物語を読む時間
最近、私は読書をしていない。
書く一方だった。
小説家になりたく、小説を書いていた。
それが結末を迎えると、私はどの物語にも属していない体になった。
小説家になって有名になるという成功物語を夢見ていたはずの私は、四十代になりそれを今現実にしなければならない年齢となって、単なる夢ではなくなってきた。
成功物語を人生のレールのように夢見ることは若い頃には特徴的にあるものだ。
最近はお笑い芸人などの人生がテレビで取り上げられることが多いが、芸人は売れるまでは貧乏な下積み時代をしなければならず、そこがまた若者を惹きつける要素であると思う。そういう私も介護士という低収入の仕事に甘んじているのは、小説家になるという夢を追うハングリーさが欲しいからである。
四十五歳、あと十五年で定年である。
独身だからもちろん子供もいない。
以前は、小説家になって出会いの機会も増えれば結婚できるだろう、などと思っていたが、結婚を夢物語と絡めるのは卒業したい。
むしろ、結婚しても夢を追うことを許してくれる人と結婚したい。
すべてを夢に結びつけることはやめた。
例えば、次に買う車はポルシェにする、をジムニーにするに変えた。介護職でも実現可能な夢だ。
成功物語一本の上に人生の全てを組み立てるのは危険である。
なぜなら、成功物語は実際の人生ではないからだ。
と言うのは夢が叶わないのが実際の人生と言うのではなくて、夢が叶ったとしても、実際の人生と成功物語は違う。
物語は物語として独立して存在している。
これが現在私がどの物語にも属していない浮遊感を感じることにも繋がる。
私は物語を書いているとき、現実の生活がその物語を書いている途中のエピソードとして物語執筆を軸に生きることができる。しかし、書き終えてしまうとその軸がなくなり、浮遊感を覚える。小説家になる成功物語も現実ではないと気づいている今は、書き途中の小説がなくなると、よりどころがなくなってしまう。
まだ、結末まで書いた小説は完成はしていない。手は加えていかなければならない。
しかし、結末まで書いた物語の時間の中には生活の軸を置くことができない。
そこで、他の人の小説、物語を読んでみようと思うに至った。
物語を読んでいると、その時間は読書中の時間として生活の時間からは切り離された時間となる。
作家は物語を書くことでそこに時間を閉じ込めることができる。物語には創作された時間が閉じ込められている。だからこそ、私たちは物語を読むことで自分の生活の時間とは別の時間を経験することになる。
私は基本的に物語は紙の本で読みたい派である。
紙の本は時間を閉じ込めた物体として手の中に確かな手応えとしてある。もし本棚に並べるならば、私たちは時間のコレクションを並べることになり、物の所有欲を満たすと同時に、時間そして世界を所有する満足感が得られる。
まあ、紙の本にこだわらなくとも、物語は時間を閉じ込めたものであることには変わりはない。
しかし、物語がないと生きていけないというのは私の弱さである。
強い人は物語無しで生きていける。
成功物語が実際の人生ではないように、物語自体が実際の人生ではなく、人生の一部というか一視点から観た人生を切り取ったものに過ぎないからである。
私は小説家である、というアイデンティティは欲しい物だが、いついかなるときも小説家の顔で生きるわけでもないだろう。
人生には物語が複数ある。複数どころか無限数あると言っていいかもしれない。
そのうちのひとつを軸にするのは弱い生き方である。
しかし、人間はみんな物語にすがりたい弱い生き物かもしれない。
読書をしない人でもその精神を具に見れば一定の世界観を軸に生きているものだと言えると思う。
読書は前述したように他者の閉じ込めた時間を追体験できる行為である。
物語を読むことで、自分の人生の時間を何重にも増やすことができると思う。
さて、考察したことを書くのはこの辺で終わりにして、自分の小説を推敲するか、他の作家の物語を読むことにしよう。
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