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小説家を目指す俺はノーベル文学賞より上を目指す

文学の世界最高の賞はノーベル文学賞だろう。
俺は小説家になって世界に名を馳せるという野心がある。
ノーベル文学賞をもらえたら最高だが、実際はそんなものを目指していない。
文学賞を目指すために書いているようでは本物ではない。
なぜなら、文学賞の求める物を書くようになってしまうからだ。
デビューするには新人文学賞を取らねばならないと思うが、賞の性質に合わせて自分の物語世界を変えてしまうのは志が低い。
世の中には新人文学賞を取るための傾向と対策みたいなものを考える人がいると思うがそれはバカだ。
仮に傾向と対策をバッチリと立てて受賞したとしても、後が続かないだろう。
受験勉強をして東京大学に入っても、高校のお勉強はできるが、中身がなかったというような場合に似ている。
文学賞は取れても売れない作家はいくらでもいる。
そういう作家は「売れなくてもいい」と言うのだろうか?
誰かに読まれるために小説を書き新人賞を取ってデビューするのではないのか?
俺は売れたい。
世界一売れたい。
人類史上一番売れた作家になりたい。
俺の小説は冒険ファンタジーなのだが、書いているとき、人類を代表する気で書いている。
物語部門人類代表だ。
そう思って深夜に小説を書き上げようとしているときは、もう世界的名声を超えて、宇宙に響き渡る名声、宇宙の外にいる神に届く名声を意識している。
それはもう名声を超えて栄光である。
俺はまだデビューもしていないが、栄光の中で小説を書いている。
神を感じている。
そして、完成したとき、「ああ、宇宙になかった物を存在せしめたぞ」という陶酔感を得る。
現在、冒険ファンタジーは五作書いてあるが、そのうち最後の一作だけ、書き上げても陶酔感はなかった。
書き上げたのが昼間だったからかもしれない。
それにまだ推敲中でそれが終わったときに陶酔感を得られるかもしれない。
その五作のうち初めの二作、『空中都市アルカディア』と『地下世界シャンバラ』をnoteに公開している。あまり読まれていないが、自信のある二作である。
あと三つ推敲中の物も含めて冒険ファンタジーは手元にあるが、これらはnoteに公開せず、新人賞に送ったほうがいいと思っている。
なにしろ新人賞は未発表のオリジナル原稿を求めることが多いからだ。
だいたいnoteでは長編は好まれない。
俺だってnoteで長編を読みたいとは思わない。
自分が読まないのに人に読めというのはおこがましいだろう。
しかし、神を感じて書くというのはもしかしたら、小説以外の仕事一般にも言えるのではないだろうか?
仕事熱心な人は自分の仕事に誇りを持っているはずだ。
それはおカネにも名声にも変えられない高貴な誇りだろう。
俺は小説で世界的名声、ノーベル文学賞以上の栄光と突き詰めていった結果、宇宙の外側にいる神まで名声の届くようになりたいと思うようになった。
これは芸術でもない仕事、あるいは人生そのものにも言えるのではないか?
俺には子供がいない。
子供がいる人は、家族で楽しい思い出を作った、子供たちが元気に成長していく、自立した、立派になった、結婚した、孫が出来た、などと人生の喜びがあるだろう。
しかし、子供がいない仕事人間は、仕事に人生を捧げたという、そこに神を見なければ救いがないだろう。
もちろん一番いいのは結婚して子供がいて幸せな生活があり、仕事も成し遂げることだろう。
しかし、いずれにしろ、人生を肯定するとき、神の栄光が必要ではないかと思う。
それは絶対に他人と比較しての栄光ではない。
無名でもベストを尽くせれば、その人は神の栄光の中にいるだろう。
俺の小説を書くという行為は、単に世界的な名声を得るためではなく、書き上げたときの神を感じる陶酔感を得るためにある。
それはノーベル文学賞より価値ある栄光であると信じる。

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