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死刑と反撃と戦争の論理と感情

うちの娘が殺された。犯人が憎い。殺してやりたい。この手で。娘が殺されたと同じやり方で、心臓を一刺しぐさりとやってやりたい。でも法治国家日本ではそのような仇討ちは許されていない。犯人を裁き刑に処すのは国家である。国家が代わりに仇討ちしてくれるのだ。
 
では、自分の故郷が外国によるミサイル攻撃に遭い、家族も親族も友人も思い出の場所もすべてが殺され破壊された場合、その「敵国」に対する憎しみは誰が晴らしてくれるのか?国家であるのか?そのための反撃能力か?しかし、それは「敵国」にも同様な憎しみを産む。憎しみの連鎖、終わらない報復攻撃の応酬。それが戦争だ。
 
法治国家に死刑がある場合、それが国家によって仇討ちの肩代わりをしてくれるという論理の場合、それは報復戦争の論理にも通じる。専守防衛?反撃?死刑?よくわからない。誰が国家を裁くのか?より強い国家か?最強の国家を誰が裁くのか?
 
こんなことは昔から考えて来られたことだろう。私は今日初めて、反撃や戦争と死刑が頭の中で結びついたので、文章癖も手伝ってここに書いた。

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