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都会の男女の韓ドラの話。

こんばんは。marです。


「都会の男女の恋愛法」をご存じだろうか。
Netflixでちょうど昨日9話が配信されて、
今見終えたところだ。
30分という昔の韓ドラのような長さで、
見るハードルも低いので普段韓ドラを見ない人でも見やすいのではないかと思う。
ちょっと今の気持ちを書きたくなった。

「僕が好きだった人は誰だったのだろうか。」

今日一番印象に残った言葉だ。
ネタバレしてしまうのは良くないので
極力気をつけよう。。
抽象化して語るので私たちの次元の話だと思って聞いてください。

「明るくて美しかった彼女はどこに行ったのだろう。」
「彼の前では、輝いている私でいたかった。」

彼は彼女の天真爛漫で明るく、美しいところが好きだった。彼女もそれが分かっているから、彼の前では「彼の好きな私」でいた。
彼は自分に見せる彼女の姿がありのままですべてをさらけ出していると本気で思っていた。
だって自分がそうだったから。
自分がそうなら相手もそうなんだろうと疑うこともしなかった。
でも実際は違った。
実際の彼女は、まあいろいろな事情がありまして、「彼の好きな私」とはかけ離れていた。
多分、「彼の好きな私」が「私のなりたい私」でもあったんじゃないかなと思う。
「天真爛漫で明るく、美しい」
これは彼女の一部だ。ほんの一部。
それでも彼はそんな彼女が好きだといった。
なのにそうじゃない部分を見ると、
最初に述べたセリフをつぶやいてしまう。
それも彼女の一部なのに。
彼が好きだといった彼女なのに。

(このドラマの場合、設定がいろいろありすぎて、混乱しちゃう彼の気持ちめっちゃ分かるし、彼女の方もなんか悲しくて切ないんですとりあえず。しかもまだお互い好きなのに。)

人を好きになるってなんだろう。
顔がタイプ。優しい。性格がいい。価値観が合う。居心地がいい。などなどいろんな要素があると思うが、言葉で表現するのは難しい。
「好き」という気持ちは目に見えないから。
心で感じて頭で理解して口で言葉にしてようやくその気持ちは表に顔を出す。感情って見えないから見えないものを証明するのは難しい。
だから私たちは「言葉」を使って気持ちを表している。
思っているだけでは、
誰にも何にも伝わっていないんだなあ。
いや、言葉にしたとしても
100パーセント思いを伝えるのは
難しいよなあ、と痛感する。

結局「好き」って難しいよな、という話。
リゼロでも、
なんで私を信じてくれるの?と私が悪いのになんで許すの?とエミリアちゃんが超絶儚い涙を流すシーンで、スバルが
「君が好きだから。」と答える。
ええええ!!!
好きだから信頼する。好きだから何でも許せる。そうゆう理論か、、。
でも、かわいい子にモテモテなスバルが言うのだから間違ってはいないのか。
スバルの場合、ダメなエミリアも全部好き的なこと言ってて、彼が無条件にモテるのに妙に納得した。
もちろん完璧な人間なんていないから、
いい所と悪い所がある。
好きな人にはもちろん自分のいい所を見てほしいと思う。最初は絶対そうだ。
それが、いい所だけじゃなくて悪いところも含め全部を見せられるようになることが「好き」を超えたところの境地なのかな、
なんて考えた。

このドラマの面白い所は、
登場人物にインタビューする形式をとりながらストーリーがつながっていくところだ。
さすが映画業界で今一番お金を持っているというNetflix様。

「元恋人と再会したらどうする?」
「別れたら思い出の品はどうする?」など
自分だったらどうするかな、
と考えながら見るのが楽しい。
(まんまと作品に引き込まれている。)
事実こんなにまで考えを巡らせてしまっている。

次はどんなことを考えさせられるんだろう。
そろそろキュンキュンするのがいいなあ。

それではまた。


mar.

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