【長編小説】『地下世界シャンバラ』(全部まとめて読むならこちら)
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この巨大な大陸の中央にマール国という大国があった。その国の西方、人里離れた山奥に闘林寺という寺があった。そこからさらに西の山奥の辺境にラパタ国という小さな王国があった。さらにそこから西にある山奥に入った洞窟の地下深くに、地下世界シャンバラへの入り口があると言われていた。シャンバラはすべての住民が幸せに暮らす理想の仏国土である。
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第一章 闘林寺
一、ライとその父
物語は大国マール国の西の山奥に住む、父と子の暮らしの一場面から始まる。
父親カイとその五歳の息子ライは山奥でほとんど自給自足の生活を送っていた。主食の米や塩などを調達するため月に一度町に降り、山で取れたものと米や塩などとを交換してきた。それ以外は山でふたりきりの生活だった。
洞窟に住み、粗末な服を着て狩猟採集生活を送っていた。洞窟は深くはなかったが、寝食するには充分の広さがあった。奥に食料などを蓄えていて、入り口には莚を垂らしていた。洞窟の前には繁みに囲まれた四十畳ほどの広場があった。そこで、父親のカイはライに武術を教えていた。川で魚を取ったり、森で果実を取ったりしてその日の食料を調達すると、あとは武術の修行の時間だった。
洞窟の前の広場で、粗末な服を着た父親カイは言った。
「ライよ。おまえは強くならなければならない。来年には闘林寺に入門するんだ。そこで武術の修行をし、奥技『震空波』を会得するんだ」
「シンクウハ?」
粗末な服を着た幼い男の子ライは訊いた。ライは父親から距離を取り、防御の構えをしている。父親の修行の時間は始まっているのだ。
同じように息子のライから距離を取った父親のカイは攻撃の構えを取っている。
父親は言った。
「震空波はシャンバラへの鍵だそうだ」
ライは訊いた。
「シャンバラ?」
父親のカイは、「隙あり」と言って、ライに襲い掛かり、右拳を繰り出したが、ライは咄嗟に後方宙返りをしてそれを躱した。その着地点をカイの足払いが襲い、ライの体を転倒させた。
ライはすぐに立ち上がって、父から間合いを取った。
「シャンバラって何?」
ライは訊いた。
父親のカイは答えた。
「地下にあるという、理想の世界だ。おまえの母さんはおまえを産むとそこへ行った」
「え?」
父親は続けた。
「ライよ。よく聞け。おまえの母さんは、おまえを置いてシャンバラというその仏国土へ行った」
「どうして?」
その「どうして?」には複数の意味があった。頭の中にいくつもの疑問が浮かんだ。幼いライは知っている言葉数が少なかったので、それがたった一言、「どうして?」との表現となった。
どうして、俺を見捨てて行ったの?どうして、父さんは俺を連れて母さんを追わなかったの?どうして、母さんはそのシャンバラとかいう場所へ行かなければならなかったの?他にも様々な「どうして?」があった。
父親のカイは言った。
「俺たちよりも、理想とか真実が大事だったんだろうな。俺はそんなところに行きたくなかった。俺は親子三人で普通に暮らしたかった。母さんと一緒になるために闘林寺を抜け出したのも普通の暮らしがしたかったからだ。普通の幸せが欲しかった。だから、奥技の震空波も諦めた。それなのに母さんは自分の夢を諦められなかった」
「母さんは父さんや俺のことが嫌いだったの?」
父親のカイは薄っすら笑みを浮かべた。
「それを聞くために一緒にシャンバラへ行こう。だからおまえは闘林寺に入門し、奥技震空波を会得するんだ。それにはたぶん十年はかかるだろう。父さんは破門されたからおまえに頼るしかないんだ」
カイは息子のライに攻撃した。跳び蹴りだった。ライはしゃがんで躱して、地面を転がり、立ち上がって間合いを取った。
日が傾き始めた。
カイは構えを解いた。
「夕食にしよう」
ライは構えを解いて、笑顔になり、洞窟の入り口にある莚をめくって、鍋を取って出て来た。中には米が入っている。ライは小道を降りて、近くを流れている小川の清らかな水で米を研いだ。その間にカイは洞窟の前で火を起こしていた。この日の夕食は米に鱒の塩焼き、それから、梨だった。
ライの髪は生まれつき茶色で、短く刈っているが、つむじがふたつあるため、頂点がアンテナのように立っていた。もみあげが長く顔はどこか猿に似ていた。
二、山賊グルド
日暮れ前、洞窟の前でライとカイが親子で夕食を摂っていると、突然カイが立ち上がった。
「どうしたの?父さん」
ライは米を掻き込みながら訊いた。
カイは鋭い目つきをして言った。
「ライ、戦いの準備だ。殺気を持った多数の人間がこの広場を囲んでいる。繁みの中に隠れている。たぶん山賊だ。ひと暴れするぞ」
ライも茶碗を置き立ち上がった。
すると、「かかれっ!」という号令が繁みの中で聞こえたかと思うと、四十人の山賊が「わーーーー」という声を上げて、一斉に周囲の繁みから出て来て、ライとカイに襲い掛かって来た。
ライとカイは応戦した。しかし、相手は四十人だ。しかも武器がある。広場は混戦となり、カイは十人ほどの山賊をやっつけた。そのとき、太い声が聞こえた。山賊たちはカイから離れ、距離を取って囲んだ。
「カイよ、そこまでだ」
カイが見ると、息子のライが巨躯の男に捕まっていた。ライの顎の下には鋭い刀の刃が当てられていた。
「カイよ、俺を覚えているか?」
カイは答えた。
「忘れるものか、グルド」
グルドという巨躯の男は言った。
「先にメイに目を付けたのは俺だった。おまえはあの女を横取りした」
「違う。乱暴を働くおまえから助け出したんだ」
「ほう、自己正当化。ムカつくね」
「おまえは闘林寺の掟を破って、客人の娘に手を出した。そして、破門された。するとおまえは山賊になってメイを攫ったな」
「そうだ。俺は自分の欲望に従ったまでだ。女人禁制のあの寺で女と言ったら宿坊に泊まる客くらいしかいなかったからな」
「だから、俺はお前に戦いを挑みメイを助け出した」
「その後どうした?おまえはあの女を好きになり闘林寺を破門されたろ?妻帯を禁じるあの寺から抜け出しておまえはメイと結婚した」
グルドは抱えているライの首を絞めて言った。
「こいつがおまえとメイの息子か?」
カイは答えた。
「そうだ」
グルドは言った。
「メイはどこにいる?」
「シャンバラにいるはずだ」
「シャンバラ?あの地下にあるという仏国土か?」
「そうだ」
「あそこには財宝があるのか?」
「知らん」
グルドはカイに訊いた。
「おまえ、案内できるか?」
「できない。できたとしてもおまえなど案内しない」
「西の山奥のずっと山奥の洞窟の地下にそこへの入り口がある。そのくらいは俺も知っている。だが、具体的にどこかはわからない。それから、後になって闘林寺の人間から聞いた話だが、あの寺の奥技震空波がシャンバラへの門を開く鍵だと言われているな」
カイは言った。
「その通りだ。だからおまえなんかには行けない世界だ」
「ということは、メイはシャンバラに行けなかったのではないか?」
グルドは首をひねった。カイは言った。
「それはわからない。もしかしたら俺たちの知らない人間が震空波を使えたかもしれないし、震空波以外に何か方法があったのかもしれない。とにかくメイはシャンバラに旅立ったまま帰って来ない」
グルドは訊いた。
「現在、闘林寺で震空波を使える者は何人いる?」
カイは答えた。
「たぶん今はひとりもいない。だが、十年後、俺の息子ライが会得してくれるはずだ」
グルドはライの首を絞めた。
「この、小僧か。十年か、長いな」
すると、グルドの子分で背の高い片眼の剣士の男が刀をカイに向けて言った。
「グルド、どうするのか決めてくれ。この男を殺すのか、殺さないのか」
その瞬間、カイは右掌をこの男に向かって突き出し、目に見えない何かが放たれ、このバドという剣士はその目に見えない何かを腹に受けて吹っ飛ばされた。カイの使ったこの不思議な技を見てグルドは呟いた。
「波動拳か」
この波動拳というのは闘林寺で会得する技だ。手の中に体内を流れる気と呼ばれるエネルギーを溜めて一気に腕を突き出しながら放つのだ。気は目では見えない。離れた敵に攻撃するときに使うこの技を、カイは今、剣士バドに対して使った。バドは痛みで立てない。
だがグルドは冷静だ。
「おい、カイ。もうおまえが暴れることは許されないんだぞ。おまえが抵抗したら、このガキは死ぬんだ」
グルドの刀は少しだけライの首を切り、赤い血が流れ出ている。グルドは言った。
「メイはシャンバラにいる。シャンバラへの鍵は震空波である。シャンバラには財宝があるかもしれない。ここまではいい。だが、シャンバラへの入り口がどこにあるかわかる人間はいないのか?カイよ」
「俺の妻メイは霊感が強く、その場所がわかると言っていた」
グルドは嫌な顔をした。
「俺の妻?しゃらくせえな」
カイは言った。
「俺の妻だ」
グルドは言った。
「では霊感の強い者を探せばいいわけだな?」
「おまえはシャンバラに行きたいのか?」
「まあな。メイがいると言うし、財宝があるかもしれないし、なにしろおもしろそうだ」
「シャンバラは理想の仏国土だぞ。おまえのような山賊は行ってはいけないんだ」
「うるせえよ、カイ。おまえにもう用はない。死ね。抵抗すれば息子は死ぬ」
カイは抵抗することができず四方八方から刀に突かれ大量の血を流し地に倒れた。
「父さん!」
ライは動こうとしたが、グルドがライを捕えている手の力を緩めない。
カイは最後の力を振り絞ってこう言った。
「ライ、おまえは愛されて生まれてきた。そのことを忘れるな!」
ライの父親カイは絶命した。
「父さん!」
ライは広場の隅にある木に縛り付けられた。広場の中央では薪(たきぎ)を集めカイの遺体を焼く準備がされた。
グルドは言った。
「パンチョ、メシの支度だ」
パンチョと呼ばれた太った小柄な男は、「あいよ」と言ってメシの支度をした。材料は洞窟の中のライたちが貯蔵している食材が使われた。
日は沈んだ。カイの遺体が炎に包まれ、周りでは宴会が始まった。山賊たちは男ばかりで、酒に酔って大声で話す者や、踊る者、野蛮な者たちの狂騒だった。
宴会が終わると山賊たちは眠りに就いた。炎は燃え続けていた。
ライは木に縛られたままだ。ライはなんとかこの縄を解けないかとがんばったが、固く縛られていて抜け出すことはできなかった。立ったまま縛られたライは、足が疲れてきていた。眠ろうにも足が痛くて眠れなかった。すると突然、縄が切られた。ライは自由になった。ライは誰が切ったのだろうと後ろを振り向くと、そこにはライと同じ年くらいの少女がいた。
「さあ、逃げよう。あたしはあんたを助けてあげる」
「君は?」
「あたしの名はキト。グルドの娘だ」
「なぜ、俺を助けてくれるんだ」
「助けちゃいけないか?」
「いや、でも」
「あたしはあんたが殺されるのを見たくない。あたしは山賊になるよりお嫁さんになりたいんだ」
「え?俺の?」
「ダメか?」
「いや、そんなことはない」
「さあ、早く逃げるんだ。闘林寺に行くんだろ?」
「うん」
「そこの修行を終えたら結婚してくれるか?」
「ああ、わかった。でもなんで俺なんだ?」
「あたしは山賊で、同じ年ごろの友達がいない。とくに男友達なんていないんだ。だから、あんたを一目見て好きになった」
「そうか、じゃあ、将来結婚だな。わかった」
「さ、逃げろ。闘林寺は川を下っていき、大きな川と合流している所からその川を遡って三日歩いた所にある」
「ありがとう」
ライはキトから松明をもらい、着の身着のままで歩いて愛着のある洞窟住居とその前の広場をあとにした。
