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お江戸お仙の千里眼「それぞれの千里眼」

 谷中笠森稲荷門前の鍵屋の向かいに小島(おじま)屋という蕎麦と飯を出す店があった。蕎麦も飯に付いてくる香のものも良い味だったが、そこが浅草寺の門前ならいざ知らず谷中の田舎の稲荷門前である。徐々に広まってきたお仙人気で水茶屋鍵屋の客は増えつつあったが小島屋はいつも閑古鳥が鳴いていた。
 店主の鶴兵衛は善良な男ではあったが特に商売の才覚がある訳ではなく、良い物を安く出すということ以外に考えはなかった。だがそうした「真っ当な商売」は成り立たなくなった。昨年の冬、タチの悪い風邪が流行ったのが不運だった。年末・年始の客が激減してどうにもならず、店を抵当に金貸から金を借りるしかなかった。春になっていつものように客が増えればさほど無理をしなくても金は返せるはずだったが流行風邪は春になっても収まらず、すっかり当てが外れてしまった。そうこうするうちに利子が利子を生み、今年限りで店を人手に渡すしかなくなった。店を手放せば借金は残らない。また一から始めれば良い… そう思うしかないのであった。
 そんなある日、また借金取りが来た。この近くで取立ての用があると「利子を取りに来た」と妙な理屈を言ってただで昼飯を食って行くのである。そんな道理があるかと心の中で思いながらも恐ろしさには抗えず、鶴兵衛は蕎麦と飯を出すのであった。
 借金取りが小島屋を出た時、お仙が通りの反対側からその様子を見た。縄暖簾越しに借金取りを睨みつける鶴兵衛の顔には深い苦悩が見て取れた。お仙は小島屋に客が入っていないことも知っている。特に義理がある訳ではないが、小さい頃に鶴兵衛とおかみさんに可愛がられた覚えがある。お仙は客が切れたところで「ちょっと小島屋さんに行ってくる」と五兵衛に言って小走りに通りを渡った。五兵衛が不思議に思っていると客が来た。
「お茶、頂けます?」「いらっしゃいませ」と言って客の方を向くと客はお仙と同じ年頃の娘であった。町娘ではあるが身なりは明らかに大店のそれであり、何より驚いたのはその娘の光を放たんばかりの美しさであった。五兵衛がびっくりして「お客さんは…」と言うと、女の後ろにいた手代然とした男が「柳家と申します。お茶を一ついただきましょう」と言った。女が「お前もおあがりなさい、佐吉」と言うと、男は「では私も頂きます、お藤お嬢様。店主、お茶は二つで」と言った。それを聞いて五兵衛は女が最近浅草界隈で「美也」と評判の柳屋お藤だと確信した。お仙が最近親しくしていると言っていたあのお藤だ。
 五兵衛は商才のある男である。目の前のお藤はお仙に引けを取らない美しさだ。二人組にして歌と踊りでもさせたら絶対に儲かると思った。(名は… 「薄紅娘」が良い。必ずウケる。いや、もう一人揃えて三人で「飴玉三人娘」などとしてはどうか。いや、いっそのこと同じ年恰好の娘を四十八人も揃えて歌って踊っての興行を打てば大儲け間違いなしだ…)構想が次々と浮かんでくる。「あの、もし?」異様な眼光でお藤を見つめる五兵衛にお藤が声をかけた。「あ、お茶二つでしたね。失礼しました。いつもうちのお仙が親しくしていただいているようで、ありがとうございます。どうぞ今後も仲良くしてやってください。お仙はちょっと向かいの小島屋に行っていますがすぐに戻りますので」と頭を下げた。お藤は、人が自分と目が合ってあたふたするのには慣れていた。そんな時にどういう顔でどんな所作をしたら良いかも心得ていた。今も曖昧に微笑んでやや頭を傾けわずかに膝を折った。それを見た五兵衛には再び雷が走った。「これだ!」と思った。単なる容貌の美しさならお仙が勝つかもしれないが、化粧、髪、服や飾りの趣味やもの腰まで入れたらお藤の勝ちだと五兵衛は思った。(お藤を参考にまずはお仙を仕込んで… いやその前に踊りを習わせるのが先か… とにかくお藤とはもっと親しくさせた方が良い)そんなことがどんどん頭の中に浮かんでくるのである。
