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統合失調症になってから、人格を創り直す

私が統合失調症を発症したのは、1995年、高校二年生の秋のことでした。その年は阪神淡路大震災とオウム真理教の事件があって、まさに世紀末な年でした。

私の通っていた高校は地域ではトップクラスの名門校でした。入学したての頃は、中学三年次に勉強よりもマンガにうつつを抜かしていた私が、中学二年生までの学力で、この高校に入れたわけだから、東京の有名な大学にも行けるだろうと思っていました。しかし、受験競争というのが嫌いでした。私の中学時代の友達の多くは私の高校より偏差値の低い高校に行きました。私は幼稚園の頃から友達と一生一緒にいることが大事なことだと思っていたのですが、どうも違うようだとこの頃から考えるようになりました。人間は孤独だ、永遠の友情なんて存在しないんだと絶望しました。エリート高校に入学したことが絶望の原因になったのです。人間は孤独ならば高校で友達や彼女を作るよりも将来の夢を叶えるために努力することが大事だと思いました。

私には二大欲望があって、それは有名になりたいという欲望と、セックスをしたいという欲望でした。セックスをすれば子供ができます。十代で親になり子供を育てるために働くというのでは、有名になることは絶望だろうと思いました。有名で金持ち(名声には金がついてくるものと信じていました)になってから彼女を見つけ、セックスしたほうが両方の欲望を満たせると思いました。そこで私は当時の夢であったマンガ家になるために努力するようになりました。大学には関心はありませんでした。東大生になりたいか、手塚治虫や宮崎駿やディズニーのようになりたいか、私がなりたいのは後者でした。東大生などたくさんいます。しかし、手塚治虫はこの世に一人なのです。私はその一人になりたかったのです。私はマンガ家になるために五か年計画みたいなものを立てて、自分の中にマンガ家を育てる「教師」と、その教育を受ける「生徒」のふたりの自分を創りました。五年後には有名なマンガ家になるつもりでした。しかし、しだいに「教師」の自分が肥大化していきました。「生徒」は主体でした。「教師」は「生徒」を殺してしまいました。

これが私が統合失調症になった内的な経緯です。当時はまだこの病気は精神分裂病と呼ばれている時代でした。私は自分が分裂し、人格が崩壊してしまったと感じました。人の愛を感じなくなり善悪の判断もできなくなりました。ただ常識を類推し、それを頼りに行動しました。自分の感情がわからなくなりました。人格の核である主体がなくなりました。「生徒」がなくなりました。「教師」だけが生き残りました。この「教師」はまだ自分を有名なマンガ家にすることを諦めてはいませんでした。私は勉強が手につかなくなり、ノートにマンガ、とくに人物の顔、とくに自分の内側を見つめる「目」ばかり描いていました。学校の授業ではほとんど眠っていました。周囲は大学受験に向けて勉強を本格的にするようになりました。私はマンガの内容、つまり「人生とは何か」などのテーマについて考え続けました。そういうことを正面から考えずにただ良い大学に行くためにする受験勉強などというのはバカのすることだと思っていました。しかし、正直に言うと不安でした。不安が高じて私の精神はますますおかしくなっていきました。結局一秒も勉強をしなかったため、大学受験に失敗し、予備校に通うようになりました。

私は覚悟しました。「絶対に来年は東京の大学に合格して上京してやる。そして、マンガ家になってやる」。統合失調症では数学の計算などができませんでした。だから、病んだ頭でもできる、詰め込むだけの、英語、国語、世界史の三科目に絞りました。親は大学に行かせてくれるだけの蓄えをしてくれているようでしたので、とにかく大学へ行き、マンガ家になるための猶予期間が欲しかったのです。四年あればマンガ家になれるだろう、そう思って頭の中は英語、国語、世界史、それからマンガのことだけしかありませんでした。1997年のことです。その年は尊敬する宮崎駿の『もののけ姫』が公開された年でした。勉強以外のことで唯一時間を使ったのは、このアニメーション映画を観に行ったことだけでした。

ところで宮崎駿は学習院大学を出ています。一方、同じスタジオジブリの監督である高畑勲は学習院大学より偏差値の高い東京大学を出ています。どちらがアニメ―ション映画の監督として優れているでしょうか。私は宮崎駿のほうが優れていると思います。芸術は学歴ではないと思います。しかし、私は東京のなるべく偏差値の高い私立大学を目指していました。私も偏差値にこだわる単純な人間だったのでしょう。ようは東京ならばどこでもよかったのです。結局、私の入学した私立大学は偏差値はそれほど高くない中堅クラスの大学でした。文学部哲学科でした。哲学というのはまさに先に述べた私の中の「教師」に刺激を与える学問でした。私は一人暮らしをして、マンガの練習と、哲学書を読むことを中心とした生活を送るようになりました。しかし、哲学は「教師」を鍛えるばかりで、マンガを描く主体を弱めてしまうようになりました。それゆえ、私はマンガを描けなく、それでもなんとか苦しみながら描いた短編マンガを出版社に持ち込んでみましたが、「諦めたほうがいいよ」とのことでした。

私は哲学に限界を感じ、それまで医者に掛かっていなかったのですが、大学三年次の夏休みにようやく医者に掛かる決意をして、一人暮らしのアパートを引き払って実家へ帰り、精神科に掛かりました。ここから私の壊れた人格を創り直すための生活が始まりました。