三、波動拳
木漏れ日さえ僅かな森深い道に瓦屋根を戴いた木造の山門がある。軒下には額が掲げられてあり、「闘林寺」の文字がある。その門の左右に仁王像が立っている。いかにも武術を修行する寺の門といった感じだ。奥には石段が始まっており、その長い石段を登って行かねばならない。森の中の石段をしばらく登って行くと、また門がありその門の向こうには木造の伽藍がある。境内にはいくつもの建物がある。平らな土地ではない。山のあちこちに道場があり約千人の修行僧が武術の修行をしている。剣のように連なる山頂のそれぞれに堂があり、一番高い所には五重塔が天を刺すように建っている。
ライが初めて境内に入ったとき、迎えてくれたのは同年齢と思われる少年だった。彼は青い武道着を着ていた。頭は剃髪してなくおかっぱ頭だった。
「入門したいのか?」
少年は言った。
ライは答えた。
「うん、震空波を会得したい」
少年は笑顔になった。
「震空波?それはこの寺の奥技じゃないか。入門時からそれを言うなんて志が高いね」
「俺はまだ波動拳も撃てないんだ」
ライがそう言うと、少年は笑った。
「五歳や六歳で波動拳だなんて気が早いよ。まあ、僕はできるけどね」
「え?君は何歳なの?」
「僕は六歳だ。名はレンという。君の名は?」
「俺はライ。五歳だ」
レンは言った。
「大僧正に会わせてあげるよ。ついてきな」
レンの後をライは歩いた。境内のいたるところで剃髪して武道着を着た僧侶たちが体を鍛錬していた。鉄棒で懸垂する者、片腕で逆立ちする者、手刀を砂に突き刺す者、サンドバッグを蹴る者、頭で石を割る者、相方が次々に投げる竹の棒を刀で斬り落としていく者、組手をする者、ライはそれらを見て熱くなるものを感じた。多くの石段を登った。登る度に広場に出て、そこで修行する僧たちを見た。広場には必ず堂が建っていた。そして、一番大きな堂の前に出た。
「ここが大本殿だ」
レンはそう言ってひときわ大きな堂の前に立った。黄色の瓦が陽の光を浴びて黄金のように輝いていた。
「こっちだ」
そう言ってレンはライを導いて大本殿の中へ入る階段を登った。大本殿の中には巨大な仏像があった。その前の祭壇で経を唱えている僧服の老人がいた。頭は剃髪というか禿げていて、顎には白い髭を蓄えている。
「レンか」
老人は振り返りもせずに言った。レンは答えた。
「はい、父上、入門志願者を連れて来ました。まだ、五歳だそうです」
老人は振り返った。
「名はなんという?」
ライは答えた。
「ライ」
老人はライの顔をじっと見た。そして言った。
「カイの息子か?」
ライは驚いた。
「え、父さんを知ってるの?」
「六年前に破門した男だ。宿坊に泊まった女と逃げた男だな」
「その女って、メイという名前じゃない?俺の母さん?」
「普通に考えればそうだろうな。カイが別の女に産ませたとは考えにくい。で、ふたりはどうしてる?幸せに暮らしているか?」
ライは俯いた。
「父さんは死んだ。三日前にグルドという山賊に殺された」
老人は眉をしかめた。
「グルド?あいつが?」
ライは老人の顔を見た。
「おじいさんはグルドを知ってるの?」
老人は言った。
「私のことは大僧正と呼びなさい」
「ダイソウジョウ?」
ライは呟いた。大僧正は言った。
「グルドは弟子だった。素行の悪い弟子でな、どうしようもなかった。宿坊に泊まった女、おまえの母親を襲おうとした、それを阻んだのがおまえの父親だ。カイは善行を成した。だが、そこまではよかった。カイはその女を愛してしまった。この寺では妻帯は禁止している。あいつは女を連れて逃げた。破門だった。グルドももちろん破門だった。そうか、グルドがカイを殺したか・・・。母親はどうした?おまえの母親は?」
ライは言った。
「母さんはシャンバラにいるそうだ」
大僧正は驚いた。
「なに?シャンバラに?あの地下にあるという」
「俺に震空波を教えてくれ。お願いだ」
「シャンバラに行きたいと言うのだな?」
「うん」
ライは頷いた。
大僧正は言った。
「いいだろう。だが、おまえには武道の基礎から教えねばならないだろう」
ライは言った。
「もう基礎はできている。父さんに仕込まれたから」
「そうか、ではその基礎を見せてもらおう。外でレンを相手に組手をしなさい」
ライはレンと大本殿前の広場で向き合った。大本殿の階段の上に大僧正が立っている。周囲には修行僧たちが幼い入門者を見ようと集まって来た。
大僧正は言った。
「では始めよ」
ライはレンに飛び掛かった。跳び蹴りだ。レンは躱して間合いを取った。ライは着地するとレンのほうに向き防御の構えを取った。
「レン、来い」
レンは走ってライに攻撃を仕掛けた。拳をいくつも繰り出した。それをすべてライは受け止めた。レンは足払いをした。ライはそれを跳び上がって躱し、レンの胸に跳び蹴りを喰らわせた。レンは尻もちをついてしまった。
周囲の修行僧たちはどよめいた。
「おお~、あのレンが蹴りを喰らったぞ。あのおチビさんやるなぁ」
レンはすぐに立ち上がった。
「ライ、ちょっと君を甘く見ていたよ」
ライはニヤリと笑った。
「父さんと毎日修行してたからな」
レンはライを攻めた。拳を繰り出し、左足と右足で交互に蹴りを出し、すべて防がれたが、回し蹴りをライの左頬に当てた。ライは倒れた。すぐに起き上がった。
「やるな、レン」
ライは笑顔だった。今度はライが攻撃する番だった。ライの拳はすべて防がれた。蹴りも躱された。
ライは楽しかった。このように同世代の武道家と戦うのは初めてだった。
ふたりの実力は拮抗していた。レンは余裕で勝てると思っていたので、ここまでライができるとは思わなかった。
レンは言った。
「ライ、君は波動拳を撃てないと言ったな?」
「ああ、撃てない」
「僕は撃てる。受けてみるか?」
「おもしろい」
ライは相手から距離を取り防御の構えを取った。レンは左足を前にして両足を開いて腰を落とし右手を肩の位置に上げて林檎を掴むような形を取った。その右手の中に気を溜めていく。もちろん気など目には見えない。
そこで大僧正は言った。
「レン、もうよい。ライの基礎はわかった」
レンは大僧正の言葉を無視して右手に溜まった気を離れた場所にいるライに向けて押し出した。ライは胸に衝撃を受けたと思ったら一瞬にして後方へ吹っ飛んだ。
「ぐおっ」
ライは背中を下にして地面に倒れた。
「これが、波動拳か・・・」
大僧正はレンを叱った。
「レン、私の言葉を無視したな」
レンは言った。
「父上、ライが波動拳を覚えるのならばまずその威力を体で覚えるべきかと思いました」
大僧正は怒った。
「それは私が判断することだ。私の言葉を無視するな。だいたいおまえは僧侶であるならば剃髪しなければならん、それを去年あたりから伸ばし始めおって、なぜ剃髪しない?」
レンは横を向いて言った。
「したくないから」
「おまえには闘林寺の将来を任せたいと思っている。だが、このままでは任せられん」
「それは父上の考え。僕の考えではない。僕は寺の経営よりも真実に興味があります。その真実はおかっぱ頭でも丸坊主でも関係ないと思います。シャンバラには真実があると聞いています。僕はシャンバラで学問を修めてみたい。そのために震空波を会得したいのです」
大僧正は黙り込んだ。
「ううむ、まあいい。ライ、立てるか?」
「なんとか」
ライは立ち上がった。
「波動拳か、すげえな」
大僧正は言った。
「ライ、とにかく、体を洗い、武道着に着替えなさい。レン、ライに武道着を与えなさい」
「はい」
レンは返事をして、ライを沐浴場に連れて行った。
翌日からライの修行が始まった。ライは黄色の武道着を着ていた。
場所は闘林寺の境内の石段を下りて行き、平らな場所に耕された畑を抜けたところにある河原だった。川は大きな川ではなく、急流で、水は澄んでいて、闘林寺の僧たちは毎日この川の水を汲んで山の上の伽藍に運び生活水とした。その河原には大きな石がたくさん転がっていた。
なぜか大僧正が直々に教えることになった。レンもそこにいた。大僧正は言った。
「ライ、おまえは基礎ができている。レンの波動拳を受けたな。カイも波動拳を使えたはずだ。それは見たか?」
「見た。離れた場所にいる敵を倒すことができる技だね」
「レン、やって見せなさい」
大きな石の上に人の頭ほどの大きさの石を置いた。それを吹き飛ばす。石から離れた場所にいるレンは左足を前にして足を広げ腰を落として右手を肩の高さまで上げた。右手を林檎を掴むような形にしてその中に気を溜め込んだ。そして、右手を前に突き出して気を放った。放たれた気は大きな石の上に置いた石を吹き飛ばした。
「すげえな」
ライは感心した。
大僧正は言った。
「空間には気が満ちている。物質は気の密度が高く、真空は密度が低い。人間の肉体では頭部の気の密度が一番高い。頭部には意識がある。意識は神経によって成り立っている。神経は手にもある。意識を手の中に集中すれば手の中に気が満ちる。それを的に向かって押し出せば気の球が飛び、的を破壊できる」
ライはレンの真似をしてやってみた。だが、気の球など放つことはできなかった。大きな石の上に置いた石などびくともしなかった。
大僧正は、「まあ、あとは独りで頑張りなさい」と言ってレンを連れて河原をあとにして畑を抜けて石段を上がって伽藍のほうへ帰ってしまった。
ライは石の前で何度も何度も波動拳の動きをした。しかし、気の球など出なかった。そのうち日が暮れた。ライはへとへとになって伽藍へ帰った。
翌日もライは独り河原へ出た。大きな石の上の頭ほどの大きさの石を狙って、気の球を放つ。それができなかった。まず、右手の中に気を溜め込むことができなかった。どうしたらそれができるのか。目を閉じ、意識を右手に集中した。充分気が満ちたと思い放った。が、波動拳は出なかった。それを何度も繰り返した。この日も波動拳は出すことができずに日が暮れてしまった。
それから、毎日、ライは独り河原へ出た。ここでひとつ断っておきたいのは、闘林寺の修行は武術の修行だけではなく、農作業をしたり、食事を作ったり、伽藍や境内を掃除したりと日々の生活の隅々までが含まれるということだ。農作業では山の斜面と河原近くの平らな場所に畑があり、そこから修行僧たちの毎日の食事を賄わねばならなかった。
ライは波動拳の修行だけではなく、その他の武術の修行も怠らなかった。剣術、棒術、槍術、弓術など、あらゆる武術を学んだ。
ライは一年経っても波動拳ができなかった。
「レン、波動拳を教えてくれ」
ある日、ライはレンの前に土下座して言った。
「俺に波動拳を教えてくれ」
レンは言った。
「ああ、わかった。じゃあ、河原へ行こうぜ」
河原へ出るとレンは言った。
「ライ、君はいつもどうやって気を右手に集めようとしている?」
ライは答えた。
「目を閉じて、意識を右手に集中している」
「まあ、たしかにそういうことなんだけど、なんていうかな、心を無にするんだ」
「心を無にする?」
「いや、心を無にするだけじゃ足りない。自分の居場所が右手の位置になるんだ。そういう感じかな」
ライは不思議な気がした。
「自分の居場所が右手に?」
レンは続けた。
「それから、波動拳に使う気は自分の中の気だけじゃない。周囲の気も使うんだ」
「周囲の気も?それ、初めて聞いたぞ」
「達人だとほとんど周囲の気だけで波動拳が撃てるらしい」
「え?ほんとか、それ?」
レンは頷いた。
「うん、実際、右手に集中する気は自分の気だけど、放つのは空気とか周りの気を圧縮した球なんだ」
ライは足を広げ腰を落として右手を肩の高さに上げた。そして、目を閉じた。心を無にした。いや、心を無にするとはどういうことなのだろう?自分の居場所が右手に?周囲の気も使う?
