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【小説】消えた小説

 私には妻がいた。勤めていた介護施設で同職であった女だ。特に美人というわけではなかったが、私は彼女を深く愛した。彼女とは仕事上のことでよく口論をした。彼女は「ドS」と言えばいいのだろうか、きつい性格だった。私より十も年下だが、対等に口論した。私は口論するたびに、彼女に惹かれていった。そして、ある日、また口論している最中に、私は言った。
「おまえ、俺と結婚しろ」
「はぁ?なんで、あたしがあんたなんかと結婚しなきゃいけないのよ」
「じゃあ、おまえ、彼氏とかいるのかよ?」
「いないけど、それと今問題にしていることとどう関係があるのよ?」
「じゃあ、俺と結婚しないなら、他に当てはあるのか?おまえ幾つだよ?三十過ぎてて相手がいるのかよ?」
「だから、それと今問題にしていることは違うでしょ!」
「じゃあ、いいのか?結婚しなくて?俺ぐらいしかしてくれる男はいないんじゃないか?」
「だから、それと・・・」
「俺はいいんだぞ。別におまえじゃなくても。でもな、おまえと言い合っているとな、すげえ、おまえが可愛く思えるんだよ」
「そんなこと・・・」
「返事をしろよ、イエスかノーか?」
「・・・」
「今すぐ返事しろ。俺の気が変わらないうちに」
「じゃあ、・・・イエス・・・・」
こうして私たちは結婚した。
 結婚してからも自宅のアパートで、よく口論した。些細なことでもきつく言い合った。そうすると、私は性的に興奮し、その夜は激しく交わった。そんな新婚時代を過ごした。
 ところで、私は介護士をしながら小説家を目指していた。毎日、仕事から帰ると、パソコンに向かって小説を書いた。しかし、妻は小説などの価値を理解できない女だった。
「あんた、そんな夢を追いかけていて、叶うと思うの?もう四十でしょう?いつから目指しているのよ?」
「十四歳」
「じゃあ、無理でしょう、さすがに。諦めなさいよ」
「諦めたら、俺のこれまでの人生を否定することになる」
「諦めないで今後もその夢を追いかけ続けた方が、この先の人生が無駄になるわよ。社会福祉士の資格を持っているんだから、介護士じゃなくて相談員とかもうちょっと給料のいい仕事に就きなさいよ」
「相談員なんて、小説家に比べたら、低所得者だよ」
「小説家を目指す介護士のほうが、もっと低所得で惨めよね」
「なんだと?」
こうして、口論が始まり、その夜は激しく交わった。たぶん結婚してから一番激しかったような気がする。
 翌日、仕事から家に帰ると、私のノートパソコンがなかった。
「あれ?俺のノートパソコンは?」
「捨てたわよ」
「なんだと?」
「あんたが、もうこれ以上小説家にこだわらないようにするためにね」
「あの中には書きかけの小説と過去に書き上げた、四本の長編小説が入っているんだぞ。そうだ、USBメモリーがあった」
「それも捨てたわ」
「なに?」
私はクラウドに保存するという知識がなかったのでやっていなかった。
「保存してあったCDも捨てたわ。これでもう過去に囚われないでしょ?」
「バカヤロウ。俺がどんな気持ちであれらの小説を書いてきたと思っているんだ?あれはな、俺が繋げた異世界なんだ。小説の中には空間と時間があって、そいつは俺が書いたことによってこの世に現れたんだ。それを消した?それは異世界を消したことになるんだぞ!」
「なにわけのわからないことを言ってるのよ。あんなのただの文字の繋がりじゃない」
「その文字で、別の世界ができていたんだ。俺が書いたことによって、その世界はこの世に現れたんだ。それをおまえは捨てた?消した?なんてことをしてくれたんだ」
「とにかく、明日から、介護の仕事を続けながら、社会福祉士としての仕事を探しなさい」
私は妻の眼を見た。彼女も見返してくる。私はもう我慢できなくて、その場で彼女を押し倒した。ダイニングの冷たいフローリングの床の上で私は彼女の服を脱がした。そして、自らも裸になり、深く交わった。その行為は深夜まで続いた。
 翌日、私たちは離婚した。
 
 離婚しても、私の書いた小説は戻ってこなかった。
 消えた小説はどこにあるのだろう?
 その小説たちはたしかに世界だった。ひとつひとつが独立した世界で、この現実世界と繋がっていた。それがもう、この世にはない。いや、私の頭の中にはある。しかし、他の人がそれを見る手段はない。
 ただ、私の頭の中だけにあるのだろうか?そういえば、あれらの作品は友人にも見せたことがある。彼らの頭の中にもその世界が残っているはずだ。では、私やその友人たちが死んだら、小説の世界は消えてしまうのか?
 一般的に言えば、小説で書かれた世界はその作品が消滅し、それを記憶している人が死に絶えたら、どこにも存在しない物になるのだろうか?
 こんな哲学的なことを最近はよく考えている。
 あんな女と結婚などしなければよかった。次は芸術の価値のわかる女と結婚しよう。
 しかし、あの女、なんという魅力だろう。
 私のカラダはまだ彼女を求めていた。
                              (了)

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