなことを思う読了感でした。

 ただ、この本の下巻を買いに行こうと思ってかなりの本屋をまわってみた時に(なるべくAmazonで買いたくなくてね)、文庫本は村上春樹は数十冊置いてあっても、村上龍は数冊、場合によっては置いてないことの方が多いという事実にビックリした。あの頃の「あなたはどちらの村上派?」という時代の面影は全く残っていない。フィクションとは言え、切り口が直球なものが多い村上龍はもはや危険図書扱いなんだろうか?

 実は村上春樹も充分に政治的な視点は小説の端々にあるんだけれど、表看板のようには出していない、その、暗号のような佇まいじゃないと今の時代を記しちゃいけないのかもしれない、本屋が扱ってもくれない、人々に届かないのかもしれない。そうしたカウンターカルチャーとしての小説の存在しづらさは残念だけれど、音楽よりはその先鋭性はかろうじて守られている気もする。街の小さな本屋でもある程度まではとんがった本は売られてるし、売れてるわけだからね。

 円安は進む一方の昨今だけど、この小説内でも円安がぐいぐいと進んでいく(1$=¥500まで!)。それへの対処が後手後手でダメな政府というのも小説内と現実は一致してしまっている。政府をバカにするのは簡単なんだけど、(それを転覆させるにはまずは選挙だとして)、その更に次のビジョンを俺たちはどう描くべきなのか?史実を含めていろんな物語を読んでおくことはこれから生きていく上では大事なことのように思った。

危険な読書と思われるかもしれない読書は今こそ大事なことなのかもしれない。

1987年の小説にそんなことを思わされましたとさ。

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追記 (5.2.2024)

 そう言えば村上龍氏はメルマガ他いろんな場所で、世の中が順調そうな時こそそこに孕む膿を描き出す必要がある、的なことをおっしゃってた気がする。そういう意味においてはこの小説「愛と幻想のファシズム」はバブルに向かう上向きな時代に記された「まさに!」な小説であったことを思う。が、昨今の誰もがストレスを感じる時代、社会や政治の問題点を指摘できる時代、に必要な物語はその逆ではないか?そう思うと、この手の物語は今必要とされるものか否か?は微妙にはなってくるのかもしれない。そういう意味においてはやはり村上春樹氏の方が「個」を描き方が今の時代にフィットしているように思えてきた。

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