「レン、どういうことだ?」
レンは言った。
「とにかく考えずにやってみろよ」
ライはまた構えて、右手に集中した。頭の中をカラにして、周囲と一体になった。それでいて右手だけが存在するかのようになった。ライはここだと思い気の球を放った。それはまさに波動拳だった。大きな石の上の的にした石には当たらなかったが放つことができた。
「すげえ・・・、できた」
ライは笑顔になった。レンは言った。
「できたな。あとは的に当てる練習だな」
レンは伽藍のほうへ向かって石段を上がって行った。
ライは何度も波動拳を石に向かって撃った。だが、なかなか的の石には当たらなかった。
それが何日も続いた。押し出すような放ち方が自分には合っていないかもしれないと思い、球を投げるような動きに変えてみた。すると見事に命中した。
「これだ。これが俺の波動拳だ」
左足を前にして前後に足を開く。腰を落とす。右手を高くかざす。そこに気を溜め、その球をブンと振り投げる。押し出す放ち方よりも、この投げる放ち方のほうが強力な波動拳が撃てる気がした。命中率は日増しに上がっていった。
四、奥技『震空波』
ライが闘林寺に入門して六年経った。
大僧正は闘林寺全体を挙げて波動拳大会なるものを開いた。誰が最高の波動拳の使い手かを競うのだ。このときの闘林寺には波動拳を使える者が五十名いた。千人の修行僧がいる中で五十人は少ない。それだけ難しい技なのだ。
結果はライとレンが抜きんでているとの誰もが頷くものとなった。
そこで大僧正はこのふたりに奥技「震空波」を伝授することに決めた。
大僧正はライとレンだけを連れて河原に降りた。
「ライ、おまえの波動拳はかなり我流の型となったな」
「うん、投げるようにして放つのが俺の波動拳だ」
大僧正は言った。
「だが、震空波は押し出すようにしなければできない技だ。震空波は気を放ってぶつける技ではない。空間そのものを振動させる技だ」
レンは言った。
「空間そのもの?」
「やって見せよう」
大僧正は大きな石に向かって構えた。構えは波動拳と変わらない。
ライは言った。
「大僧正、的になる石が置いてないよ」
大僧正は言った。
「その大きな石が的なのだ」
「え?」
大僧正は目を閉じた。右手に気を集中している。そして、「やっ」と右手を石に向かって押し出した。すると、横にいたライとレンから見ると大僧正の右手の先から向こう側の景色が歪んだ。まさに空間が歪んでいるように見えた。その歪みは波打ってその波が大きな石にぶつかると、大人の背丈ほどある大きな石は砕けて崩れ落ちてしまった。
「すげえ」
ライは目を輝かせた。
「信じられない」
レンはポカンと口を開けた。
「さあ、やってみなさい」
大僧正はふたりに促した。
ライとレンは大僧正の真似をしたがどうしても波動拳になってしまい、震空波にはならなかった。
大僧正は言った。
「そうそう、この震空波は見たように岩をも砕く強力な技だ。人に対しては絶対に使わないように」
「え?じゃあ、なんのために・・・」
ライが言いかけると、レンが言った。
「シャンバラへの入り口を開けるためだろ?」
「じゃあ、シャンバラへの入り口って、岩を砕いて行くってこと?」
ライがそう言うと、大僧正は言った。
「それは私にもわからない」
大僧正は、「あとは自分たちで頑張りなさい」と言って伽藍のほうへ石段を上がって行ってしまった。
それから五年の歳月が流れた。
ライが十六歳、レンが十七歳になっていた。ふたりはまだ、震空波を会得できていなかった。
月のある日は夜も河原で震空波の修行だった。
「ダメだ、できない」
レンは河原に仰向けに寝転がった。
ライも同じように寝転がった。空には月が浮かんでいた。星々も見えた。
「レン、俺は母さんがシャンバラにいるらしいから、震空波を会得したいんだけど、レンはなんのためにシャンバラに行きたいんだ?」
レンは空の月と星々を見上げながら答えた。
「悟りの境地って興味あるか?」
「え?」
ライはレンが突然宗教的なことを言い出したので少し面食らった。
レンは言った。
「僕たちのいる闘林寺では武術の修行をする。武術の修行をする理由は体と心を鍛錬することによって悟りの境地に達することにあるんだ」
ライにはよくわからなかった。
「サトリ・・・?」
「聞くところによると、シャンバラの住民はすべて悟りを開いているそうだ」
レンは笑った。
「信じられるか、すべての人が神様みたいな人なんだぜ?僕は悟りを開いて父上に恩返しをしたいんだ」
「大僧正にか?あ、そうだ、大僧正は僧侶だよな。結婚しちゃいけないはずだ。俺の父さんは結婚したから破門されたんだ。大僧正に子供がいるっておかしくないか?」
レンは答えた。
「僕は捨て子なんだ」
ライは黙った。レンは続けた。
「昔、父上が山門に降りると赤ん坊の声がした。見ると門の下に赤ん坊が捨てられていた。それが僕だ。父上は僕を養子にしてくれた。だから、僕は立派な人間にならなければならないんだ。それが恩返しなんだ」
ふたりが話していると、石段を幼い小僧がひとり降りて来た。
「たいへんだぁ。レン、ライ、大僧正様が」
レンは立ち上がった。
「父上がどうした?」
小僧は息を切らして言った。
「亡くなられました」
「亡くなった?」
レンは頭の中が真っ白になった。
レンの心に大僧正への熱い思いが沸き上がった。捨て子の自分をここまで育ててくれた父親。奧技の震空波を会得して立派な僧になったことを見せたかったこと。いつも優しかった父親。厳しいことはあっても必ずその裏には愛があったこと。
レンは目を赤くして涙を滲ませた。
「父上、僕はシャンバラへ行きたかった。シャンバラで悟りを開いてこの寺に教えを持ち帰りたかった。でも、父上の寿命はそこまで待ってくれなかった。立派になった僕の姿を見せたかったのに・・・。悔しい。父上、悔しいです。僕はまだ、何の恩返しもできていない」
レンの右手に自然と激しい気が溜まった。
「僕は僧侶だ。捨て子だ。捨て子は不幸かもしれない。でも・・・」
レンの脳裏に覚えているはずのない記憶が映像として蘇った。山門の下で自分が泣いている。すると白い髭の優しい顔をした男が自分を拾い上げてくれる。「おうおう、よしよし、もう泣かんでいいよ。私が育ててあげよう。泣くな泣くな、ほれほれ」
レンの両目から涙がぶわっと溢れた。
「僕は不幸などではなかった。幸せだった。ありがとう、父上!」
レンは右手の気を放った。レンの右掌から波が打った。強い波だ。波動拳ではなかった。空間が波打った。それはまさに震空波だった。狙いの石は粉々に砕けた。
ライは言った。
「すげえ、できた。震空波。五年がかりでようやく」
レンは泣いていた。
「できた!父上!」
レンはもう一回震空波を放った。石の後ろにあった大木が倒れた。
ライは言った。
「おい、もういいよ。レン、できたよ。震空波」
レンは涙を拭いて言った。
「じゃあ、父上の所へ行こう」
「いや、待ってくれ」
ライは構えた。
石段に足を掛けたレンは振り返った。
ライは言った。
「俺もできると思う。震空波」
「ライ・・・。それは後にしよう」
「嫌だ。今、俺も」
ライは右手に意識を集中した。そして、死んだ父親のことを思い出した。
「父さん!」
右手を前に突き出した。でも、波動拳すら出なかった。
「あれ?」
レンはその様子を涙を拭きながら見ていた。
「たぶん感情の力が空間を波立たせるのだと思うぞ。心を無にする波動拳とは逆だな。感情を一点に集中し爆発させるんだ。例えるなら、赤ん坊が『おぎゃー』と泣くエネルギーだ」
「レンはすごいよな。その感情の爆発を自己分析しちゃうんだもんな。俺にはできねえな。せめて感情を爆発させることができれば・・・」
「早く行こう。今は震空波のことはもういいよ。早く父上の所へ。ライにとっても第二の父親だろう?せめて死んだ顔を拝みに行こう」
そのときひとりの人影が石段を下りてきた。人影は言った。
「震空波は心の奥にある扉を開いたときに生まれるものだ。それは何よりも強いエネルギーで空間さえも波立たせてしまう。赤ん坊が『おぎゃー』と泣くエネルギーと同じものだ。大人になるとそれを心の奥にしまって鍵をかけてしまいがちだ。その心の扉を自在に開けることができれば、波動拳と同じ使い方ができる。波動拳のできない、一般人がいくら心の扉を開けてもただ感情的になるだけだ。感情を物理的力に変えるのが武術のなせる業だ」
その人影は大僧正だった。
「父上?亡くなったのでは?」
レンは驚いて自分の感情さえわからない混乱に陥った。
「私が死んだと聞いておまえは私に対する感情を爆発させることで震空波を会得した。よかったな」
レンは嬉しいのか悔しいのかわからなかった。
「父上、騙したんですね?」
「そうだ。騙した。これは賭けだった。おまえが私の訃報を聞いたのをきっかけに激しい感情を抱いてくれることを信じての嘘だった」
レンはなんと言ったらいいかわからなかった。
ライは言った。
「大僧正、俺には震空波ができない。どうしたらできる?」
大僧正は言った。
「西にある辺境の国、ラパタ国から震空波を使える者を送って欲しいと要請があった。あの国の王女がシャンバラへ行くことを望んでいる。その護衛と震空波を使いシャンバラへの鍵を開けるためにレン、ライを連れて行きなさい」
ライは言った。
「俺には震空波ができない。なにかコツのようなものを教えてくれ。大僧正」
大僧正は言った。
「感情の力だ。強い感情が必要なのだ。おまえたちの様子を見ていたが、ライ、おまえにも震空波は撃てるようになる。時間の問題だ。こんなときにラパタ国から要請があったことは何かの縁かもしれん。旅に出なさい。旅は多くのことを教えてくれる。もしかしたら旅の途中で震空波を撃てるようになるかもしれない」
ライは言った。
「本当か?」
「確言はできない。だが、そう慌てることもあるまい。震空波はレンができる。鍵を開けるにはひとりで充分だ。シャンバラは理想の仏国土だ。おまえたちには多くを学んできて欲しい」
ライは言った。
「シャンバラへ行けば震空波を会得できるのか?」
「それはわからん。ただ、ライよ。私はおまえには大きな可能性を感じる。行ってきなさい。大きな人間になるのだ」
ライは頷いた。大僧正は言った。
「それから、レンよ。いい加減にそのおかっぱ頭はやめよ。シャンバラへ行くのだ。剃髪しなさい」
レンは言った。
「嫌です。僕の自己イメージを崩したくないです。それに僕を騙しておいて突然ラパタ国へ行けとは、僕の気持ちはどうなるんですか?整理がつきません。」
大僧正は笑った。
「ほっほ、悪かったな。おまえは自己イメージと言うが、シャンバラに行けばその考えも変わるかもしれんな。まあ騙したのは悪かった。だが、おかげで震空波を会得できたんだ。私も死んでないし、結果はいいことばかりだ。ふたりとも、もう今夜は休みなさい。明日出発するのだ」
第二章 洞窟への旅路
一、マール国にて
ここは闘林寺の東の平野にある大国マール国の首都、碁盤の目のような区画整理された広大な都の北端にある王宮、龍昇殿、玉座の間。金色の服を着ている太った若い王は側女を膝の上に抱きながら玉座に腰掛け、目の前にいる跪いた将軍アガドの進言を聞いていた。
「陛下、地下世界シャンバラに我が軍は侵攻すべきと存じます。シャンバラには多くの財宝があると聞いております。しかも、その財宝の中のひとつ、というか、最高の秘宝、黄金のダイヤにはそれを持つ者の世界征服を可能にする魔力があると言われています」
王は言った。
「世界征服か。そうすると余にどんないいことがある?」
王は膝に乗せた側女の唇を吸った。アガドは跪いて答えた。
「世界中の富が陛下の物となります。山海の珍味、世界中の女たち」
王は身を乗り出して言った。
「ほう、世界中の女たちか。この大陸中の女という意味か?」
「いえ、この大陸だけではございません。世界中でございます。西方世界にいると聞く金髪の白い肌の女や、さらに遠くの黒い肌の女なども手に入るということでございます」
アガドはニヤリと笑って言った。王も笑みがこぼれた。
「それは楽しみだのう」
若い王は側女の乳房をまさぐりながら言った。
「で、そのシャンバラへの入り口は見つかったのか?」
「まだでございます」
「なに?」
「しかし、手は打っております。スパイを山岳地帯に放っております」
「で、何か動きはあるのか?」
アガドは言った。
「山奥の小国、ラパタ国の王女ルミカが、シャンバラへ向けて出発するとの情報がございます」
「ラパタ国か・・・」
若い王は側女の下着の中に手を入れて考えていた。
「その王女はシャンバラへの入り口がわかるのか?」
アガドは答えた。
「霊感の強い娘でして、シャンバラで真実を探求したいとかいう小娘にございます」
「あー、真実か、余の苦手なタイプだな。そうだ、シャンバラに入るためには鍵が必要であるとか?」
「はっ、震空波という武術が鍵とかで、闘林寺の僧にその使い手がいるそうでございます。王女ルミカは闘林寺の者を同行させるとのことです」
「どうなのだ?その闘林寺の僧と、ラパタ国の王女を捕えて強制的にシャンバラへの道案内をさせては」
アガドはかしこまって言った。
「は、そうするという選択肢もありますが、その場合、僧や王女が協力しないという可能性がございます。シャンバラへ軍事的に侵攻すると言えば、その者たちは反対するでしょう」
「マール国王の命令でもか?」
アガドはさらにかしこまって言った。
「怖れながら陛下、陛下の権力はまだ、山奥の辺境までは充分に行き渡っていないのが現状でございます」
「そうか、そうなのか」
「それゆえ、陛下にはシャンバラの秘宝が必要なのでございます」
「なるほど、白い女や黒い女を抱くにはその秘宝が必要なのだな?よし、そちにすべて任すぞ。余はその秘宝以外いらぬ。シャンバラの財宝は、そちが兵士たちへの褒美とするがよい」
「は、ありがたき幸せ。では、失礼仕ります」
アガドは玉座の間から引き下がった。
アガド将軍は王宮を出るとその黄金の巨大な建物を振り返りニヤリと笑って呟いた。
「ふん、無能なブタめ、せいぜい女と戯れているがいい」
二、ラパタ国にて
ラパタ国は辺境の城塞都市で、石を積んでできた壁に囲まれている。壁の外には田畑があり普段農民は外で田畑を耕している。非常時は全員壁の中に逃げ込む。人口は一万人ほどだ。壁は正方形の囲いで、四隅に櫓が立っている。東西南北に向いている四辺の中央にはそれぞれ門がある。東門が正門だ。東側は開かれた田園地帯で、南側を川が西から東に流れている。南門から出ると、田畑がありその川がある。川の南側は山が迫っている。城の北側は森の深い山が迫っていて東西に稜線が延びている。城の西側はかなり狭く、道が川に沿って西へ延びており、その彼方にシャンバラへの入り口があると言われている。壁の内側には町があり、真ん中より北西側に寄った場所に王城が建っている。この城は二階建てで壁と柱が近郊で採れた石を積んで建てられていて、屋根や二階の床は木造である。屋根は青い瓦で葺かれてある。
一階にある玉座の間にて黄色い武道着を着たライと青い武道着を着たレンが王の前に跪いていた。
西を背にし、東を向いた玉座に着いているラパタ国王は言った。
「面を上げよ」
ライとレンは王のほうに顔を向けた。
「そのほうらが、闘林寺で震空波を使える僧だな」
レンは答えた。
「はっ、震空波を使えるのは私のみで、この者は護衛のための伴にございます」
王は自分の横に控えている白いワンピースを着た十八歳の王女ルミカに訊いた。
