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プロとは何か?小説家を名乗る条件

私は小説家を目指している者である。
私にとって小説家とは自分の小説が書籍として店頭に並ぶ者である。
自費出版などで出しても小説家であるとは思わない。
小説でメシを食っていける者が小説家であると思う。
だから、私はまだ小説家を名乗ることができず、小説家志望者と言うに留まる。
しかし、本当に小説でメシを食っていけている者だけが小説家なのだろうか?
世の中にはプロとアマという区別があるが、その区別の差異はそれでメシを食っているかどうかということで、メチャメチャ商業主義の区別の仕方である。
本来、プロフェッショナルとは、英語で「達人」の意味もあるはずだ。
達人であればそれでメシを食っていなくてもプロと言えるだろう。
私がもし小説の達人であればプロかも知れない。
しかし、そこまで売れてないので、達人とは言えないだろう。
いや、売れる売れないを基準とするのは商業主義だ。
小説家を肩書きにするのはそういうアイデンティティがあればいいのだと思う。
ネット上には自称小説家がたくさんいる。
しかし、それは自称に過ぎない。
人が自然と、自分を「小説家」と認識してくれるようになって初めて「小説家」を名乗れると思う。
そうなると、やはり、小説でカネを稼ぐ「プロ」にならなければならないかもしれない。
しかし、小説でカネを稼げば「プロ」なのか?いや、「小説家」なのか?
その人に小説家のアイデンティティがなくても小説家なのだろうか?
昔、私は中学生の頃、野球をやっていた。
王貞治の著書に、「野球人」という言葉が使われていた。中学時代の私は野球人だった。野球人とはプロ野球選手のみを指すのではなく、野球を愛し、人生の軸に野球がある者のことだと思う。私はその後「野球人」をやめたが、今では「小説家」というアイデンティティがある。小説を軸として人生を生きている。
では「小説家」を名乗ればいいじゃないか、と言われそうだが、小説家を名乗ると、多くの人は商業的に小説でメシを食っている者だと勘違いするだろう。そして、小説でメシを食っていないと、「なんだ、自称小説家か」と笑われてしまう。
逆に、小説が売れた人でも、小説を人生の軸にしていない者は、小説家ではない。
よく、小説家ではない文章家が、小説を一作程度出版し、肩書きに「作家」を加えることがある。「作家」の定義を私は知らないが、もしそれが小説家を指すとしたら、そのような異業種で名が売れて、小説も書いてみた、という人は小説家とは言えないと思う。
小説を出版した人でも人生の軸に小説がなければ、小説家とは言えないのである。
そうなると、私のように小説を人生の軸にしているが売れていない者のほうが小説家と言える。
饅頭屋が、店の隅に、煎餅を並べても、「煎餅屋」ではなく「饅頭屋」であるのと同じだ。
小説家がエッセイを書いても小説家であるように、エッセイストが小説を書いても、その人はエッセイストである。
私は介護の仕事をしている。つまり介護のプロである。しかし、自分を「介護士」としてアイデンティティを持つには至っていない。プロ意識はあるが、自分は介護士であると自称することはあまり好きではない。なぜなら、小説家になりたいからだ。
また、私は登山を趣味にしている。しかし、登山家と言えるほど、技術はない。夏山の一般ルートしか登れない。達人になると、冬山でピッケルやロープを使って登るだろう。しかし、私もその道に入っている。登山技術を上げたいと、向上心がある。しかし、現在は、「テントがしっかり張れるか」みたいな素人のレベルだ。私は登山を極めようとは思わない。ただ、レベルアップすることを楽しみとしている。
しかし、小説は違う。私は小説で世界に出ようと思っている。極めようと思っている。そうなると充分小説家であるが、やはり名乗るには、カネを稼ぐことが必要だと思う。そうしないと自他共に小説家と認めることにはならないから。
これが商業主義の社会の、アイデンティティと職業を混同してしまう悪弊であると思う。
しかし、私はその悪弊を受け入れ、小説家という肩書きを名乗るラインには、カネを稼ぐことを基準に置いている。読者がカネを払ってでも読みたいと思うレベルでなければならないと「プロ」=「達人」の定義を置いている。つまり私はまだ小説家志望者としか言えないのである。

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