本音と価値観は分けて考える
この間書いた、「嫌いな人」のはなし。
ほんの一週間で、
「あーやっぱり嫌いな人の嫌いなところは、自分の嫌いなところだなー」と実感してしまった。
言葉と言動が伴ってない人。
はい、私でーす。
誰かを批判したり、強く指示することはないけれど、
単純に、「こうしようか」「こんなふうにしたらいいんじゃないか」と自分から提案したことを、自分でやれない。
やれないことは提案すべきじゃないと思う反面、そればかりでもないのが悩みどころ。
「私がやりますよ」という提案は、安易にペラペラしない方がいいと思うけど、
チームとして、組織として実行するなら、まず第一歩として、実現可能かどうかに関わらず「こうした方がいいんじゃないか」という提案は、してもいいと思う。
私はどちらもやってしまってどちらも後から後悔するし、うまく意図が伝わらないこともあるので、そこの区別を自分なりにちゃんとした方がいいのかなあなどと思っている。
語ってもいい夢物語と、しない方がいい提案。
もともと口数が少ないから、提案は全て「本当にやりたいこと」「できること」として捉えられてしまう傾向もあるのかもしれない。
いや、捉えられる、というより、自分がそう思っているだけかも。
言ったことはやらなくちゃ。できないことは言っちゃいけない。と。
本音の部分では、できなくても、やりたくなくても、組織のためや相手のためになることは提案したくて、
やるかやらないか、できるかできないかはそのあとでもう一悶着あればいいと思ってる。
だけど、これまでの人生で培った価値観として、「言ったらやる」「できないなら(やらないなら)言わない」がしみついているかも。
なんか小さい頃とか、こう言うこと言われてきた気がする。親とか、友達に。「できないなら言わないで」っていうワードは、聞いたことがあるよ笑。自分が言われたとも限らないけれど。
自分の本音と価値観のズレはこんなふうに自分を苦しめるのかな。
この価値観がなければ、もう少し自分のストッパーが緩くなると思うんだけど。
少し前から、アダルトチルドレンというものの情報を集めていて、その中に、
「自分の本音が出せなくなっているから、まずはそれを見つけだす」みたいなことが第一歩として書かれていたんですが
多分これもそのひとつかな。
「こうすべき」「こうするべきでない」に隠れてどこかにいってしまった本音がたくさんある。私のことばの裏にはいつも「〜べき〜」がぺったりとくっついていて、私の思考を緩やかに変えてくる。
妖怪みたいな、背後霊みたいなそいつを見極めて、ぺりっと剥がす作業を一つ一つ続けていくことで、本音と価値観は分けて考えることができそう。
この二つが別にあるんだなってことは、今書きながら思った。
価値観って少し間違えると評価みたいになってしまう。
とはいえ、自分の本音がどうとか価値観がどうとか以前に、自分のこと嫌ったり攻撃したり、できないところ指摘したりするのはあまりに自分いじめが過ぎるので、そろそろ控えたいな。
今週は自分いじめすぎてなんだか本当に疲れた。
自分のことは友達のように扱った方がいいよね。物理的にも、精神的にも。
距離が近いと嫌なところはたくさん見えてしまうけど、まあ悪い奴じゃないよ、案外面白くていい奴。信用できるところもあるし。
自分が嫌いという話から、まあいいやつ、というところまで持ってこれました。
週末はだいじだいじな予定があるのでがんばります✨
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