「ルミカよ。この者たちと共にシャンバラを目指すと言うのだな?」
ルミカは言った。
「はい、お父様。わたしはシャンバラで真実を手に入れたいのです。シャンバラから招きの声が聞こえます」
王は頷いた。
「うむ。わしは当初は反対していたが、今ではおまえの真実への熱意を応援したくなっているから不思議だ。で、軍勢はどれほどつけたらいいのだ?僧よ」
レンは答えた。
「私たちふたりでルミカ姫を守っていきます」
王は驚いた。
「ふたりだけで?バカな。無謀だ。山には山賊がいるのだぞ」
レンは言った。
「山道は狭く、宿営地を作る場所もないほどだと聞きました。泊めてくれる民家もほとんどないと聞いております。基本的に野宿です。軍勢はかえって邪魔になります。少数のほうが機動力があり逃げるのに便利です。姫には庶民の娘に変装していただきます」
王は困った。
「うむ。ルミカはどう思う?」
「わたしは剃髪し僧服を着て行きたいです。僧としてシャンバラに行きたいのです。レンとやら、それではいけませんか?」
レンは答えた。
「何とかなるかと思います」
王は驚いた。
「なんと剃髪?まだ、十代の乙女がか?」
「お父様、真実を手に入れるには出家しなければなりません」
「むうぅ、そこまで覚悟ができているのか」
王は別の心配をした。
「だが、若い男ふたりに、若い女ひとりでの旅とはなにか間違いがあっては・・・」
レンは言った。
「わたしたちは僧侶でございます。僧侶には不邪淫戒という戒めがございます」
ルミカが言った。
「わたしはこの者たちを信じます」
王は言った。
「だが、わしはまだ信じられん。信じられんのはふたりの人格などではなく、単純にふたりの武力だ。五十人の山賊が現れたらどう戦う?」
レンは言った。
「ではこの城の広場で五十人の兵を相手に我々の武術を披露いたします」
「ほう、それはいい。五十対二の乱舞か。しかし、乱舞ならいいがリンチになりはしないか?」
レンは笑顔で言った。
「とにかくやってご覧に入れましょう」
城壁内の広場で五十人の木刀を持った兵士に対して丸腰のレンとライが戦うこととなった。
実際、やってみると、レンとライは無傷で五十人を倒してしまった。
王は言った。
「なるほど、強い」
レンとライは王の前に跪いた。
「これならば、安心してそのほうらに我が娘の命を預けられる。ルミカよ、シャンバラへの旅、認めるぞ。では、出発式を盛大に開こう」
レンは言った。
「いや、出発式などとんでもない。ルミカ姫はこっそり城を出るのです。しかも、国民には病気で寝込んだことにするのです。姫の安全を考えるのならばそうすべきです」
「うむ、もっともな意見だ。ではどうだ。近い者だけでひっそりとした夕餉の会を開くのは?わしと王妃と王子のコタリとルミカと大臣とそのほうら僧ふたり、それだけの秘密の宴だ」
こうしてひっそりとした夕餉の会が開かれた。
背の低い頬肉の垂れた初老の男、ゲンク大臣が言った。
「ルミカ姫の門出の記念と安全を祈って乾杯!」
「乾杯」
王と王妃と大臣は酒を飲み、成人していない他の者、ルミカ姫、コタリ王子、レン、ライはラパタ国の法律では酒を飲めないので、代わりにジュースを飲んだ。
ルミカの弟、十四歳のコタリ王子は言った。
「お姉様は、シャンバラで悟りを開きたいのですか?」
ルミカは答えた。
「もちろん、そのために行くのです」
「帰ってきますか?」
「帰ってくるわよ。でも長くなるかもしれないわね」
王は言った。
「わしが死ぬ前には帰って来てほしいな」
王妃も言った。
「そうよ、二度とルミカの顔を見られないなんてあまりに寂しいもの」
ルミカは答えた。
「安心してください。五年以内には帰ってきます」
王は言った。
「五年か・・・長いな」
「悟りを開き次第帰ってきます」
ルミカがそう言うと、コタリ王子が言った。
「悟りを開けなかったら?」
「五年経ったら開けなくても帰ってきます」
王は言った。
「レン殿、帰りも警備してくれるのだね?」
「もちろんです。王様」
ライは黙っていた。王様の前で緊張している、というか、綺麗な言葉を喋れない自分の田舎臭さに辟易していた。
ルミカ姫はその後、髪を落として剃髪した。
ルミカ姫はこっそりと翌朝、日の出前に出発することとなった。
その情報を密かにマール国の将軍アガドに伝えた者がいた。夕餉の会の参加者か、それを給仕していた何者かなどが疑われるが表には出ず、ラパタ王やルミカ、レンとライも知らずに一夜を明かした。
三、七つの峠
出発の朝が訪れた。
まだ日の出前のラパタ国、城の西門には王と王妃、コタリ王子、そして大臣が、見送りに出ていた。西門は城にほとんど接していて、北門のほうへ城壁と城の間に狭い通路がある。それに対して城の南側城壁内には兵士たちと一部の国民の住む棟が連なっている。城の東側城壁内には広場がありその東に正門がある。
剃髪したルミカはゆったりとした白い僧服を着ている。ライは黄色の武道着、レンは青い武道着を着ている。ライとレンは食料などの荷物を背負い丸腰だが、王女を守ることには自信があった。なにしろ五十人の木刀を持った兵士に勝ったのだ。山賊などに負けるはずはない、とレンもライも思っていた。
王は言った。
「レン、ライ、娘を頼む」
レンは答えた。
「任せてください、必ず、シャンバラまで送り届け、連れ帰ってきます」
「うむ、頼む。ルミカ・・・」
王は涙を目に溜め娘を抱きしめた。
「必ず帰ってこい」
ルミカは父の体を離して言った。
「お父様、男がこの程度のことで涙を流すのは恥ずかしいですわ」
「おう、そうだな」
王はルミカを抱いた腕を解いた。
「お父様、行ってきます」
ルミカは微笑んだ。そして、父に背を向けレンとライに言った。
「ふたりとも、行きましょう」
レンとライは王たちにお辞儀をして、ルミカに続いて門を出た。橋を渡り谷川沿いの道を西に向かって登って行った。
少し高い所に登って振り返ると東に朝日を背にしたラパタ城が見えた。
ルミカは言った。
「これから七つの峠を越えて行かなければなりません」
レンは訊いた。
「そこにシャンバラへの入り口があると?」
「はい、深い洞窟があります」
ライは訊いた。
「どうして、それがわかるの?」
「わたしにはわかるのです。幼い頃、神の啓示があって、それ以来、シャンバラへの道がイメージできるのです」
「神の啓示ですか。僕にはないな。ルミカ姫には真実を見つける才能があるんですね」
とレンが言うと、ライは言った。
「なあ、レン。ルミカに敬語を使うのやめようぜ」
レンは面食らってライを見た。
「な、なんてことを言うんだ。小国とはいえ、ラパタ国の王女様だぞ。ルミカって・・・」
ルミカは笑った。
「ふふふ、ライは敬語が苦手なのね?」
ライは頭を掻いて言った。
「苦手っていうか、俺、人間はみんな平等だって思うんだよね」
レンは黙り込んでしまった。ルミカもハッとした表情になった。ライは言った。
「シャンバラにも王様とかいるのかな?いたら嫌だなぁ。お城があって、また、俺たち謁見とか言ってかしこまんなきゃいけないの?それが理想の世界かね?」
ルミカは頷いた。
「ライはいいことを言うわね。うん、レン、あなたもわたしのことはルミカと呼びなさい」
レンは頭を下げて言った。
「は、かしこまりました」
ライは笑った。
「だからさ、その『呼びなさい』とか『かしこまりました』とか言うのをやめようぜ」
ルミカもレンもおかしくなり笑いが込み上げてきた。
三人はその日、谷川沿いを登り、ひとつ目の峠を越えた。沢の近くの森の中で野宿することとなった。
ルミカは言った。
「野宿か・・・。わたし初めてだな」
ライは火にかけた鍋に入った野菜のスープをかき混ぜながら言った。
「俺は闘林寺に入る前は、父さんと毎日、洞窟で暮らしてたよ。なんだかその頃のことを思い出すな」
ルミカは言った。
「お父さんは、今、どうしてるの?」
「山賊に殺されたよ。それで俺は闘林寺に逃げ込んだんだ。ほら、スープができたよ」
三人はご飯にスープをかけて食べた。質素な食事だが、長い旅路になるかもしれず、仕方のないことだった。ライは久しぶりに肉が食べたかった。闘林寺では食肉は禁止されていた。今、野宿の場所として選んだ場所の近くを流れる沢には魚がいることをライは確認していた。ただ、真面目なレンが反対するのではないかと恐れて、ライは魚を獲るなどとは言えなかった。
ルミカはライの言葉を受けて言った。
「そう、山賊に・・・それは辛かったでしょうね?」
ライは言った。
「グルドって奴だ。そういえばシャンバラに行きたがっていた。もしかしたら、ここらの山の中で出くわすかもしれない」
「怖いわね」
ルミカは肩をすくめた。
レンは言った。
「怖れることはないよ。僕たちがいる」
ライは言った。
「グルドか。あいつがいたから父さんと母さんは結婚して俺ができたとも言える。そして、父さんを殺したのもあいつ。嫌な縁だな」
レンは言った。
「闘林寺を破門された男か。山賊になるなんて愚かな・・・」
「出るかしら?」
ルミカは言った。
「出るよ」
ライはそう言うと、プーッとおならを出した。
ルミカは笑った。
「下品ね」
ライも笑った。
「屁をしない人間がいるか?」
レンは言った。
「悟りを開いているシャンバラの人間はしないだろ」
「するだろ。ルミカもするだろ?」
とライが言うと、レンは言った。
「するわけないだろ?お姫様だぞ」
ライはルミカの眼を見て言った。
「するだろ?」
ルミカは笑って言った。
「食事中はしないわね」
レンもライも笑った。
三人は食事を終えると焚火を消さずに、眠りに就いた。
その三人を木の陰から見ている者がひとりいた。その者は三人が寝付くとその場を離れた。
ライたちの場所から少し隔たった森の中に、グルドたち四十人の山賊が野宿していた。
グルドは酒を飲んでいた。
「スネル、どうだった?」
スネルと呼ばれた小柄な鼠(ねずみ)のような顔をした男は言った。
「確かに、ラパタ国の王女ルミカでございます」
グルドは言った。
「やはり、おまえの情報は信頼できる。で、何人の護衛がいる?」
スネルは答えた。
「ふたりです」
「やはり闘林寺の者か?」
グルドが訊くとスネルは答えた。
「おそらく、そうかと。武道着を着ています」
グルドは闇を見つめて呟いた。
「やはり、震空波が鍵なのだな・・・」
翌朝、日の出とともにライたちは出発した。
ふたつ目の峠に向かった。
グルドはスネルに偵察をさせながら、ゆっくりと後を追った。ライたちはそのことに気づかなかった。
天は晴れていた。ライたちは樹木の生えない峠を越えた。だいぶ標高が高くなっていた。それでも谷に降りれば森は深かった。また、森の中で野宿した。
グルドたちもライたちの後方に距離を置いて野宿をした。
四、アガド軍入城
ルミカ王女が出発して三日が経った。
ラパタ国では、国王がルミカを心配していた。
が、その心配どころではなくなった。ラパタ国の東の山の上に、敵国軍が峠を越えて攻め込んで来たことを伝える狼煙が上がったのだ。ラパタ国王は国民を城内に入れ門を閉ざした。
攻めて来たのは大国、マール国のアガド将軍の軍千騎だった。
ラパタ国はマール国に毎年貢物をしていた。だが、属国ではなくあくまで独立国であった。したがって、突然のアガド軍の登場は侵略行為に他ならなかった。
鎧で武装したアガド軍はラパタ国の城壁を包囲した。
東の城門の前でアガドは大音声で叫んだ。
「ラパタ国王よ、門を開け。戦えば必ず我々が勝つ」
その言葉を兵士から伝え聞いたラパタ国王は言った。
「たった千騎で我が国に勝てると思っているのか?いかにマール国が大国とはいえ、地の利というものがある。この地で利があるのはわしらのほうだ」
そう言っていたところにまた情報が来た。ラパタ国の兵士たちが城門を開いたというのだ。ラパタ国王は城のバルコニーへ出て城門のほうを見下ろした。
「なぜだ?なぜ、城門が開くのだ。あれは内側からでしか開かぬようにできているはずだ。・・・まさか、内通者がいたか?」
アガド軍は城内に入って来た。ラパタ国軍は戦いもせず、アガド軍を迎え入れた。出迎えに出たのはラパタ国の背の低い頬肉の垂れた初老のゲンク大臣だった。
「アガド将軍、お待ちいたしておりました」
アガドは馬上にいたまま大臣に声を掛けた。
「ご苦労。王の身柄は確保してあるか?」
「はい、ただいま、王家の者が玉座の間で捕縛されているところでございます。どうぞ、玉座の間へ」
大臣がそう言うと、アガドは馬から降りて部下を連れて城内に入った。
アガドが玉座の間に行くと、ラパタ国王、王妃、コタリ王子が縛られていた。
頬肉の垂れた大臣は言った。
「残念でしたなぁ、陛下。いや、陛下ではない、元国王よ」
ラパタ国王は縛られて床に座ったまま大臣を歯ぎしりして睨んだ。
「この裏切り者が」
アガド将軍はラパタ国王の前を素通りし、玉座に着いた。そして言った。
「ラパタ国王よ。この地は今日からマール国の一部だ。そして、シャンバラへの前線基地にする。ありがたく思え」
ラパタ国王は言った。
「バカな。アガドよ、おまえは正気か?我が忠誠心厚き国民が黙ってはおらぬぞ」
アガドは言った。
「ふん、弱小国の国民など、束になっても我が軍には勝てぬわ。その証拠にゲンク大臣の裏切りにも気づかなかったではないか。お人好しの国王様よ」
縛られたコタリ王子が言った。
「アガド、何が狙いだ?シャンバラへの前線基地とはどういうことだ?」
アガドは玉座で反り返って言った。
「なんだ、小僧。生意気な。王族というのは、生まれながらに高貴な立場にある。自分の弱さも知らずに気位ばかりが高くていかん。まあいい、小僧、シャンバラには世界を支配するための秘宝があるそうだな。マール国王陛下がそれをご所望だ。マール国が世界の覇権を握るのだ」
コタリ王子は言った。
「本気でそんな物があると信じているのか?」
アガドは言った。
「地下世界があるとしたら、それくらいの不思議な物があってもおかしくはあるまい?仮になくてもなにしろ理想の仏国土だ、わが軍を慰めてくれる財宝くらいはあるだろう」
ラパタ国王は言った。
「おまえの私欲か?アガド」
アガドは言った。
「私欲・・・。俺は軍人だ。マール国王に忠誠を誓っているのだ。陛下からは秘宝以外の財宝は我が軍のものにしても良いと仰せつかっている。陛下が欲しいのは秘宝のみだ」
ラパタ国王は言った。
「我々を殺すのはいい。だが、国民は殺すな」
アガドは立ち上がりツカツカとラパタ国王に近づいて刀を抜いた。その切っ先を国王の喉に当てて言った。
「なにを勘違いしている?俺は軍人だ。殺人鬼ではない。おまえたちを殺すことはしない。利用できるうちはな」
アガドは刀を鞘に収めた。そして、兵士たちに言った。
「こやつらを牢に閉じ込めておけ。城壁にマール国の国旗を掲げよ!」
ラパタ国の城壁にたくさんのマール国の赤い国旗が掲げられ、はためいた。
五、キト
ライたちは四つ目の峠を越えていた。
森の中で野宿することに決めた。
ライは言ってみた。
「なあ、レン、ルミカ。今晩は魚を食べないか?そこの川に美味そうな魚が泳いでいるんだ」
ルミカは言った。
「あなたは僧でしょう?動物を食べるなど・・・」
レンは言った。
「ルミカは、お城にいる頃から菜食主義者なの?そういえば、送別の夕餉では肉が出たね。僕は食べなかったけど」
「俺も食べなかったよ。食べたかったけど」
と、ライは言った。
ルミカは言った。
「わたしは出家した以上、食肉はできないわ」
ライは言った。
