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宗教について思う 10 ものを学ぶときは (『宗教について思う 9』の補足)

宗教について思う 10 ものを学ぶときは  (『宗教について思う 9』の補足)








先日、

私は、宗教は平等を、

神様の前で人間の価値が平等であるということを
教えるべきなのではないか?

ということをお話ししました。



補足のような形になるのですが、

そのことに、

ひとつつけ加えさせていただきたいと思います。




私は、

宗教は人間の価値の平等ということを教えるもので
あるべきだと

思っています。



でも、このことは、


宗教的なものを学ぶ上で、

学年の差のようなものがなくてもよいということを

言っているわけではないのです。




ものを学ぶ上で学年の差があるということと、

存在の価値が平等であるということとは、

けして矛盾しないことです。




たとえば、


ある両親のもとに、

小学校に通っている兄と、

幼稚園に通っている弟の兄弟がいたとします。


このふたりの兄弟は、

学年は違いますし、

当然できることも違いますが、


両親は、

別に学年の差や

できることの差によって、

子供の可愛さに上下をつけたりはしないでしょう。



両親の愛情の中では、

子供たちに学年の差があるということと、

子供たちの存在の価値が平等であるということとは、

矛盾なく両立しているはずです。


(愛情の中でのみ、
このふたつのことは矛盾なく両立するのだと思いますが。)






私の家の近くにキリスト教系の大学があり、

有名な神学部がありますが、

当然、そこでは学生は学年によって分けられていると
思います。


宗教が人間の価値の平等を教えるべきである
ということは、

そのようなことまで否定するものではない、


ということははっきりさせておくべきことであると
思います。





どのような学問であっても、

(それが、一般的な学問ではなく、

キリスト教の神学や仏教の仏教学のような
宗教的な学問であっても、
あるいは修道院や禅寺での宗教的訓練のようなものであっても。)


学ぶときは、

一歩一歩、はじめから順番に、

段階的に学んでいかなくては、


結局、分からなくなってしまうものであるからです。







白鳥静香



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