【ネタバレ注意】シン・エヴァンゲリオンを観て分かった、エヴァシリーズの本質を理解するための最も重要なキーワード
皆さんこんにちは、こんばんわ。名古屋めし料理家 兼 25年来のにわかエヴァファン、Swindです。
シン・エヴァンゲリオン、いよいよ本当に公開となりました!
感慨無量とは、正にこのことですね……!
TV版から足かけ25年。いよいよエヴァンゲリオンがエンディングを迎える。
最初に観たのはまだ学生の頃。実はTV版は追いかけて無くて、友人から誘われていった「旧劇場版」がファーストコンタクトだったんですよね。
当時の感想?「え?なにこれ???」、まさに人類ポカン計画でした(笑)
そこからずーっとにわかファン。破以降は公開初日には見に行っちゃう、でも初回上映に並ぶほどの気合いはないにわか度合い。
うっかり予告編の分析動画なんか作ったりしても、にわかなのでいろいろ見落としていたり……
それでもやっぱり公開は待ち遠しくて仕方がありませんでした。
今回も公開初日、でも初回ではなく夕方の回で早速観てきました。
いやぁ、思うところてんこ盛りでしたね……!
せっかくなので、私が観たエヴァの感想、そして「シン・エヴァンゲリオンとはどんな物語だったのか」についての私見をまとめたいと思います。
ここからは作品の本質に触れるネタバレを含みますので、ネタバレ防止に公開初日の夕食画像を貼っておきますね。
ネタバレ喰らいたくおいしいご飯の画像をぜひもしゃもしゃしてください。
名鉄名古屋駅でエヴァコラボの大きな広告があったようですが、見逃したのが痛恨でした……
さて、それでは準備はよろしいでしょうか?
それではネタバレ入り感想&考察、スタートです。
==== ここからネタバレ ====
シン・エヴァンゲリオンを観て最初に出てきた感想。
「ああ、これで本当に終わったんだ」でした。
TV版、旧劇場版、序・破・Q、マンガ版などなど全てのエヴァンゲリオンを紡ぎ、エンディングとしてきちんとまとめられたシン・エヴァンゲリオン。
そして、シン・エヴァンゲリオンを見終わったことで、エヴァがどのような物語として描かれていたかようやく理解することができました。
その最も重要なキーワードが「テーゼ」。
主題歌のタイトルにもある哲学用語、日本語では「命題」と訳されることが多いですね。
そして、テーゼという言葉が登場するとき、セットとして出てくる言葉が2つあります。
一つは「アンチテーゼ」、もう一つが「ジンテーゼ」
アンチテーゼは分かりやすいですね。テーゼのアンチ「反対命題」を指します。秩序がテーゼなら、アンチテーゼは混沌。有がテーゼなら、無がアンチテーゼ。肯定と否定も然り。ざっくり言うとこんな感じですね。
もう一方の「ジンテーゼ」とは「統合命題」、テーゼとアンチテーゼという矛盾した命題を本質的に統合した命題を指します。いささかわかりにくい概念ですが、ここではふんわりと「そんなもんかぁ」と理解して貰えば十分です。
そしてシン・エヴァンゲリオン。これはまさに「エヴァンゲリオンシリーズのジンテーゼ」として描かれたものでした。
シリーズを通じて描かれてきた様々な「テーゼ」と「アンチテーゼ」、これをシンエヴァでは「ジンテーゼ」として見事に描ききっています。
それを最も象徴していたのが「槍」。
シンエヴァではこれまでにも登場していたロンギヌスの槍とカシウスの槍に加え、第三の槍「ガイウスの槍」が登場しました。
シンエヴァでは、ロンギヌスは「絶望の槍」、カシウスは「希望の槍」として描かれていますね。
絶望の槍を持つ13号機にはゲンドウが、希望の槍を持つ初号機にはシンジくんが搭乗。心象世界とも呼べるマイナス宇宙の中で、相反する意味を持つ二つの槍をぶつけ合い、戦います。
そう、「テーゼ」と「アンチテーゼ」がまさにぶつかり合っているんです。
しかし、それでは終わらない。場面は幾度も変わり、何度槍をぶつけても終わらせることができない。
これはまさに「テーゼ」と「アンチテーゼ」の関係を示唆しています。
なぜなら、テーゼとアンチテーゼは「互いに対立する」と同時に「対立という関係で相互に結びついている」から。