「つまらねえな。俺はここ十年ほど菜食主義に付き合って来たけどそろそろ・・・」
「ダメだ、ライ。僕たちは僧侶だぞ。シャンバラは僧侶の国だ。肉を食べるのは穢れだ」
レンがそう言うと、森の中から声がした。
「肉ならあたしが持ってるよ」
「誰だ!」
レンたちが森の中を見ると、若い女が立っていた。
髪の毛は茶色で短く、皮の衣に肩パッドと胸当てをして、手甲をはめ、脛にも当てものをして腰には刀を差している。まるで戦士だ。
「久しぶりだね、ライ」
と、十代と見える若い女は言った。
レンはライの顔を見た。
「知り合いか?」
ライは記憶の糸を手繰った。その女の顔と過去に出会った女の顔を一致させようとした。それは思いのほか早くできた。過去に出会った同世代の女など数えるほどしかいない。幼い頃は父親と山での生活だったし、闘林寺では女人禁制だった。
「キト・・・か・・・?」
ライは思いついた名を言った。
女の顔はパッと明るくなった。
「覚えていてくれたんだ!」
「覚えてるもなにも、俺の命を救ってくれた恩人だ。忘れるわけがないさ」
「命の恩人・・・それだけか?」
「え?」
キトは言った。
「約束したのは覚えてないのか?」
「約束?」
ライの頭の中は「?」でいっぱいになった。しかし、思い出した。
「結婚のことか?」
キトの顔は本当に晴れやかな顔になった。
「覚えていてくれた。よかった」
レンはライに訊いた。
「結婚?なんだ、それは?初めて聞いたぞ。誰だよ、この人は?」
「俺の父親がグルドに殺されたときに、俺の縄を切って逃がしてくれた人だ。そのとき将来結婚する約束をした」
レンは訊いた。
「結婚するのか?」
ライは答えた。
「うん、約束だから」
ルミカは言った。
「シャンバラへの旅はどうなるの?」
ライは言った。
「それなんだけど・・・キト、俺たちの仲間に入ってくれないか?」
「え?」
キトは意外な申し出に驚いた。
「だけど、あたし・・・」
ルミカは言った。
「いいじゃない。命の恩人が仲間になってくれるなんて。結婚はライが僧侶をやめるかどうかで決まるけど、ただ旅の仲間に加わるだけなら闘林寺の禁制は犯すことにならないわよね。あなた、腕は立つの?戦士みたいな格好してるけど」
キトは答えた。
「まあ、山の中で暮らしてるから」
ルミカは言った。
「決まりね。キト・・・だっけ?」
「うん」
キトは頷いた。ルミカは言った。
「キトはわたしたちの四人目の仲間!」
キトもライも、キトが山賊グルドの娘であることを言い出すチャンスを失った。ライはそれを告げたうえで仲間にするかどうかを話し合いたかったが、結局言い出せなかった。ただ、重要なのは、ここにキトがいるということは近くに山賊グルドの一味がいる可能性が高いということだ。
肉はキトだけが食べることとなった。
グルドは宿営地で鹿の肉を頬張りながらスネルの報告を聞いていた。
「ふ~ん、キトがルミカ姫たちの仲間になったか、うめえな、この肉・・・ほんとにうめえ・・・って、なにぃ?キトがルミカ姫たちの仲間になっただとぉ?」
子分のパンチョは横で鹿肉を頬張りながら言った。
「親分、今のセリフはギャグにしてはレベル低いっすね」
「うるせえ、パンチョ。で、スネル、あいつらはキトが俺の娘だとわかっているのか?俺たちのいることは知られたのか?」
スネルは答えた。
「それが、どうもルミカ姫はそのことに気づいてないようなのでして・・・どうします?」
「まあいい、あいつらがシャンバラを目指して旅を続けることが第一だ。俺たちにはあいつらに付いていくしか道はない。とくにルミカの霊感が頼りだ。それから、あのふたりの震空波がなければ、シャンバラへの門は開かない。泳がせるしかあるまい」
六、ツォツェ村
ルミカたち一行は、シャンバラへの入り口である洞窟の前に着いた。ラパタ城を出て七日目の夕方だ。そこには村があり、ツォツェ村と言った。人口数十人の小さな村だ。白いドーム型の建物がいくつかあるだけだ。周囲は樹木がなく、畑もない。広場の中央に饅頭型に石を積んだ白い仏塔がある。その広場の西側に断崖絶壁が聳えていて、緑色の瓦を葺いた七重塔(ななじゅうのとう)が絶壁にめり込むように建っている。その左右に巨大な磨崖仏がひとつずつ彫られてある。
レンは言った。
「こんなところに村があるんだね」
ルミカは言った。
「シャンバラへの入り口を守護するための村です」
ライは言った。
「そういえば、ここまで来るのに、道があったね。道があるということは人の往来があるってこと?」
ルミカは答えた。
「ええ、ここはラパタ国の秘密の領土です。ここは食物を確保できる環境にありません。ラパタ国から食料は届けるようにしています」
ライは言った。
「なぁんだ。じゃあ、ルミカの霊感とかに頼らなくてもここまでは来られるってことか」
ルミカは言った。
「霊感がものを言うのはここからです。洞窟は迷宮です。一度入ったら二度と出られないとも言われています」
そこへ村長が現れた。僧服を着た、痩せた老人男性だ。
「ようこそ、ツォツェ村へ。シャンバラを目指しているのですかな?」
ルミカは答えた。
「わたしはラパタ国の王女ルミカだ。シャンバラへ降りる前に一夜の宿を提供していただきたい」
長老は言った。
「よろこんで。ここは、シャンバラへの旅人が最後に地上の享楽を甘受する場所」
ルミカは言った。
「享楽はいらない。寝床と少しの食事を用意していただくだけでいい」
長老は言った。
「わかりました。旅人の菩提心は尊重しなくてはなりません」
四人は宿泊所に案内され、質素な食事を振舞われた。それから眠った。
七、迷宮洞窟
翌朝、村人に別れを告げ、ルミカたちは洞窟に足を踏み入れた。断崖絶壁にめり込むように七重塔が建っていて、その建物が迷宮洞窟への入り口だった。
四人はひとつずつランプを持っていた。キトはどこから持って来たのか、缶に入った黄色の塗料を持っていた。
ライは訊いた。
「キト、その黄色の塗料、どうするの?」
「分かれ道で印をつけて行くんだ。帰り道がわからなくなったら嫌じゃないか」
「あ、そうか」
ライたちは納得した。
だが、これはキトの裏切りでもあった。キトに黄色の塗料の缶と刷毛を渡したのはグルドの子分だからだ。キトが黄色の塗料で付けた印にしたがってグルドたちは迷宮に入って来るのだ。
先頭にレンが立ち、次にルミカ、その次にキト、最後にライが続いた。洞窟には狭い所や広い所があった。鍾乳石が天井からぶら下がっていてキラキラしていた。その下には槍の穂先のような石筍が上を向いて立っていた。
蝙蝠がたくさんいた。しかし、まるで人が通ることを想定していたかのように歩きやすい洞窟だった。狭くても匍匐前進するような場所はないし、崖を降りる場所などもなかった。ただ、分かれ道が無数にあり、何度も同じところを通っていると錯覚させるような幻惑的な景色が続いた。
ルミカは分かれ道に来ると迷わず進むべき道を選んだ。
レンは言った。
「ルミカ、なぜ、君には道がわかるんだ?霊感ってそんなに信用できるものなのか?」
ルミカは答えた。
「霊感と一言で片づけられたくない。わたしには真実を探求する心があって、神の啓示を受けました。わたしは神に導かれているだけです」
ライは言った。
「それを霊感って言うんじゃねーの?」
ルミカは笑った。
「そうですね」
広い場所に出た。脇には水の流れがある。水が流れている方向は広くていかにも進行方向といった感じだが、ルミカはそちらの進路を取らず、もうひとつの進路、水の流れていない狭い方に進路を取った。
キトが言った。
「本当にこっちなの?」
ルミカは答えた。
「ええ、こっちです。広い通路は地下を流れる川に行きつきます。でも、そこで行き止まりです」
「ふ~ん」
キトは狭い方に黄色の塗料で丸印を描き。広い方にはわかりやすく大きくバツ印を描いた。
帰り道のほうには三角印を描いた。
「おい、見ろよ」
ライが洞窟の脇を指さした。
「これ、人間の白骨死体だぜ」
キトは言った。
「嫌ね。ルミカ、本当に大丈夫?あたしたちも白骨死体になったりしない?」
ルミカは答えた。
「大丈夫。わたしを信じて」
洞窟内には人間の骨が転がっている所がいくつもあった。ライは不安になった。母親のメイは本当にシャンバラにいるのだろうか?この洞窟内で死んで骨になっているのではないか?
グルドたち山賊はツォツェ村に到着していた。ツォツェ村からは歓待を受けた。山賊たちはおおいに感動した。山賊は略奪しようとツォツェ村に入ったのに、歓待されたのだ。それは山賊になってからというもの経験したことのないことだった。
背の低い太ったパンチョは言った。
「親分、もしかしたらシャンバラでももてなしてくれるかもしれませんぜ。そうしたらどうします?略奪しますか?」
グルドは言った。
「ううむ、難しいな。歓待されたら略奪する動機がなくなるからな。シャンバラは仏国土だと聞いているが、俺には仏の教えなど関係ねえ。財宝を頂いたら、とっとと帰ってくるか。もしかしたらその財宝もすんなり貰えたりしてな。山賊が山賊である理由がなくなるな」
パンチョは言った。
「でも、親分、シャンバラがすげえ軍隊を持っていて、山賊の俺たちを捕まえて首を刎るようなことがあったらどうします?」
「戦うしかないな」
グルドは言った。パンチョは言った。
「この四十人で軍隊と戦うんですか?相手は千騎二千騎といてもですか?」
グルドは笑った。
「そのときは逃げるしかないだろう」
洞窟は迷宮と言われているだけ奥深かった。もう、地上では日が暮れていたが、地下にいるルミカたちにはそれがわからなかった。眠くなったので途中の広い場所で眠ることにした。
翌朝、ルミカたちはパンと水だけの朝食を済ますと歩き始めた。
その頃、グルドたちも洞窟に入った。
松明を持つパンチョが言った。
「おお、素晴らしいですぜ、親分。キトの奴、ちゃんと印を付けてくれてある。さすが親分の娘っすね」
グルドはニヤリと笑った。
「もうすぐ、抱えきれないほどの財宝を手に入れるのだ。おまえたちにもちゃんと分け前をやるからな」
山賊たちは声を上げた。
「おー、さすが親分」
ライは立ち止まって言った。
「今、なにか聞こえなかったか?『おー』っていう声のようなものが?」
キトは言った。
「気のせいじゃないか?」
「そっか」
ライは後ろを見ていたが、首をひねって前に向かって歩きだした。
しばらく狭い通路を行くと、ルミカたち四人は大きな空間に出た。天井は二階建ての建物がすっぽり入るほど高かった。壁と天井は乾燥した岩肌がゴツゴツとしている。
その壁面に、明らかに人工物で長方形の石碑のようなものがあった。それは高さが人の身長の倍はあり、三人が手を繋いで横に広がったほどの幅があった。
「これだ。この石板がシャンバラへの門だ」
ルミカは石板の文字を読んだ。
「『この先に進む者、真実を愛する者』」
レンは言った。
「じゃあ、この石板を震空波でぶっ壊せばいいんだな?」
ルミカは言った。
「お願いします」
レンがキトにランプを渡すと、ルミカ、キト、ライはレンから離れた。
レンは石板に向かって左足を前に出し腰を沈め、右手を肩の位置に挙げて林檎を掴むような形を取った。その手の中に気が集中されていった。レンは目を閉じていた。
そして、レンは目をカッと見開き、右の掌を前に突き出した。
「震空波!」
開かれた右手から空間を震わせる波が出た。その波はランプの光を屈折させ洞窟内はまるで光のショウが行われているかの如くになった。
空間を揺らす波は石板に届いた。
だが、石板は割れなかった。傷ひとつ付かなかった。
「なぜだ?」
レンは石板に駆け寄った。
「震空波で壊れるはずじゃないのか?」
ルミカは言った。
「いや、震空波で壊れるはず」
「じゃあ、なぜ壊れない?僕の震空波じゃダメなのか?」
ルミカはライを見た。
「あなたの震空波は?」
ライは答えた。
「いや、俺には震空波は撃てないんだ」
そのときランプを手にしたキトが洞窟の広い空間の隅にある白骨死体の近くで言った。
「ここに、文字が刻まれてある。ライ、おまえの名前が刻まれてあるぞ」
「え?」
三人はキトの周りに集まった。そこには数人の白骨死体があり、壁の岩に文字が刻まれてあった。
ライは読んだ。
「カイ、そして、小さなライ。わたしはシャンバラに行くというわがままのためにあなたたちを捨てました。でも、あなたたちを愛してなかったわけじゃない。ただ、家族への愛よりも真実への愛が勝ってしまったのです。ごめんなさい。わたしはここまで来て門を開くことができず、もう飢えて死にそうです。たぶん死ぬでしょう。家族を捨てたこと本当に後悔しています。ごめんね、ライ。
母、メイより」
ライは号泣し嗚咽した。
「母さん!こんなところにいたの?バカだよ。俺を捨てて、父さんも捨てて、真実なんて・・・三人で幸せに暮らすことができたのに、俺と父さんと母さんと三人で・・・でも謝るなんて、そんなこと・・・」
ライの右手の中にものすごいエネルギーの気が集まり始めた。
レンは言った。
「ライ、今のおまえなら震空波が撃てる。石板に向かって放て」
ライは号泣している。
「石板?今、俺はそれどころじゃないんだ。この感情は、この感情は。ああ、母さんの真実への道を阻んだ壁。もし、こいつが開いていれば母さんは死なずに済んだんだ。そうすれば母さんはシャンバラで真実を得て俺たちの所に帰って来たかもしれない。俺たちの幸せがこの壁のために・・・。今の俺ならこの石板は壊せる。震空波を何発だって・・・」
ライの頭の中には父の最後の言葉が蘇っていた。
「おまえは愛されて生まれてきた。そのことを忘れるな!」
ライは右手の気を石板に向けて放った。右掌と石板の間の空間が波打った。石板にはひびが入った。ライは震空波を放ち続けた。石板は割れ始めた。そこにレンの震空波が加わった。ふたりの震空波により石板は崩れ始め、そして完全に崩れ落ちた。向こうには不思議なものがあった。
ふたりは震空波を放つのをやめた。
石板の向こうには水の壁のようなものがあった。透き通っていて向こう側が見える。向こう側はこちらと同じような洞窟だ。ただうっすらと光が差し込んでいる。水の壁の厚さはその中を五歩も歩けば向こう側に行けるほどだ。
ルミカはその水を触ってみた。水ではなかった。ゼリーのような不思議な液体だった。
「ここを通っていくのね」
ルミカは液体の壁に足を踏み入れた。そして、全身が入ると歩いて向こう側に出た。
ルミカは振り返り、三人を呼んだ。液体を通して変に歪んだ声だった。
「おいでよ。大丈夫、心配ないわ」
レンはランプを置いて液体の中に入った。そして、数歩歩いて反対側に出た。
ライはまだ泣いていた。
「俺には母さんの思い出がない」
キトはライを促した。
「行こうよ。シャンバラへの入り口は開いたよ」
ライは涙を拭いてランプの灯を消して、そこに置き、液体の中に入った。数歩歩いて向こう側に出た。キトも同じようにした。
四人は向こう側の世界に辿り着いた。
液体の中を通り抜けたはずが、不思議なことに四人は濡れていなかった。
ライは母親の死をまだ受け入れられず、この地下がまるで母親の胎内であるかのような奇妙な錯覚を得た。シャンバラが理想世界というが、ライにとっては母親の胎内こそが理想世界であるような気がした。それは誰もがかつていた幸福の世界で、そこから人は生まれてくるのだ。あのストレスのない世界以上に安寧な世界があるだろうかとライは思った。はたしてシャンバラは理想の世界なのか?人はなぜ世界に生まれてくるのだろう?