 お茶はお仙が入れるのが最近の鍵屋の方針であった。五兵衛は小島屋の方に「おーい、お仙、お客様だよ」と声をかけたが、声が届いたかどうかは怪しかった。店には今、五兵衛しかいない。往来の向こうとはいえ客をおいて店を空けるのは流石に躊躇われた。そんな様子をお藤が見てとった。「お仙ちゃんは向かいのお蕎麦屋さんにいるのですか?」と五兵衛に聞いた。「へえ、何の用だか… いや、すぐ戻りますから」「それなら私が呼んで来ましょう」「いえいえ、お客様にそんなことはさせられません!」「それじゃ、客としてではなく、友達として呼んで参ります」と微笑みつつ言って腰を上げる。手代も腰を浮かせ「私が…」と言いかけたが、お藤は「私が行きます。お前はここで休んでいなさい」と言った。佐吉はお藤の人となりをよく知っている。こういう時は無理に止めると機嫌が悪くなる。「分かりました」と言って座り直した。五兵衛は相変わらず恐縮しているが、お藤は見に行きたかったのである。日頃お仙がどういう生活をしているのかを。
 お藤が小島屋に近づくと店の中からお仙の声が聞こえた。お藤はゆっくりと歩みながら立てるともなく聞き耳を立てた。入口近くまで行くと、縄暖簾の隙間から店の中を覗いた。
「…なのね。それじゃ、上手くいくか分からないけど、やってみるわね」「やってみるって、何を?」お仙は左手の人差し指を口の前に立てて鶴兵衛の話を遮ると、そのまま左手の甲を口ものに当てて目を閉じた。すると俄に辺りが異様な雰囲気になった。鶴兵衛には何も分からなかったが、お藤はお仙の周囲に真っ暗な穴が口を開きそこから得体の知れない力があふれ出るを感じて驚愕した。自分が千里眼を出す時も異様な空気が周囲に満ちる。でもそれは空気が澄み渡るような類のものだ。だがお仙のそれば、見通すことも出来ない深い所から善とも悪とも判別できない何かが湧き上がるような類のものであった。自分の千里眼は果たしてこれほどのものかどうか… お藤がそう思っているうちにも異様な空気は渦を巻きながらお仙の左袖の辺りに凝縮していきやがてふっと消えた。するとお仙がゆっくりと目を開き「鶴兵衛さん、今すぐにお店を出て十数えてからお稲荷さんの方を向いて、『ツルツルの鶴兵衛蕎麦、美味しいよ! いらっしゃーい!』って大きな声で言って」「何でそんな…」「いいから早く!」促されて鶴兵衛は店を出た。店先にいたお藤に気づいて軽く会釈をして通りの真ん中まで行った。鶴兵衛を目で追ったお仙もお藤に気がついて驚いたが、お藤が右手でお仙がものを言うのを止めて鶴兵衛を見守っていたのでお仙もいったん鶴兵衛を見守った。鶴兵衛は通りの真ん中で十まで数えると大きく息を吸い込んだ。その刹那、稲荷から七、八人の男女の参拝者が鳥居をくぐって出てきたのである。その事実にお藤は息を呑んだ。「ツルッツルの鶴兵衛蕎麦、美味しいよ! いらっしゃーい!」と鶴兵衛は大声で言った。すると小島屋と反対方向へ行こうとしかけた参拝者たちは「おや」とか「お腹空いたね」などと言いながら向きを変えて小島屋の方に歩いてきた。「蕎麦でも食っていこうよ」「そうね」と話しつつ鶴兵衛に近づき、「親爺、八人入れるかい?」と聞いてきた。「えぇ、えぇ、八名さま、どうぞどうぞ!」と言い言い店に招き入れ、奥に向かって「お客さんだ。お茶を八つ!」と言った。すれ違いざまに「お仙ちゃん、何だか分からねぇがありがとよ!」とお仙に言って店の奥に消えた。お藤はまだ衝撃の中にいた。お仙の千里眼はここまで正確に行く末が読めるのか。お仙は自分の千里眼のことを事も無さげに話していたのでピンとこなかったが、まさかこれ程のものだったとは… そう思った。その時お仙が「お藤ちゃん、どうしてここに?」と間の抜けた感じて聞いてきた。
「近くで用事があったから立ち寄ったのよ。そしたらあなたはこっちにいるって聞いたから迎えに来たの。お仙ちゃんの千里眼、見せてもらったわ…」
「あぁ…」
「…ただ、もしもこのお店にお客を呼ぼうというのなら、今日だけ手助けしても意味は薄いわね」
