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統合失調症の私が介護士を続ける理由

私は十代から統合失調症を患っていて、大学卒業後はパートの肉体労働をしながら小説家を目指していた。単純な肉体労働は心のリハビリになると思って続けた。実際、効果はあったと思う。しかし、疲れた体では脱力系の小説しか書けなかった。肉体的に疲れて家に帰ると、頭がぼんやりして小説を書くという思考モードにはならないのだ。
三十代になると、そろそろ安定した生活をしたい、結婚したい、彼女が欲しい、と思うようになった。そこで見つけたのが介護の仕事だった。小学校の同級生が介護の仕事に就いて、そこで出会った女性と結婚したそうだという話を聞いて、「俺も」と思った。給料の安い介護職で、出会った若い女性と結婚し、安いアパートで家庭を持ち、貧しくもささやかな幸せのある生活をする。小説家の夢も諦めなくても良い。う~ん、いい、と思った。

三十四歳で特別養護老人ホームに就職した。
若い女性がたくさんいた。しかし、九年経った今でもまだ彼女はできない。う~ん、俺には恋愛の才能がないのか?
それでも介護職を続ける理由は他にある。体を適度に使って頭も適度に使う健康的な仕事だから、小説を書くコンディションが整う。いや、それもたしかにあるが、もっとも重要なこの仕事を続ける理由は、介護という仕事が統合失調症の心のリハビリに極めて適しているということだろう。職員同士のコミュニケーションは心のリハビリになるし、お年寄りとの会話も心のリハビリになる。たいして難しい言葉を使わないため、統合失調症になって私が失った、人間としての心の触れ合いが毎日できるのだ。認知症のお年寄りとの会話は論理的である必要はない。悪いことかもしれないが嘘もつく。例えば、「家に帰りたい」と言った認知症のお年寄りに、真実を言えば、「もう家には帰れませんよ。あなたは死ぬまでこの老人ホームで暮らすのですよ」となるが、まさかそんなことは言えない。だから、「帰りたいのですか、それじゃあ、ご家族にお電話しますね。ちょっと事務員に言ってきますから、お席でお待ちください」とか、「今日はもう夜になりますから明日にしましょう」とか「もうすぐ、ごはんが出ますのでそれを食べてからにしませんか?」などと嘘を言ったり、誤魔化したりする。統合失調症の私は精神障害者だから、大きく見れば認知症のお年寄りとそう変わらない。しかし、私は若い。認知症ではない。思考力では私のほうが認知症の方より上だ。上と言うと認知症の方を下に見ているようだが、介護する人間は介護される人間より能力が上でなければ介護はできない。もちろんすべてにおいて上であるわけではない。ただ、認知症で自分がどこにいるかもわからないことや、足腰が弱いことや、尿意便意がないことなど、歳を取ったがゆえに衰えた部分を介助するのが介護士の役目だ。そういうお年寄りの弱い部分については介護士のほうが強くなくてはならない。だからこそだが、私のような統合失調症を患っていて障害者手帳を持っている人間でも、自分にはまだまだ人より優れた能力、人の役に立つ能力があると自信を持つことができる。
自信は統合失調症からの心のリハビリに役に立つ。「私は仕事をしている」と思えることも自信となる。
私は優しい。優しさは介護職員にとって一番重要な才能のひとつだ。私はセールスマンの才能はないし、電話でお客様と話をするメンタルもない。法廷で争う弁護士や検事のような強さもない。そのかわり、優しくて真面目、弱い者を慈しむ心がある。繊細さや脆さも才能になる。だから、介護士を続けているのだろう。

統合失調症などで精神が弱く仕事ができないと思っている方に言いたい。「弱さも能力のひとつである」。

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