ライは言った。
「ここがもうシャンバラなのか?」
ルミカは言った。
「向こうの光の差すほうに行ってみましょう。そこには理想世界が広がっているのよ、きっと」
四人は光のほうへ歩き出した。
崩れた石板とその向こうにある液体の壁に向かってグルドたち四十人の山賊は立っていた。
「これがシャンバラへの入り口か」
グルドは呟いた。そして言った。
「よしみんな、俺に続け」
グルドは液体の中に入った。それに続いて四十人の山賊はシャンバラへの通路を通り抜けた。
しかし、スネルだけは違った。山賊が全員液体の中に入るのを見届けると、元来た道を戻り始めた。そして、洞窟から出て、ツォツェ村からも出て、高台で狼煙をあげた。
その狼煙を見た仲間が等間隔に狼煙をあげて、七つの峠を越え、最後の狼煙がラパタ城から確認できた。
ラパタ城の玉座に座ったマール国将軍アガドはその狼煙の報告を受け立ち上がった。
「シャンバラへ行くぞ」
アガドは五百人の軍勢をラパタ城に残し、残りの五百人を従え、シャンバラへの道を進軍し始めた。
第三章 シャンバラ
一、歓迎会
洞窟を出ると、霧深い、山里の風景が広がっていた。
レンは呟いた。
「ここが地下世界シャンバラ?」
山の斜面には段々畑がある。空は霧で見えない。地下だから空があるはずはないが。
ライは言った。
「地下にも太陽があるのかな?作物は育つのかな?」
ルミカは言った。
「それはそのうちわかるでしょう。さあ、住民に会いに行きましょう」
四人は川沿いの道を歩いて里のほうに下って行った。
里は山と山の間に広がる狭い土地で、幅が一キロあるかないかの広さだった。水田と畑の広がる村がありを茅葺屋根の木造住宅が点在していた。
畑で農作業をしている住民に会った。中年の男性だ。地上の農夫と何ら変わらない姿をしている。肌の色は黄色の東洋的な人種である。服装は異国の服だが、地上にも充分ありそうなもので、上着は前で合わせて腰に帯を巻いて閉じ、その下にズボンを穿いていた。その住民は言った。
「おや、その服装からするとあなたたちは地上人か、珍しい。わたしは初めて見るな。前に来たのは百年前だと聞いているが・・・」
ルミカは挨拶した。
「こんにちは、ここはシャンバラですか?」
農夫は答えた。
「いかにもシャンバラです。あなた方は地上から来たのですな。では歓迎せねば。どうぞこちらへ」
農夫は四人の先頭に立って歩き始めた。
「地上人が来たら、歓迎することになっているのです。ここは地上との出入り口にある村でして、歓迎館があります。そこで歓迎会をします」
ライたちは周囲を見渡していた。畑で農作業をしている人々を見た。みんな笑顔で挨拶してくれた。畑では見たこともないような野菜を育てていた。
しばらく行くと、田園の中にある、茅葺屋根の二階建ての大きな建物に着いた。その建物の前には広場があり、いかにも村の集会場所のように見えた。
「ここが歓迎館です。どうぞ二階に上がってください。地上と違って酒も肉もありませんが、シャンバラの野菜料理は本当に美味でして、堪能してください」
いつのまにかルミカたち四人は個室の白いテーブルクロスの丸テーブルに着いていた。
出てくる料理はすべて野菜料理だったが、この世のものとは思えない美味さだった。
ルミカは給仕の男性に質問した。
「シャンバラの政府の首長と会いたい。できれば宗教指導者にも会いたいのですが。可能ですか?」
作務衣風の服を着た給仕の男性は言った。
「シャンバラには政府というものはありません。宗教指導者でしたら、大学の学長がそれに当たりますかね」
ルミカは驚いた。
「政府がない?では、どうやってシャンバラでは政治を行っているのですか?」
給仕の男性は言った。
「政府を必要とするほどシャンバラの人間は愚かではありません」
レンは言った。
「シャンバラの人間はすべて悟りを開いているというのは本当ですか?」
給仕の男性は言った。
「悟りを開くというか、すべての住民が高等教育を受けています。それで幸せに生きるための学問を修めるのです。ですから、教育を受けた大人は、そうですね、悟りを開いているとも言えるかもしれませんね」
ルミカは言った。
「では、宗教指導者の学長に会わせていただけますか?」
給仕は言った。
「宗教指導者ではありませんが、まあ、いいでしょう。食事が終わり次第ご案内します」
食事が終わると四人は給仕を先頭に階段を降りた。
すると、一階の広い食堂にはグルドと四十人の山賊が飯を喰らっていた。山賊たちは酒や肉のないテーブルを見て初めは不満だったが、野菜料理の美味さに舌を巻き、静かに食事を堪能していた。
パンチョは言った。
「美味いっすね、親分」
グルドは頷いた。
「うむ、美味い」
片眼の剣士バドは言った。
「スネルの姿が見えないが?」
グルドは言った。
「放っておけ。女でも漁ってるんだろ?」
階段を降りて来たライの眼にグルドの姿が映った。
ライは何かを投げる仕草をした。波動拳を放ったのだ。
食事中のグルドは顔面に波動拳を受け、椅子ごと後ろに倒れた。食堂はにわかに殺気立った。山賊たちは言った。
「誰だ。親分になんかしたのは?」
ライは手すりを飛び越え、階段から飛び降りた。
「俺だ。父さんの仇、今こそ取ってやる」
山賊たちは抜刀した。
レンは言った。
「やめろ、ライ!」
ライは山賊たちの中にひとりで殴りこんで行った。
食堂はメチャクチャだった。ライは椅子をぶん回して暴れた。
給仕は言った。
「愚かな。暴力など。地上人はこんなにもシャンバラと文化レベルに差があるのか?」
ルミカは言った。
「レン、ライを止めて」
レンは混乱の中に入って行こうとした。そのとき。
「やめて、みんな!ライもやめて!」
そう叫んだのはキトだった。
山賊たちは一斉にキトを見て動きを止めた。ライもそれに合わせて止まった。
キトは言った。
「あたしはライと結婚するの。だけど、ライが親父を憎んでいたり、みんながライを殺そうとするのなら、あたしは結婚できない。みんな、あたしのためだと思って、ライを殺さないで。ライもお願い。親父を憎まないで」
ライは言った。
「でも、俺はこいつらに父さんを殺されたんだぜ!」
キトは言った。
「だから、辛いだろうけど水に流して!」
そのとき、ライの背中を剣士バドが刀の頭で強打し、ライは気絶した。
「ライ!」
キトはライに駆け寄った。山賊たちはどうしたものか立ったままキトとライを見つめていた。
グルドはようやく立ち上がった。
「痛かったな。ひでえ奴だ。食事中に不意打ちとはよ」
剣士バドは言った。
「やはり、殺したほうがいいのではないか?」
「いや、こいつは娘が惚れた男だ。かわいい娘のためにも殺すわけにはいかない。それに今、俺たちはシャンバラにいる。シャンバラの警察は俺たちなどすぐにお縄にしちまうかもしれない。ここは穏便に行こう。こうやって歓迎会までしてくれるんだ。もしかしたらお宝も、奪うまでもなく譲ってくれるかもしれないぞ」
バドは言った。
「それはつまらないな」
グルドは言った。
「だが、地上に帰ってからが大変かもしれない。なにしろシャンバラの宝を持ち帰るんだ。他の山賊が横取りに来るかもしれん。そのときはおまえの力が必要だ」
バドは黙って頷いた。
グルドは言った。
「キト、おまえの婚約者は俺を殺そうとする。そいつを俺に近づけるな。それがそいつの妻であり俺の娘の務めと思え」
「親父、あたしは子分じゃないよ。洞窟では道案内の目印を描いて協力したけど、もうそれで最後だ。あたしはライと結婚して幸せになるんだ」
グルドは鼻で笑った。
「ふん、勝手にしろ」
キトはライを担いで歓迎館から出た。レンとルミカも外へ出た。
外は青空だった。
レンは驚いて言った。
「青空?ここは地下じゃないのか?」
給仕は言った。
「あなたの世界から見たら地下ですが、実際は地下ではありません。それも詳しくは学長から聞いたらいいでしょう」
井戸の近くの地面に寝かされたライの顔にキトはバケツで水を掛けた。ライは目を覚まして言った。
「くそ、グルド!」
キトは言った。
「ライ、もうあたしの親父を憎まないでくれ」
「なぜだ?俺の父さんを殺した奴だぞ」
「あんたがあたしの親父を殺したら、今度はあたしがあんたを憎まなくてはならないの?」
ライは黙った。
すると給仕が言った。
「憎しみにより、あなたは苦しんでいるのですね?」
「え?」
ライは給仕の顔を見た。穏やかな顔だ。
「憎しみの連鎖はどこかで断ち切らねばなりません。あなたはその鎖を自らが断つ勇気はありますか?」
「勇気?」
「自らの気持ちを自らの中で変えるには勇気が要ります。あなたは父親を殺されて、殺した者を憎んでいるのでしょう?ならば、今後も同じようなことがあればあなたは一生憎しみという苦しみに付きまとわれることになるでしょう?そんな生き方を変えるには、自分の思想や感情を変える必要があります。そうではありませんか?」
ライは答えた。
「でも、父親を殺されたんだぜ?」
給仕は言った。
「憎しみのある人生とない人生、あなたはどちらを生きたいですか?」
ライは黙った。
給仕は言った。
「さあ、学長の所へ行きましょう。学長は物知りです。多くのことを教えてくれます。あなた方は若いですからおおいに学ぶといいです」
四人は給仕に導かれ、山里の風景を見つつ、田舎道を歩いて行った。左には幅五メートルほどの川が流れている。四人はその流れに沿って歩く。川の向こうには田畑が広がり民家が点在していて、その向こうは竹林や雑木の山が迫っている。いっぽう、右手には同じように田畑が広がり民家が点在している。山には段々畑があり、その周りはやはり竹林や雑木林がある。前方には、田畑の中に茅葺屋根の建物が点在している。
二、サファリ学長
しばらく歩くと田畑の中に大きな寺のようなものが現れた。それは寺ではなく学校であるとのことだった。
田畑の中に、大きな黒い茅葺屋根の木造建築がたくさん散在していた。
給仕はその中のひとつ、二階建ての黒い茅葺屋根の建物にルミカたちを案内した。建物の前には立派な松が立っていた。一階には広い教室があった。階段を上がり、通された部屋の中は書棚がたくさんあって、その奥で椅子に腰かけ、机に向かって本を読んでいる老人がいた。老人はこちらに背を向けているが、頭は禿げていて肌の色は黒く、白い服を着ているのがわかった。
「サファリ学長、地上人をお連れしました」
給仕がそう言うと、サファリ学長と呼ばれたその老人は回転椅子をくるりと回して向きなおった。
「やあ、諸君。こんにちは」
四人は、「こんにちは」と答えた。
「シャンバラへ何の用だね?」
ルミカは答えた。
「学問をしに来ました」
「学問?他の三人もそうかね?」
レンは答えた。
「僕はそうです」
「他のふたりは?」
学長が言うとライは答えた。
「俺は母さんがシャンバラにいると聞いて来たんだけど、母さんはシャンバラに来ることはなく洞窟内で死んでいたことがわかったんだ」
「それは辛かったろう。で、もうひとりのお嬢さんは?」
キトは答えた。
「あたしはこいつと新婚旅行だ」
と言ってライの腕を抱えた。ライは顔が熱くなった。学長は言った。
「ほ、若いのはいいのう」
レンは質問した。
「学長、ここは地下世界ですよね?なのに、なぜ空が青いのですか?太陽もあるようですし」
サファリ学長は答えた。
「ここは地球の内部であって内部ではない」
「どういうことです?」
サファリ学長は言った。
「地球の地下と繋がっている、別の惑星なのだよ」
「別の惑星?」
「君たちの通ってきた洞窟にあるあの液体の壁、あれは空間の捻じれの中に満ちた液体なのだ。震空波で空間を捻じるとそこに遠距離を結ぶトンネルができる」
レンは頷いた。
「だから、空間を震わせる震空波が?」
「そう、君たちの世界では武術でそれができるようになるはずだ。シャンバラ人はそれができない。だが、科学技術が進んだ世界ならば機械で震空波を作り出し空間を捻じ曲げることができるだろう。シャンバラではそれだけの科学はあるが、空間を捻じ曲げる必要性を感じられないのでそういう機械は作らんがの」
ルミカが訊いた。
「シャンバラには政府がないと聞きましたが、それで大丈夫なんですか?」
サファリ学長は答えた。
「なぜ、政府を作る必要がある。シャンバラの人間は自律している。困ったことがあれば助け合う。それは教育で育まれる」
ルミカは訊いた。
「教育機関を作るにはやはり政府がいるでしょう?」
