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宮﨑駿オタクが登山の魅力を語る

私は宮﨑駿の影響を多分に受けた小説家志望の四十代男性である。
趣味で登山をしている。
今回は、八ヶ岳の天狗岳に登って来た。
白駒池から入り、ニュウという変わった名前の山に登り、そこから黒百合ヒュッテという山小屋の前にテント泊して、翌朝、天狗岳に登って、白駒池まで下山するというコースを取った。
で、最初の白駒池である。
私は貧乏なくせに無料の麦草峠の駐車場ではなく、有料の白駒池駐車場に車を駐めた。麦草峠に駐めると、そこから白駒池まで二十分ほど歩かなければならない。私は下山してからその距離を歩くのはしんどいだろうと思って有料の駐車場に二日分の駐車代金を払って駐めた。
この駐車場は、白駒池の森から国道299号線を挟んだところにある。
白駒池にはこの国道を渡っていくのだが、その森の入り口が良かった。

苔むした深い森が、国道脇からいきなり始まっているのだ。
私はまるで、腐海に入る、映画冒頭のナウシカの気分になった。
この森は苔が有名で、屋久島にも劣らないらしい。
その森のあちこちに名前がつけられているが、中には「もののけの森」というのもある。もちろんこれは『もののけ姫』から取られているのだろうが、アニメが現実の森の名前にされるなど、宮﨑駿の影響力は凄いと思う。

しかし、私は現実の森などを見て、『もののけ姫』みたいだ、と思うことはつまらないことだと思う。素晴らしい現実が目の前にあるのに、それを映画に喩えるなど、インドアな感覚であると思う。
たしかに私は『天空の城ラピュタ』が大好きで、山登りもそれになぞらえている面もある。しかし、島は空に浮いていないし、登山には悪役もいない。

この写真は先月、赤岳に登ったときの一枚だが、霧が晴れていき目の前に現れた山小屋が「天空の城」みたいだと思いシャッターを切った。
それでも私は、天空の島は実在しないと考えている。
入道雲を見て、「あの雲の峰の向こうに見たこともない島が浮いているんだ」などとは思わない。
そういう想像は小説を書くときだけにしている。
それでも、小説のことは常に頭にあり、白駒池を見ながら物語を考えた。

『白駒池』という題名の小説を書くとしたらどういうものになるか?
そこで出会った女性との若い男性の恋物語になるだろうか?
そういうのは川端康成や三島由紀夫が書きそうなものだ。
冒険ファンタジーを書く私はこう考えた。
この池に河童がいて、池の畔に近づいたら、池に引きずり込まれ、河童の世界に行く。そこから出るには、悪い河童の王に攫われた河童のお姫様の首飾りが必要である。その首飾りを手に入れるためには、悪い河童の王の城からお姫様を助け出さねばならない・・・などと考えて、「その物語は、白駒池の必要があるか?」と思ったら、「ない」のである。
そういえば、芥川龍之介の『河童』も上高地の河童橋近くの茂みに穴があって、そこに落ちたら河童の世界だった。あれが上高地である必要があるだろうか?
舞台を選ぶには必然性があるべきだと思った。
まあ、想像力をどこから受け取るかで物語が動き始めることもあるが、今回の白駒池は想像力をかき立てるものの、書かずにはいられない、という衝動をかき立てるまでには至らなかった。

私は登山をする理由のひとつに、宮﨑駿の世界は魅力的だが、現実はそれ以上だぞ、という思いがある。
現実とは心身全てを使って、体験ができるものだ。
宮﨑駿のアニメは椅子に座って画面を眺めているだけに過ぎない。
『ラピュタ』のパズーは鞄にナイフとランプ、朝食などを詰め込んでいるが、私もザックとウエストポーチにヘッドランプとナイフ、食料を詰め込んでいる。テントや寝袋、ガスバーナーなども持っている。
「シータは木登り平気だよね」
私は岩登りをする。
今回はニュウと東天狗岳が岩場だった。

ただ、『天空の城ラピュタ』が好きだが実際に冒険はしないという人には、登山は食わず嫌いで「物足りない」と言うかも知れない。山は浮いていないからだ。しかし、アニメの世界に閉じこもるのと、実際に自然の中に身を投じていくのとでは、人生の豊かさに雲泥の差があるのではないかと思う。
私だって小説を書くが、異世界の話など書くが、異世界は現実に存在すると信じて書く。たしかに異世界が現実に存在すると考えた方が豊かだ。しかし、そう考えてばかりで、インドアしか知らなければ、現実の豊かさを知ることはない。

東天狗岳登山道より日の出を見る

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