一方を消した瞬間、もう一方も消えてしまう関係なのです。
有が無を押しつぶせば、有は有でなくなる。無が有を呑み込んだ瞬間、無は無でなくなる。絶望のロンギヌスと希望のカシウスをぶつけ合っても、どちらか一方だけを残すことは不可能なのです。
つまり、必要なのは「絶望」と「希望」という互いに矛盾する概念を両方とも内包した「ジンテーゼ」へと昇華させること。
哲学的にはアウフヘーベン(止揚)されると言うそうです。
一方を正当とし他方を否定するのではなく、両方をともに保存する。
それをシンエヴァでは第三の槍「ガイウスの槍」として表していました。
ガイウスの槍が持つ意味は「意志」。
解釈はいろいろ出来そうですが、私が「希望があろうと絶望が待っていようと、周りに流されるのではなく自らの意志で進む」ということを示唆していると理解しました。
意志=ヴィレの代表者たるミサトさんが運んできた「第三の槍」がロンギヌスとカシウスを結びつけて「ガイウスの槍」となる。
これは、まさに「テーゼとアンチテーゼ」から止揚された「ジンテーゼ」を直接的に示唆したものと言えましょう。
同時にシン・エヴァンゲリオンが、25年間かけて庵野監督がようやくたどり着いた、「全てのエヴァンゲリオンシリーズのジンテーゼ」である何よりもの証左だと私は理解しました。
そして、テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼという観点で見ると、これまでありとあらゆる角度で考察されていた物語が、非常にすっきりと理解できるようになります。
例えば新劇場版のサブタイトル。
序は「YOU ART (NOT) ALONE」、破は「YOU CAN (NOT) ADVANCE」、Qは「YOU CAN (NOT) REDO」。
いずれもNOTで結びついた対立する命題、まさに「テーゼ」と「アンチテーゼ」ですね。
シン・エヴァンゲリオンにはこうしたサブタイトルがありません。
なぜなら「ジンテーゼ」だから。
序・破・Q(さらにはTV版や旧劇場版などあらゆるシリーズ作品)で描かれてきたエヴァンゲリオンの「テーゼ」と「アンチテーゼ」を統合し、結実指せた作品であるがゆえに、テーゼとアンチテーゼを織り込まなかったのでしょう。
そしてQが何故「人類ポカン計画」となったのかも、シンを観ることで非常によく理解できるようになります。
すなわち、Qとは「破のアンチテーゼ」。
破で「行きなさいシンジ君!」と肩を押したミサトさんは、Qは「何もしないで」と言う必要があったんです。
ジンテーゼである「シン」を描くためには、不可欠なパートであったのです。
もう一つ言うと、旧シリーズ(TV版・旧劇場版)と新劇場版(序破Q)もテーゼとアンチテーゼの関係にありそうな要素がてんこ盛りですよね。
例えば、旧エヴァ終盤である意味「最も女性らしいキャラクター」であったリツコが、Qではベリーショートの「女性を捨てたキャラクター」として描かれていたり。
旧エヴァではシンジ君に殺されることを望んだカオル君が、Qではシンジ君と共闘しようとしていたり。
シンエヴァを観てからの後付けにはなりますが、エヴァシリーズの中で無数の「テーゼ」と「アンチテーゼ」を見つけることが出来ます。
この辺りの考察もじっくりとやりたいところなのですが、切りが無くて終わりそうにないのでまた別の機会に……というか、もう少し整理の時間を下さい。
何にせよ、「シン・エヴァンゲリオン」は過去全てのエヴァシリーズのジンテーゼとして描かれたからこそ、エヴァシリーズが無事にエンディングを迎えられたのだと感じました。
庵野監督、スタッフの皆様、本当にお疲れ様でした。素晴らしい作品をありがとうございました。
そして、さようなら全てのエヴァンゲリオン。
委員長「さよならはまた会うためのおまじないよ」
さて、次はいつ見に行こうかな。
(追記)
続きの考察、書きました。
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