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白鳥静香先生の言葉より 141 根  トランプ大統領の大統領令、そして五月のフランス大統領選に寄せて

白鳥静香先生の言葉を紹介します。


トランプ大統領の大統領令、そして五月のフランス大統領選に寄せて







白鳥静香先生の言葉より 141 根








私は「人権」というものを人類の宝物であると思っています。



「人権」とは法律的に明記された具体的な様々な
権利のことですが、

根本的にはそれは人間の「尊厳」を守るということであるでしょう。


「尊厳」とは、相手の生命が、存在が尊いものであるということです。








では、「尊厳」というものの、

生命や存在が尊いということの根拠はどこに
あるのでしょうか?





それは、自然科学からは出て来はしないでしょう。


「尊厳」ということは自然科学において有意味な
概念ではないからです。

「尊厳」は自然科学の認識の方法論の中では定義できず、
居場所のない概念であるからです。






では、それは、法律的な契約関係から出てくるのでしょうか?


法律的な契約関係もまた、「尊厳」の根拠とはなりえ
ないと思います。


歴史のなかにおいては、(ナチスドイツがそうしたように)

自国の経済が危機だという理由で人権(人間の尊厳)が権力によって、

いえ、むしろ、その国のごく普通の市民の意志によって法律的に
停止されることもあるのです。




法律的な契約関係の後に「尊厳」が出るのではなく、

逆に、「尊厳」の方が先になければ、
おそらく本当の意味で「尊厳」が守られることはないでしょう。



法律とは、その歴史が示しているように、
必ずしも、人間の「尊厳」を守ってくれるものではないからです。


法律の歴史とは、権力者が勝手に自分に有利な法律を
作らないよう、

そして、どのような権力者がつくった法律でも、
奪えない「人間の権利(基本的人権)」

つまり、「尊厳」というものを守ろうとしてきた歴史であるのです。








自然科学からも、法律的な契約関係からも「尊厳」という考えが
出てこないとしたら、



では、「尊厳」の根拠とはどこにあるのでしょうか?

「尊厳」とはどこから出てくるものなのでしょうか?







理性的な答えではありませんが、


私はそれは結局、私たちの感覚(五感という意味ではなく)からでは
ないかと思います。






かつて、アフリカで医療活動をし、密林の聖者と呼ばれた
シュヴァイツァー博士は、

川をカバの群れを避けながら船で行くとき、

突然、「生命への畏敬」という言葉がひらめき、

それがこれからの人類にとって大切な思想になると思った
といいますが、




「尊厳」というものの根底には

単なる理性的な思考や、
法律的な契約関係よりもむしろ、

そのような、理性では定義できない感覚的なものが
あるのではないでしょうか?





感覚というと根拠がないことのように聞こえるかもしれませんが、



でも、それが、感覚であるからこそ、

理性的な思考や法律的な契約関係とちがって、

自分が不利な状況であっても、
他者のなかに尊厳を見失わないでいられるのではないかという
気がするのです。







歴史のなかでは、

豊かで穏やかな時代は、誰もが他者の尊厳を尊重します。

でも、経済が極端に悪くなったり、戦争やテロの恐怖があるとき、
人間はそうではなくなります。


それは歴史のなかで現実に起こったことです。


そのようなとき、理性や、法律的な契約関係だけで
「人間の尊厳」という考えを受け入れている人は、

他者のなかの「尊厳」を見失ってしまいはしないでしょうか?





ただ、感覚的に他者のうちに「尊厳」を見ることのできる人だけが、
感じることのできる人だけが、

自分が不利な状況のなかにあっても人間の「尊厳」を見失わずに
いられるのではないでしょうか?











そして、私は、その感覚とは、
芸術的な感覚に近い気がするのです。



芸術家が、たとえば、

歌人が本当に詠みたいものと出会ったとき、

画家が本当に描きたいものと、

フォトグラファーが本当に撮りたいものと出会ったとき、


その人たちは、必ず、存在の輝きにうたれ、驚くのです。






私は、「尊厳」とは、そのような感覚に近いと思うのです。

(シュヴァイツァー博士も芸術家です。医師でもありましたが、
パイプオルガン奏者でもありました。)







もちろん、芸術家はすべての人に輝きを見出だすわけではなく、
モチーフをえり好みするので、

完全とはいえませんが、


それでもまだ、芸術にはほかの活動より、「尊厳」に近い感覚が
残されている気がするのです。







もっというなら、「尊厳」の感覚は、

まだ芸術ではなく、まだ何でもないものなのかもしれません。



でも、そのまだ何でもない感覚が分化して、

歴史のなか、

ひとつの枝は芸術となり、

もうひとつの枝は、他者の「尊厳」を守るという道徳や法律に
なってきたように見えるのです。






感覚というと、とても原始的な感じもしますが、

どのような立派な幹も、

どのような立派な枝も、

根に支えられ、根に生かされてはじめて生きることができるのです。





私は、「人権」や「尊厳」という理性的な思想の根底に、

まず、生命の、あるいは存在の「尊厳」にたいする感覚こそが必要である
と思うのです。












2017年現在、世界ではポピュリズム政党が台頭し、

「人権」や「尊厳」を重く考えない人たちがふたたび力を
持ってきているように見えます。

その根底にはテロリズムへの恐怖や、拡大した格差への不満が
あるのでしょう。



でもそのような状況であっても、

いえ、そのような状況であるからこそ、
私たちは「私たち自身の尊厳の根拠がどこにあるのか?」ということを

ふたたび自分自身に問いなおさなくてはいけないのでは
ないでしょうか?




「尊厳」ということの根拠について私のよりももっとよい考えが
きっとあると思います。

私の考えはつたない考えであったかもしれません。




でも、今、ひとつだけ確かであることは、

私たち自身が人間の「尊厳」ということについて自分自身の頭で
考えてゆかなくてはならないということです。







私たちがどのような状況のなかにおかれても、けっして人間の「尊厳」を
見失ったりしないように。


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