眠らなければ死ぬ
遂に100万部を突破した(大嘘ですよ!!!)『まともがゆれる』を書いているとき、夢中になっているうちに次第に朝も昼も夜もなくなり、つまり生活がグチャグチャになってしまって、内心「こんな生活をしていたら絶対にアカン気がする……」とうっすら思いながら、それでもやめることができなかった。
責任感もあった。伝えたいこともあった。締め切りもあった。いろいろあった。
でも結局、「書くことが好きな自分」が最大の動力源だった。
1年ほど前だったか、ある好きなことばっかりしている人が、「このまま好きなことばかりし続けたら死にますよ」と、どなたかに言われたそうだ。
この話を聞いた当時は「聞いたことねー」と笑ったが、今は「なるほど、めっちゃ分かるぞ」と思っている。
たとえば子どもは楽しくってテンションが上がりまくっているとき、もはや自分の(その日の)体力を超えていても、日が暮れても、お寝むの時間が来ても、アホみたいに遊び続けようとする。
そしてその挙げ句、最後は「そこ、どこ???」みたいなところで、電池が切れたみたいにグースカ眠っていたりする。
つまり子どもの動力源はシンプルだから、然るべきタイミングで勝手に「落ちる」(=強制的に眠らせる)仕組みになっているのだろう。
でも、この強制グースカがなければ子どもは一体どうなるだろう?
対して大人の動力源は「大人は遅くまで起きててもだいじょうぶ! このプラモが完成するまでは眠らないって決めたんだもん!」とかいう根拠なき自信&決意によって、本人に止める気がなければ動き続けてしまう。
子どもが大人になるその瞬間を美しく切り取った長田弘の『あのときかもしれない』は、胸がキュンキュン鳴りっぱなしの名詩集だ。
僕は思う。
眠気の限界を超え、夜中の2時を過ぎてもプラモデルを作り続けたあの夜が、大人になった瞬間だったのかもしれない、と。
ちなみにこれはたとえで、僕はプラモデルというものをこれまで一度も作ったことがない。
でも、言うまでもなく子どもも大人も同んなじ人間だし、どんな大人だって子どもの延長を生き続けている。
そして賢ぶってるだけで、どちらと言えばバカなのはいつだって大人のほうなのであり、その日のエネルギーが切れ、然るべきタイミングで勝手に「落ちる」(=強制的に眠らせる)仕組みのほうがよほど高性能……というか、そもそもこの仕組みは子どもであろうが大人であろうが関係なく、生物として本来的に備わっている大切なものなんじゃないだろうか。
では、なぜ眠るのか?
それは「眠らないと死ぬから」である。
ああ、「睡眠が大事」という、これまで100億回くらい聞かされてきたあのフレーズが遂に腑に落ちるときがやって来るとは。
そうか、いろんな人が一生懸命「大事、大事」言うてたのは死ぬからだったのか。
分かりにくいなあ、もう!
「死ぬよ?」って、はっきり言ってくれたら、もっと早く寝たのに。
本を執筆中に感じた「アカン気がする……」の正体。
それは即ち「死」であった。
いや、簡単なことだ。「食べなければ死ぬ」と皆が知っているように、「眠らなければ死ぬ」も、人が本来的に持っている真理のひとつ、分かりやすく言えば「死なずに生きる基本」みたいなもののはずだ(なんじゃ、そりゃ)。
師弟の問答風に書けばこうなる。
「師よ。ずっと眠らなければどうなりますか?」
「う~んと、いろんな段階があるけど、最終的には死んじゃうよね!」
僕は二十歳頃から不眠に悩むことがままあって現在も眠剤ユーザーなのだが、不眠そのものより「眠れないかもしれないこと」を恐怖している自分を自覚している。
そして「今夜も眠れない。いろいろできるぜ、ラッキー!」とならないのは、「生活リズムが乱れる」とか「眠れなければ明日が辛い」とかよりもっと深い、「眠らなければ死ぬ」という根源的な恐怖感が根っこにあるような気がするのだ。
でも、そうか。やっぱり、そうなのか。
だから村上春樹やイチローやカズはめちゃくちゃ規則正しい生活を送っているのか(今は知らないし、すべて聞きかじりやけど)。
いや、こんな有名人たちの名前を出すまでもなく、僕の平和の物差し、ミサさんは「美味しいご飯を食べてお風呂に入って10時には寝ることが一番の幸せ」と悟った人かのように語り、見事なまでにその生活を守り続けているではないか。
先日、久しぶりに『崖の上のポニョ』を観た。
「そうすけ、好き~!」を強烈な原動力にして、天変地異を引き起こしながら生き生きと駆け回るポニョは、突然、それまでの元気な様子が打って変わったように、ラーメンを食べながら深い眠りに落ちてしまう。
恐らくあのままのテンション、エネルギーで走り続けていたら、さすがのポニョもヤバかったのだろう。
まさか、巨匠・宮崎駿をもってして伝えたかったことがこれだったとは。
眠らなければ……。
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