「いや、政府はいらないよ。権力というものは必要ないのだ。教育によって良い人間ができればそれですべては上手くいく」
ルミカは訊いた。
「でも、道路を造ったりするにはおカネがいるでしょう?そのおカネは税金で賄うのでしょう?」
サファリ学長は答えた。
「シャンバラにはおカネなど存在しないし、税金などというものもない。そういうものはとうの昔に捨てたのだ」
ルミカは驚いた。
「え?おカネがない?じゃあ、人はどうやって物を売ったり買ったりするんですか?物々交換ですか?」
サファリ学長は答えた。
「与え、与えられるのがシャンバラの経済だ」
ルミカは問うた。
「やはり物々交換?」
「違う」
サファリ学長は言った。
「与えたければ与えればいい、欲しかったら貰えばいい。特に与えてくれた人にお返しをする必要はない」
キトは言った。
「じゃあ、与えた人が損をするよね?」
「損?」
サファリ学長はキトを睨んだ。
「与えたいのだから与えて損をするということはない。むしろ得をするのだ。精神的な意味で」
ルミカは言った。
「じゃあ、公共工事もやってあげたいからするのですか?政府がないならば誰がするのですか?」
サファリ学長は答えた。
「技術があり、やる意欲のある者が進んでやるのだよ」
レンは驚いて言った。
「え?ボランティアということですか?」
サファリ学長は頷いた。
「うむ、そういうことだ。この世界の仕事はすべてボランティアなのだ」
レンは訊いた。
「それでは、人々はどうやって生きていくのですか?」
サファリ学長は答えた。
「米が欲しい者は米農家からもらえばいいし、家を建てたい者は建築家に建ててもらえばいい。シャンバラの人間はボランティア且つ乞食なのだよ」
「乞食・・・」
ルミカたちは驚いて質問する言葉が見つからなかった。
サファリ学長は言った。
「カネなどというものは他者を信用できないからあるんだ。このシャンバラは物々交換でもない、すべて贈与、いや、別の言い方で、喜捨で成り立っているのだ」
「喜捨・・・」
サファリ学長は言った。
「喜捨は見返りを期待しない贈与。無償の愛のなせる業なのだ」
ライは言った。
「それでは貰うばかりで、あげることをしないずるい人も出て来るんじゃないか?」
サファリ学長は答えた。
「貰うばかりの人がいてもいいではないか。何もできない人は貰うだけでも構わないのだ。それはなんの罪でもない。我々の教育ではできることをして社会に貢献することが大切だと教えている。逆に言うとできないことはしなくてもいいのだ。人間にはどうしても能力に差ができるから、その能力のできる範囲で貢献すればよいのだよ」
レンは訊いた。
「それでは能力のある人間が損をするのでは・・・!」
サファリ学長はギロリとレンの眼を見て言った。
「なぜだね?人間はみな平等なのだよ」
レンは言った。
「それはそうですが、しかし、努力した人間としない人間では努力をした人間のほうが良い思いをするべきではないでしょうか?」
サファリ学長は言った。
「君は他人より良い思いをしたくて努力するのかね?」
「いえ、それは・・・」
レンは何も反論できなかった。
サファリ学長は言った。
「誰かのために努力することこそ大切だとは思わないかね?」
ライは言った。
「学長はすべて、この世にいるのが良い人間ばかりのことを前提に話してるけど、中には悪い人間もいるよな?悪い人間を取り締まるには警察がいるだろ?警察に権力を与えるには政府がいるんじゃないの?」
サファリ学長は言った。
「だから、教育で悪の芽を摘んでおくのだ」
ライは言った。
「でも悪い人間はいるよね」
サファリ学長は言った。
「シャンバラにはいない」
「断言できるのか?」
ライは質問した。サファリ学長は言った。
「君は悪の存在する地上世界に毒されている。しばらくシャンバラで生活をしてみなさい。そうすればその性悪説的な考え方はなくなるだろう」
ライは言った。
「なんか俺、悪役みたいだな」
キトは言った。
「なぜ、地上世界はシャンバラのようにならないんだ?」
サファリ学長は顎に手を当てて考え込む。
「うむ、難しい問題だ」
レンが言った。
「簡単ですよ。教育が行き届いていないからだ。そして、教育が行き届いていない理由は、真実が見つかっていないからだ。だから、僕はシャンバラで真実を知りたいんです」
サファリ学長は微笑んだ。
「君はもうシャンバラの真実がわかりつつあるようだね?」
レンは恐縮した。
「いえ、まだ、全然わかっていません。真実とは悟りの境地のことですか?」
サファリ学長は答えた。
「うむ、そうだ、悟りの境地だ。別の言葉で、涅槃寂静、すなわちニルヴァーナ」
「ニルヴァーナ」
レンはその言葉を飲み込むように頷いた。ライは訊いた。
「ニルヴァーナってなんだよ?」
サファリ学長は言った。
「心に何のストレスもない状態、真実の平安。例えて言うならば、母親の胎内にいる胎児の心。あの羊水の中に浮かんだ胎児の心にはなんのストレスもないはずだ。その心の状態を保ち生きることそれが真実の生き方だ」
「胎児・・・」
ライはこのシャンバラに入ったときのことを思い出した。あの地下に降りたことは母親の胎内に降りたように感じたからだ。あの洞窟の壁に書かれた母親のメッセージが彼にとってはへその緒のようなものだった。
サファリ学長は続ける。
「ニルヴァーナについて理解を深めることで、人々の性質は良くなる。たとえニルヴァーナについての見解にズレがあったとしてももっと下位の、つまり形而下の、つまり日常的な問題は簡単に解決できるようになるのだ」
「そうかなぁ?」
と言ったのはライだ。
「日常的な問題こそ解決が難しいんじゃないかな?それに人間はお母さんのおなかの中にずっといるわけじゃない。外に出ること、ストレスに会うこと、悩むこと、戦うこと、そこに生まれてきた意味があるんじゃないかな?」
「そう思うのは真実についての理解が不足しているからだよ」
と、サファリ学長はライに向かって優しく言った。
ライは話がめんどくさくなって建物の外に出てしまった。キトもそれを追うように外へ出た。ライは呟いた。
「生まれてきた意味か・・・。俺にとって今までずっと母さんを探すことが生まれてきた意味だった。でも母さんは死んでいたことがわかった。じゃあ、これからの俺の生きる意味ってなんだろう?」
キトは言った。
「あたしでしょ?」
ライはキトの眼を見て笑った。
「結婚するんだよな」
「約束だからね」
ライは伸びをして言った。
「あ~、いい天気だ。ここは地球じゃないのか?極楽か?」
学長の部屋では、ルミカとレンがまだ質問し、教えを受けていた。
ライとキトは田園の中を歩く。ライとキトはふたりで美しい景色の中を並んで歩くことで何とも言えない幸福感を味わった。
この平地には南と北に山がある。西の谷へ向かって川が流れている。川は東のライたちが来た洞窟のある山から出ている。山には段々畑のある部分と森におおわれた部分がある。空は青く、太陽は光輝いている。ライたちが生きてきた地上世界と変わるところはない。
田畑では働く農民がいる。それもライたちが住んでいた地上と同じ牧歌的風景だ。しかし、違うところはこの農民たちはすべてボランティアだということだ。
三、グルドが手に入れたもの
グルドたち四十人の山賊は歓迎館での食事に飽きると、次は財宝の話をし始めた。
グルドは給仕に言った。
「おい、シャンバラには財宝がたくさんあるんだろ?」
給仕は答えた。
「財宝?大昔に価値あるものとされていたものですか?それなら宝物館にあると思いますが」
「宝物館?ちょっとそこに俺たちを案内してくれないか?」
「いいですよ」
給仕はグルドたち四十人を連れて田舎道を歩き、田園の中に建つ黄金の屋根を戴く宝物館に向かった。グルドたちはその黄金の屋根を見ただけでニヤニヤし始めた。
「こいつぁ、お宝がありそうだ」
中に入ると、ショーケースもなく展示棚の上にむき出しで財宝が陳列されていた。
グルドは言った。
「おい、おめえら、俺がいいと言うまでお宝に手を出すなよ」
「あいよ、親分」
グルドは給仕に言った。
「なあ、この財宝を俺たちにくれねえか?なに、全部とは言わねえ。ひとりひとつかふたつでいいんだ」
給仕は言った。
「欲しいなら、貰ってもいいんじゃないですか?でも、こんな物を持って行ってどうする気です?」
グルドは叫んだ。
「野郎ども、許可が出た。貰ってもいいいとよ」
その言葉で四十人は財宝を奪い取る野獣と化した。
給仕は呆れてしまうとともに憐憫の情で彼らを見た。
「くだらないものに夢中になってかわいそうに」
グルドはせっかくだから一番上等な財宝を頂こうと物色した。そして見つけたのは、他の展示品とは明らかに違う厳かな展示の仕方をしてある、握り拳ほどある大きな黄金のダイヤモンドだった。
「これはすげえ。黄金のダイヤなんて初めて見たぜ。ひひひ、こいつぁ俺の物だ」
グルドは懐にそのダイヤモンドを入れた。
「親分、みんな財宝は手に入れた」
とある子分が言った。
「でも、財宝より先に手に入れるべきものがあったはずと俺たちは気づいた」
と別の子分が言った。グルドはニヤリと笑って答えた。
「女か?」
「さすが親分、察しがいい」
グルドは言った。
「おめえら、男にとっての宝は金でも銀でも宝石でもねえ。女だ。美女だ。それを俺が忘れると思うか。一番の楽しみは最後に取っておくのが俺の流儀だ。ただちに女を犯しまくれと、俺は言いたいところだが・・・」
「言いたいところだが?」
子分たちは次の言葉を待った。
「強姦事件を起こすとシャンバラの復讐を受ける可能性がある。だが、シャンバラは気前がいい、財宝を好き放題取らせてくれたように、女も好き放題できるか聞いてみようぜ」
とグルドは言うと子分たちは盛り上がった。
「いいぞー、親分」
グルドは近くにいた宝物館の学芸員の男に訊いてみた。
「女を抱きたいが、ここの女はやらせてくれるか?」
学芸員は答えた。
「シャンバラはフリーセックスなので同意があればいくらでも」
グルドは叫んだ。
「聞いたか野郎ども。同意があればいくらでもやれるってよ」
「おおおおー、そいつはすげえ」
「口説きに行くぞー」
男たちは宝物館をあとにして散り散りになった。
グルドは女漁りには行かなかった。村の中を探し回った。ライを。
ライはキトと並んで話をしながら田舎道を歩いていた。それをグルドは呼び止めた。
「おい、小僧」
ライは振り向くと、攻撃の構えを取った。
グルドは言った。
「ちょっと待て。おまえと戦いたいわけじゃねえんだ」
ライは言った。
「そっちがその気じゃなくても、俺は父さんを殺されたわけだからいつでもお前を殺す気だ」
グルドは言った。
「今は待て、そうじゃない。俺は人を探しているんだ」
「人?」
「メイだ。おまえの母親だ。たしか、シャンバラに来ているはずだろ?」
ライは構えを解かずに言った。
「母さんは死んでいた。洞窟の中で、シャンバラへの扉を開くことができず、飢えか何かで死んだ。そのときのメッセージが岩に刻まれてあった」
「本当か?メイは本当に死んだのか?」
「そんなに疑うならば、洞窟に戻って確かめてみろ」
グルドは何とも言えぬ表情をしてライに背を向け、洞窟のほうへ戻って行った。
洞窟へ向かう途中にある歓迎館前でパンチョが太った女を口説いていた。
「君はなんて美しいんだ。太った脚、大きなお尻、出たお腹、ボインボインのおっぱい、ブタみたいな顔・・・君はまるでブタだ。天使のような・・・」
「おい、パンチョ」
「なんだよ、親分、俺はせっかくいい女を見つけて口説いてるのに」
「どこがいい女だ。そんなことより、全員集めろ。帰るぞ。もうシャンバラには用はない。財宝だけで充分だ」
「なんだよ、親分、もう女とやっちゃったのかよ。俺は見ての通り口説いてる途中なんだ」
「女は地上にもいるだろう」
「みんなの意見を代表して言いますけどね、親分。みんなは財宝や女や美味い食事が目当てで親分についているんだ。女を抱くまでは帰れませんよ」
「じゃあ、わかった。女を抱いたらすぐに地上へ帰れとみんなに言っておけ。俺は一足先に帰る」
グルドは走って洞窟のほうへ行ってしまった。
「なんだよ、親分。そんなに飽きるほど女を抱いたのかよ・・・。(女のほうに向かって)おお、君よ、行かないでくれ、君はなんて美しいんだ。太った脚、大きなお尻、出たお腹、ボインボインのおっぱい、ブタみたいな顔・・・君はまるでブタだ。天使のような・・・」