まず、私は通院しました。毎日、家の中でパジャマで過ごしていました。まだ、芸術家として有名になりたいという気持ちがあったので油絵を描き始めました。ティシャツにジーパンという服装に着替えてイーゼルに架けたキャンバスに向かい抽象画を描きました。「有名になりたい」というのは良くないことだと言われることが多いと思いますが、私もそう思うものの、私の中ではそれは生きる動機、心の炎ですので否定したら死んでしまうような気がしました。

半年通院し、大学は一年間休学することにしました。私は精神科のデイケアに通うことになりました。私は自分の人格を創り直すためにデイケアを利用してやろうと思いました。何人ものデイケアメンバーと友達になりました。人間関係の中で人格を正常に戻そうと思いました。いや、戻そうというより、創ろうと思いました。私は人格を創り直すにあたって、その方法論を考えました。それは、理想の人格を思い描いてそれに自分を近づけていくか、理想を描かずに現在の自分を見つめ少しずつ成長していくか、などというふたつの考え方でした。前者の理想の人格とは、私の場合、友達の多い労働者的な人格でした。私は宮崎駿の世界に憧れていたので、その主人公たちのような品があり、かつ、活動的な真っ直ぐな人格を目標にしました。実際、当時の私の喋り方は宮崎駿の映画の主人公のような喋り方をしていました。ようするに自分の主体性がなかったため、アニメの人物の真似をしていたのです。しかし、これには、そうするだけの理由がありました。私は小中学生の頃、マンガ雑誌の『少年ジャンプ』を愛読していました。そのマンガは暴力で悪役をやっつけるものが多く、とくに不良のケンカを描いたものの影響で私にとって現実世界は暴力的な世界であると見えました。

しかし、高校二年生の夏、『耳をすませば』という宮崎駿が絵コンテを描いたアニメーション映画を観て、その世界には不良も暴力もなかったので、こんな世界もあるのかと思い、強く憧れ、現実をアニメの世界に描き変えようと思ったために統合失調症を発症しました。つまり、私は現実が嫌になって、現実を描き変えるため、つまり、人格を一度壊し再構築するために統合失調症になったのです。しかし、理想の自分になるのは難しいものです。私は現在の自分を見つめ少しずつ改善していくという作業も続けました。

ソーシャルワーカーの勧めで大学に復学し、卒業したのも、大卒という学歴を手に入れるためでした。学歴は現在の日本で生きていくには重要で有利になるというアドバイスを信じたからでした。それに、何かしなければ前に進まないと思いました。

大学卒業後はパートの肉体労働を始めました。まだ、日常会話も難しいくらいの病状であるのに社会の中に飛び込んでみました。私が飛び込んだのは社会の底辺でした。キツい仕事で、月に七万円くらいしかもらえない厳しい仕事でした。それでも実社会です。精神障害者の作業所ではありません。親方とふたりきりの工場であるとはいえ実社会です。私は社会人としての誇りを手に入れました。

そして、私はマンガ家という夢を捨て、小説家になりたいという新しい夢を持つようになりました。「いつか世界に出る」その野望は中学生の頃と変わりませんでしたが、そのための努力として読書をたくさんしました。この読書がまた後で、人格の創り直しに効いてきました。読書で得た知識や思想は人と話すときに非常に役に立つのです。

上記の工場で五年働き、その間に知り合った人のつてで農作業や植木の仕事などもしました。この経験も素晴らしい思い出としてだけでなく、コミュニケーションをすることに役に立っています。農作業の休憩を畑でしていると、ひとりの若い女性が遠くからカメラで私たちの写真を撮っています。きっと、その人は牧歌的な風景として撮っているのでしょう。たぶん農作業のキツさを知らないのでしょう。私は農作業のキツさを知っています。これも自信であり誇りであります。

それから三十代になり、職を転々としながら三十四歳で現在の介護職に就きました。田舎の特別養護老人ホームで、農家だったというお年寄りとのお喋りで上に述べた農作業の経験が生きてきました。そして、私は理想であった「社交的な労働者」という人格に近づきつつあります。また、老人ホームでは読書で得た知識が役に立っています。頭がいいと思われていて、同僚や利用者であるお年寄りから、ものを訊かれることが多くあります。お年寄り相手のレクリエーションでも役に立ちます。それにまだ小説家になるという夢も諦めていません。健全な人が面白くて感動したと思える小説を書ける精神・人格は健全であるはずだと思います。私は小説を書くという夢に向かう行為を人格創りにも利用しています。このように書いていると私は人格主義者なのかと思えるかもしれませんが、これは統合失調症になってしまったゆえの思想です。

しかし、この人格を創り直すという作業は、統合失調症になった人だけのものではありません。人間は人格にそれぞれ弱点を持っていると思います。その弱点を克服し良い人格を創ることが人生において大切なことだと思います。私は人格を一度壊してしまいしましたが、一度壊したものは容易には直りません。だから気に入らない人格だからとそれを壊してはいけません。良い部分はそのままに悪い部分を改造すればいいのです。人間は誰もがより良い人格を目指すべきです。

最後に、私はこの文章の表題を「創り直す」としました。「作り直す」としようか、それとも「造り直す」としようか、あるいは「つくりなおす」とひらがなにしようかと思いましたが、「創り直す」を選びました。私は「創る」ことが好きです。人格も創ることができます。「創る」ことは無から創ることも含まれます。人間は生まれたときから人格を創り始めます。それならば、創り直すことも当然できると思います。

統合失調症になってから人格を創り直すには覚悟が必要です。人生をかけて創り直す覚悟です。しかし、その覚悟を持って努力して辿り着いた場所は素晴らしい場所に違いないと思います。

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