「それは…」そうだとお仙も思った。今日はたまたま上手くいったが自分の千里眼は思うようにならない。仮になっても毎日ずっとやり続ける訳にもいかない。お仙が困った顔をしていると、お藤はクスッと笑って「あたしもやってみるわ」と言うと、右手の甲で両目をふさいだ。
 お藤の周囲に異様な気配が渦巻いた。周囲の空気の透明度と純度が極限まで上がるような感覚が起こり、お藤の頭頂あたりが白く輝いた。恐らくお仙以外の者は誰もそれを感じなかっただろう。だかお仙は震えがくるほどの力に圧倒され、尻餅をつきそうになった。それはすぐに収まった。お藤はゆっくりと目を開くと「見えた」と言ってため息をつきながら微笑んだ。「何を見たの…?」お仙が聞くとお藤は
「この辺の道や建物の位置関係を。笠森稲荷の…」
と言ってお藤は笠森稲荷の方を指差して
「鳥居の右の… あの辺り。あそこに小島屋さんの立て看板を出すと良いわ。きっと効果があるはずよ。今はお客さんで忙しそうだから、落ち着いたら教えてあげて」
と言う。「うん。そうする…」答えながらお仙はつくづくお藤を凄いと思った。自分と違ってお藤は常に物事の全体を俯瞰している。行く末まで見えているのはむしろお藤の方だ。もしお藤が男で侍だったら、きっと田沼様のようにもなれただろう。そう思ってまじまじとお藤の顔を見ているとお藤は「あ、そうそう。お茶を貰いに来たのよ。戻って早く入れてちょうだい」と言った。
 二人鍵屋に戻ってお仙はお藤と手代にお茶を出した。お藤はというと、小島屋から鍵屋に戻る間そしてお茶を啜っている間、表向きの笑顔と受け答えとは裏腹に色々考え込んでしまった。お仙のあの圧倒的な力は自分のものとは格が違う。あれは一体何なのだろう… それなのにお仙は水茶を入れながら自分の父親に小島屋の経緯とお藤が立て看板の案を出したことを話し、盛んにお藤を凄い凄いと言っている。お藤としては苦笑いするしかなかった。「やめてよお仙ちゃん。なんか嫌味に聞こえるわ」笑顔ながら半分本気で言うが、お仙は「えぇ? どうして? 何が嫌味なの?」と返す。全く他意はないのである。他意がないのが良く分かるからこそ、お藤はさらに何かが癪に触るのであるが、さすがのお藤もそれがどういう心の動きかは分からなかった。ただ佐吉だけはお藤の心理の要点を了解していた。通りの向こうからお藤と共に歩いてくるお仙を見た瞬間に全てを了解した。そもそも近くで用事があるとは言っても、鍵屋はかなりの回り道であった。普段のお藤ならわざわざ来ることはないはずだ。またお藤が自分にも茶を飲めと言ったことも不思議だった。それらが全て一度に分かった。お藤は嫉妬しているのだ。嫉妬しながら魅かれているのだ。恐らくお藤は、見た目の美しさでお仙には勝てないと思っている。そしてお仙のあっけらかんとした屈託のなさも、奔放な性格も、恐らく自分にはない好ましいものと見えているに違いない。生まれた時からお藤を知っている佐吉であればこそ分かるお藤の心のひだである。この時、佐吉はまだ千里眼のことは知らなかったが、彼はお藤の正しい理解者であった。黙ってお茶を啜りながら、彼はお藤を微笑ましく眺めるのであった。一方でもう一人、五兵衛は五兵衛で、その場の会話とはかけ離れた考えを巡らせていた。(…いずれお仙の関連商品を売り出す時に、小島屋とは業務提携をして商売を広げるべきた。先に小島屋で飯を食うと赤い判子をもらえるってのはどうだろう? その判子を持って鍵屋に来てお茶を飲めばお仙根付を贈呈… これ、いけるんじゃないか? お仙の話だと年の瀬には店を手放すとか。その前に何らかの手を打たないとまずい。まずは俺の蓄えで小島屋の借金を肩代わりして… 大丈夫。お仙がいればすぐに回収できるはずだ。投資と思えば安いものだ。判子の件で小島屋にも旨味があるからきっと話に乗ってくる。だがそのためには、もっと急いでお仙を売り出さないと…)
 その場の空気を吸い吐きしているだけのお仙を除いて、皆それぞれに思うところのある鍵屋であった。 


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