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白鳥静香先生のノートより モンテカルロ・ノート 7 人間を知るということ   アーノルド・J・トインビーの歴史の見方

白鳥静香先生のノートより 





モンテカルロ・ノート 7 人間を知るということ








私たちはみな人間です。


でも、私たちは、

人間というものがどのような生き物であるか、

必ずしも知らないのではないかと思うのです。




私たちはみな、

自分自身や、自分の経験から、

人間とはこのようなものだという

イメージを作って他人と付き合っています。



他人と付き合うとき、

あるいは社会に対するとき、


私たちは、自分のなかの人間という存在に対するイメージをもとに、

自分の生き方や態度を決めているはずです。







でも、考えて見ると、

ひとりの人間の経験は、

人間という存在を知るには、あまりにも狭いものなのでは
ないでしょうか?





たとえば、アリを一匹だけ巣から連れてきて観察しても、

アリとはどのような生き物であるかということは、

分からないと思います。



群れで暮らす生き物は、

群れ単位で観察しなくては、

それがどのような生き物であるか、けして分からないでしょう。





人間という生き物を自分の経験だけで理解しようとするのは、

それに近いことです。



どのような経験豊かな人であったとしても、

ひとりの人間の経験は、

人間という存在を理解するには、あまりにも限られているからです。







20世紀の有名な歴史家であるアーノルド・J・トインビーは、


「歴史を学ぶには、現代史だけではなく、

古代史を学ばなくてはならない。

古代史は始まりから終わりまでが完結しているからだ。」


ということを言いましたが、


たしかに、せめてそのくらいのタイムスパンで見なくては、

人間という存在の輪郭さえ見えてこないのではないでしょうか?





もっと言わせてもらうなら、


アリやほかの動物なら、

数世代を観察すれば、そのあともそれが続いてゆきますが、


人間の場合は、ほかの生き物と違って

常に変化し続けるので、

本当はそれでもまだ分からないはずです。







人間が、人間とは何かを本当に知るのは、

おそらく、「ヒト」というひとつの生物の種(しゅ)が終わり、

歴史のすべてを知ったとき、


いえ、変化の可能性のことまで含めるなら、

それでもまだまだ、はるかに足りないでしょう。






しいていうなら、

人間とは、


歴史のなかで起きたすべてのことと、

起きる可能性のあるすべてのことの合計のことなのです。





人間とは、

私たちの認識と想像とをはるかに越えた、巨大な可能性そのものの
ことなのです。


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