見出し画像

「分人主義」∈「文人主義」

私は作家の平野啓一郎の思想「分人主義」についてときどき、考えている者である。
私自身小説家を目指して小説を書いてもいる。
以前書いた、『哲学の場所。「分人主義」を批判する』という記事は、私の記事では最も多くの人が読んでいる記事だと思う。
 
分人主義とは個人を人間の最小単位と見做すのではなく、個人もさらに細かい分人という単位に分けられるという考え方だ。これは例えば、友達といるときの分人と、恋人といるときの分人と、家族といるときの分人という風に、人間は分人を使い分けて生きている。つまり、本当の自分はひとつではない、という考え方だ。これは現代思想の主流だった、本当の自分を見つける、というひとりの本当の自分という束縛から解放する思想である。
もともと個人主義は、個人というひとりを最小単位として構成する。これは法治国家においては絶対に確実なものとされている。そうでなければ法律は成り立たなくなってしまう。
 
さて、この分人主義だが、小説を書く私が思うのは、この発想が小説家平野啓一郎のまさに小説家というアイデンティティから生まれたのではないかと考えが及ぶことがある。
つまり、小説には三人称小説がある。一人称小説は「私」の視点で書かれたもので、多くが「私」の内面を掘り下げたものである場合が多い。これは純文学などと呼ばれることもある。しかし、多くの小説家は私の見る限り、三人称小説を書くことに憧れるようだ。
例えば、村上春樹は一人称小説を得意とする小説家である。彼の一人称小説に魅了された人は多いのではないだろうか。しかし、彼は『1Q84』という小説で三人称を使った。彼の得意の「僕」という一人称ではなく、客観的な三人称だ。
なぜ、小説家は三人称に憧れる傾向があるかというと、それは、三人称で書いた小説が書いていて一番面白いからだ。三人称小説はまるでスポーツを見ているような感覚である。複数の個人が動き回りそれを自由な視点で書くことができる。小説ではその登場人物の内面を掘り下げることも可能だし、ただ、神の視点で、この人物がこう動き、他の人物がこう動いたら、こういう結末を迎えたとするのも可能だ。それは物語の醍醐味のひとつであると思う。その三人称小説をモデルとして現実となったのが、法治国家の社会である。
先に述べたように法治国家は個人主義である。個人はそれ以上分けられることのない最小単位である。しかし、その中には小説家という職業人がいる。彼彼女は自分の頭の中に、自分の作品の登場人物をつまり個人を複数持っている。これは分人というのとは違うが、個人の中に複数の人物がいるという点は分人主義に似ている。小説家は少なくとも執筆中は頭の中に複数の人物がいる。それは品行方正な人物であったり、殺人者であったりする。いろいろな人物がいる。この中のひとりの言葉をその小説家が発したからといって、それがその小説家の思想を表明したことにはならない。小説家は作品全体を通して、自分の思想を表現するのであり、作中の一人物のセリフが小説家の思想を表わした言葉であると考えるのは勘違いである。小説家のような頭の中に複数の個人を持った人を「文人」と呼んでみたい。もちろんこれは「分人」と同音異義語であるところに掛けたのだが、これは偶然ではない。なぜなら、小説家は昔から「文人」と呼ばれてきたからである。文人はその中にペルソナとも分人とも言えるかもしれない複数の個人を持っている。
小説家だけが文人ではない。小説を読むのが趣味の人、あるいはそうでない人、いや、多くの人が頭の中に複数の個人を持っている。それらの人はもしかしたら殺人者を頭の中に持っているかもしれないし、品行方正な人物を頭の中に持っているかもしれない。この文人は個人主義の世界に晒されると少し弱いタイプの人間になってしまうことがある。ある意味では優柔不断の人物と見做されることもあるだろう。その反対に個人主義に完全に乗っかった人がいるとして彼彼女は社会内で個人として生き抜く強い力があるだろう。
しかし、強く生きるだけの人でいいのだろうか?つまり、たったひとつの個人として生きるだけでその人生は豊かだと言えるだろうか?それを考えるための文学であり小説であると思う。
そんな小説を書く人間である小説家平野啓一郎から出た「分人主義」は個人の単一性に異議を唱えたものである。唯一の個人ではなく、人は分人の集合体として見る思想である。
このように平野が思想を提出したのは従来の「文人」の在り方のひとつであり、個人主義者から見れば、「分人」などとわけのわからないことを言うのは「文人」である。
「分人主義」もそうだが、文人は新しい人間の在り方を切り開くタイプの人間である。法律行為や経済活動に忙殺されている個人主義者にはない発想を文人は持っているのである。そのために文学書を読み、日々考えているのである。その表現手段は小説や詩であったり、マンガや映画かもしれない。いずれにしても複数の自分を持つ文人は、唯一の個人を生きる人に比べて現代の社会に合わない人であり、先に述べたように優柔不断に見えたりするが、その優しさなど、経済活動とは離れた場面で重要になるものを多く持っているタイプの人間である。そういうタイプの人間を尊重する思想を私は「文人主義」と呼びたい。
「文人主義」は「分人主義」のように新しい思想を生み出す源泉である。文人は至る所にいる。そして、一般的に弱い立場にあることが多い。しかし、その数は相当なものである。むしろ、個人主義に完全に乗った強者よりも数は圧倒的に多い気がする。文人の特徴であるかもしれない先に出した「優柔不断」という言葉も分解すれば、「不断」は良くないが、「優柔」はけっして悪くないのである。
モノやカネだけではなく、どうしたら豊かな社会、人生になるかを考えるのが文人であり、それを尊重するのが「文人主義」である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?