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分人主義と文体の哲学

分人主義とは小説家平野啓一郎の思想で個人というものはそれ以上分割できない存在(individual)ではなく、それ以上に分割可能であるという思想だ。その分割した個々の自分を分人(dividual)と言う。そして、この思想の生き方に関する積極的な帰結は、「本当の自分はひとつじゃない」ということだ。これまで、実存主義などで、自分探しが流行った。人生は本当の自分を見つける旅である、そのようにいささかロマンを持って語られた。しかし、我々は平野の言うとおり、常にひとつの自分であるわけではない。職場での自分と自宅での自分は違うと感じる人も多いのではないだろうか?私などは職場に行くと仕事モードに切り替わる自分を感じる。それ以外にも誰と一緒にいるかで自分の在り方が変わると感じる人も多いはずだ。分人主義はそれでいいよと言っている。どれが本当の自分なのか決めなくてもいい。ただ、好きな人といるとき、その人がなぜ好きかと言うと、その人といるときの自分(分人)が好き、と言うことになると平野は言っている。
さて、分人主義についての説明はここまでにして、ここからは、私たちの文体について考えてみたい。私は小説を書く人間で、小説を書くときの文体がある。そして、エッセイを書くときの文体もあるし、哲学論文を書くときの文体もある。いや、小説でもその狙いとしている読者層によって文体を使い分けている。それは自分が意図的に使い分けていると言うよりは、自然と文体が変わってしまうと言った方が正しい。どれが本当の私の文体か、それはわからない。そこには分人化した文体がある。
そもそも、分人は一緒にいる人によって自分が変わるという思想だ。そのとき、我々は喋りの文体を使い分けていないだろうか。つまり分人主義を、使っている言葉にフォーカスした場合に、分人により言葉を使い分けていると細かく分析できそうな気がする。
文体と言うと、作り上げた言葉使いのように思われるかもしれないが、先に述べたように私は自然と書く内容によって使い分けている。文体は書くのに慣れてくると、自ずから自分らしい文体が出来てくると思う。ただ、「これが本当の自分の文体」というふうに本当の文体をひとつに絞る必要はない。もちろん小説家は自分の能力を最大限発揮できる文体を追究する必要はあると思うが、そのひとつの文体であらゆるジャンルの文章を書く必要もない。
文章を書き慣れていない人の文章を読むと、そこには文体がないと思われることがある。とくに社交的な人で、読書などはあまりせず内面を見つめる時間が少ない人が、例えば旅行で楽しかったということを伝える文章で、等身大の読みやすい文章として、自分の喋り言葉で書くことがあるが、読んでみると実際は読みにくい。文体の多様化は書き言葉を持っている人の中でだけ起きている現象かもしれない。もちろん、社交的で読書の習慣がなく書く習慣もない人が、文体を持っていないというのではなく、その人は、社交性の中で喋り言葉として文体を使い分けている可能性が充分ある。
読書や文筆、内面を見つめる思惟をするとき、我々は言葉を使っている。そこに複数の文体が存在すると思う。言葉は喋り言葉で、友人との喋り言葉、家族との喋り言葉、恋人との喋り言葉、仕事上の喋り言葉など使い分けがなされるように、内面、特に文章を書くときにも、文体は複数使い分けられる。そのように対外的な喋り言葉も、内面的な書き言葉にも複数の文体がある。それらの複数の分人を束ねた物が本当の自分の姿だと考えられる。つまり「本当の自分はひとつじゃない」ではなく、文体を集めた総体としての個人が存在すると私は考える。それは平野が言うように、「複数の分人を使い分ける司令塔があるわけではない」。そうではなく、複数の文体のネットワークが自分という個人を形成していると見る方が自然であると私は考える。

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