グルドはひとり洞窟の中に入った。そして、シャンバラと地上を繋ぐ液体の壁をくぐり抜けた。
そして、辺りの岩をランプで照らして調べた。地面には白骨死体が散乱している。
あった。壁の下のほうに文字が刻まれてあった。それはメイが息子ライに当てたメッセージだった。その内容にはグルドのことなど触れられていなかった。だが、ここに来て死んだという事実はわかった。グルドは泣いた。自分のことなど眼中にない女、その女に一方的に恋し、死ぬ時まで全く無視をされても自分にとっては最も愛した女だった。グルドはたくさんの女を抱いたことがある。その中のひとりに産ませた子供がキトだ。だが、グルドにとって最も忘れられない女、それがライの母親メイだった。グルドにとって長い青春がようやく今終わったような気がした。
すると液体の壁から出て来た男がいた。パンチョだった。次に液体の壁から出て来たのは剣士バドだった。それから次々と仲間たちが出て来た。そして、全員集まった。いや、スネルがいない。
「誰か、スネルを知らないか?」
「そもそも、向こう側に行ったときから見てないぞ」
「俺も見てない」
男たちは口々にスネルの不在を語った。
グルドは言った。
「まあいい、あいつはよく働いてくれた。シャンバラで楽しんでいるならば楽しませておこう」
グルドは訊いた。
「みんな、女は抱いたか?」
「抱けなかった」
「抱けなかった」
「抱けなかった」
「時間がなかった」
「シャンバラの女、ガードが固いよ」
グルドは笑った。
「わっはっは、俺も抱けなかった。よし、地上に戻って女を抱くぞ」
山賊たちは意気揚々と洞窟の出口に向かって歩き出した。
地上に出るとさっそく、宝物館で得た金貨を使って、ツォツェ村で酒を飲み肉を喰らった。
グルドは言った。
「かぁ~、うめえな、地上の酒は。肉も最高」
「次は女の柔らかい肉を堪能してえな」
子分が言うと、グルドは言った。
「任せておけ。マール国の歓楽街で豪遊するぞ!」
「おおー!久しぶりだな。女、女」
「お・ん・な」
「お・ん・な」
「お・ん・な」
グルドたちは饗宴し眠った。
そして翌朝、ツォツェ村をラパタ国へ向けて出発した。
グルドたちは途中異変に気付いた。前方から徒歩の軍勢の足音がするのだ。グルドたちは岩陰に隠れた。谷底の道を見下ろすその位置からグルドたちは鎧で武装したアガド将軍の軍勢が徒歩でツォツェ村に向かって行進しているのを見た。
剣士バドは言った。
「アガド将軍だ。五百人はいるな」
「あんな大勢でシャンバラへ行くんすかね?」
パンチョが言うと、グルドは言った。
「シャンバラにはまだキトがいる。もしあの軍勢が、シャンバラへ攻め込んだら?シャンバラって無防備だったよな。俺たちのような山賊をもてなしてくれたし、財宝は気前よく分けてくれるし、一応フリーセックスだったし」
バドは言った。
「助けに行くか?」
グルドは首を横に振った。
「いや、キトはもう自立している。自分の身は自分で守るだろう。それにあんなにたくさんのアガドの兵士たちが洞窟を占拠したら、そこを通ってシャンバラへ行くことなど不可能だ。俺たちは引き上げたほうがいい」
四、キトの誘拐
アガド軍はツォツェ村に辿り着いた。
アガド将軍はさっそく、百人の軍勢をツォツェ村に残して、自らは四百人の軍勢を率いて洞窟に入った。案内役はスネルだった。キトが描いた印を目印に、奥へ迷わず進んだ。そして、広い場所に出た。そこにはシャンバラへの入り口が口を開けていた。
スネルは言った。
「これがシャンバラへの入り口でございます」
「この液体のようなものの中に入るのか?」
「さようでございます」
「よし、私に続け!」
アガドは先頭を切ってその液体の壁を通った。兵士が続々とアガドのあとに続いた。
アガド軍はシャンバラに入り隊列を組んで行進した。シャンバラの軍事力を警戒して、その軍事力がわかるまで友好的な接し方をしようとの作戦だった。
シャンバラのほうでは来客を接遇し歓待した。四百人の客人をもてなすのはかなりの努力が払われた。学校や民家を宿泊所にしてシャンバラのこの村にあるほとんどすべての建物が歓迎の場所として使われた。
ルミカ、ライ、レン、キトの四人は学校の二階にあるサファリ学長の部屋に匿われた。
ルミカは震えていた。
レンは言った。
「怖いのか?」
ルミカは言った。
「アガドはマール国の将軍で、とても恐ろしい男だと聞いています。マール国からシャンバラまで来るには必ずラパタ国を通らねばなりません。きっと、ラパタ国を攻め落として来たに違いありません。お父様、お母様、コタリ、そして国民たち・・・ひどい目に会ってなければいいのですが・・・」
政府のないシャンバラの代表としてサファリ学長は一番大きな建物である学校の一階を宿泊所にしてアガドをもてなした。しかし、遠慮のないアガド軍は何日も居続けて、もてなされ続けた。さすがにシャンバラの住民たちも苦しくなった。
サファリ学長は帰って欲しいことをアガドに伝えた。するとアガドは怒った。
「我が軍をもてなすことができないのか?その気になれば略奪することも可能なのだぞ」
もう、シャンバラの軍事力はゼロであることをアガドは見抜いていた。だが、軍事力でねじ伏せる機会と大義がなかった。
アガドの欲しいものは、黄金のダイヤのみだった。それを持ち帰り世界を支配したいのだ。
「学長よ、ここに黄金のダイヤがあると聞いて来たのだが?」
サファリ学長は答えた。
「それなら、先に来た山賊が持って行った」
「なに?山賊?」
「たしか、その親分をグルドとか言ったな」
「グルド?マール国の山賊ではないか。おのれ!」
アガドは立ち上がった。
「戻るぞ、地上へ。兵を半分に分ける。二百名はこの地に残り、シャンバラを制圧せよ。残りは私に従い、地上へ戻るぞ!」
「お待ちを」
そう言ったのは鼠のような顔をしたスネルだった。
「わたくしはグルドの一味として働いていました。もちろんあなた様のスパイとして。ところで、グルドには娘がおります。名前をキトと言います。その娘が今、シャンバラにいるはずです。人質にしたらよろしいかと」
アガドはニヤリと笑った。
「さすがだな。俺の見込んだスパイだけある」
アガドは号令を変えた。
「全軍を挙げてグルドの娘、キトという娘を探し出せ!学校、民家、歓迎館、その他の建物、隈なく探せ!ん?」
アガドはサファリ学長の顔を覗き込んだ。
「何か隠しているな?学長殿?」
「何も隠してはいない」
サファリ学長は嘘をつくことは悪いことだと子供たちに教えていた。自分自身、嘘をついたことはほんの幼い頃以来、一度もなかった。
アガドは近くにいた兵士に命令した。
「この建物の二階を調べろ!学長の部屋があるはずだ!」
サファリ学長は青ざめた。
「待ってくれ、それだけはやめてくれ。あそこには大切な書物がたくさんあるのだ」
「書物の中まで洗いざらい探し出せ、そこにキトという娘はいる」
アガドは確信を持って言った。
学校の二階にある学長の部屋は書棚と机と椅子しかなかった。ルミカ、ライ、レン、キトはドアの鍵をかけてそこにいた。シャンバラの建物には基本的には鍵などなかったがこの部屋にはあった。
ドアを叩く音がする。外から兵士の声がする。
「キトという娘がいるはずだ。大人しく出て来い!命は保障する」
ライは言った。
「どうする?レン?強行突破か?」
レンは言った。
「いや、ここにはルミカもいる。危険だ」
キトは言った。
「あたしとライだけが出る。レンとルミカはこの机の後ろに隠れていて、あたしたちが出て行ったら、またドアに鍵をかけるんだ。そして、ほとぼりが冷めたらもっと安全な場所へ移動するんだ。あいつらが欲しいのはあたしだ」
レンは言った。
「でも・・・」
キトは言った。
「たぶん、親父が絡んでいる。あたしを人質にして親父を誘い出そうとするんだろう」
ドアを叩く音がする。
「開けろ!いるのはわかっているんだ。蹴破るぞ」
レンとルミカは机の後ろに隠れた。
レンは言った。
「敵を殺すなよ。僧には不殺生戒というものがある。生き物を殺すことは罪だ。だから僧侶は菜食主義者なんだ。キトは僧侶ではないけどなるべく殺さないでくれ」
「わかったよ、レン」
ライは笑顔で答えた。
キトは言った。
「殺さないのか?難しいな」
ライは言った。
「俺が助ける。おまえは俺の近くに常にいろ」
「わかった」
ライとキトはドアを開け外に出た。
「あたしがキトだ」
廊下には兵士が十人いた。兵士のひとりが言った。
「そっちの小僧は?」
ライはニヤッと笑って言った。
「ライだ」
ライはその兵士を殴って卒倒させた。他の兵士は抜刀した。が、抜刀して構えようとしたときには倒れていた。ライが素早く十人の金玉を蹴り上げていたからだ。
「逃げるぞ、キト」
「うん」
ライとキトは駆け出して、学長室のある二階から降りた。一階にはアガド率いる精鋭部隊が待ち構えていた。
アガドは号令した。
「あの娘を生きたまま捕えよ!小僧は殺しても構わん!」
兵士たちはライとキトを取り囲んだ。そして乱闘が始まった。
レンとルミカは学長の部屋の窓から外へ出て、松の木を伝わり下に降りた。ライとキトが建物の中で暴れている隙に、建物の陰を回り北側の山の森の中へ姿を消した。
ライはキトを連れて建物の外に出た。相手は総勢四百人だ。ライとキトは敵を殺さずに乱闘を続けたが、さすがに多勢に無勢。特にキトにとっては敵が多すぎた。ライもキトを守ってやるほどの余裕がなくなっていた。
キトは相手兵士に組み伏せられた。
キトは言った。
「ライ、逃げろ!一度、身を隠せ!」
ライは戦いながら言った。
「そんなことできるかよ。おまえは俺と結婚するんだぞ」
「あたしは人質になる。しばらくは殺されないはずだ。あとで助けに来てくれればいい。この場では多勢に無勢すぎる」
「でも!」
「信じてる」
キトがそう言ってライを見つめた。ライは小さく頷いて、南を流れる幅五メートルの川を飛び越え、段々畑のない急斜面の森深い山のほうに走って逃げた。兵士たちは追い駆けたが誰もライの足の速さに追いつく者はいなかった。キトは人質となった。
キトは後ろ手に縛られ、アガドのもとへ出された。
「おまえがキトか?グルドの娘の?」
キトは言った。
「なんだ、このおっさんが!」
アガドはニヤリと笑った。
「口の利き方を知らんようだな。俺はマール大国の将軍だぞ。おまえはたかが山賊の娘だ。身分が違い過ぎるわ。こうして、会話できるだけでもありがたく思え」
キトは言った。
「で、これからあたしをどうする気だ?」
アガドは答えた。
「地上に戻りラパタ城に連れて行く」
「ラパタ城?」
「そこで公開拷問だ。おまえの父親グルドが現れるまでな」
『公開拷問』この言葉にキトは怯えた。
「怖いか?ん?」
アガドは勝ち誇ったようにキトを見下ろした。
「グルドは持ち出してはならない秘宝を持ち出した。それはマール国王が手にすべき物なのだ。それさえ渡してくれれば、おまえたち親子は過去に犯した罪も含めて無罪放免にしてやってもいい。いい取引だとは思わんか。山賊などというバカな稼業は辞めてまっとうなマール国民になれたらいいと思わないか?」
「マール国くそくらえ」
キトは唾をアガドに吐きかけた。アガドは笑った。
「唾くらいが、おまえが今できる抵抗のせいぜいなのだ。ふふふ、可愛いものよな」
「おまえは親父に殺されればいいんだ」
「わっはっは。山賊ごときが将軍を殺せるわけがなかろう。さあ、出発だ。さっき言ったように二百名はこの地に残りシャンバラを制圧せよ。残りは私と共に地上のラパタ城に戻るのだ」
縛られたキトを歩かせ、アガドは軍勢二百を連れて地上に帰った。
ルミカとレンは北側の山に隠れてそれを見ていた。ライも南側の山に隠れて、木々の間から、キトが連れられて行くのを悔しがりつつ見送った。
歓迎館にシャンバラ制圧部隊本部が置かれた。
五、サティーヤグラハ
シャンバラに残ったアガド軍二百名は、制圧と称して好き勝手をした。犠牲になったのは若い娘たちだった。アガド軍兵士たちは軍事訓練で鍛え上げられた肉体で、シャンバラの娘たちを次々に強姦していった。
だが、兵士たちは不満だった。なぜなら、シャンバラの住民がアガド軍のために食事を提供しなくなったからだ。
ある民家で兵士は言った。
「おまえら、なぜ、料理をしない?殺されたいか?」
シャンバラ人の男性は言った。
「殺しても我々の料理は食べられない」
兵士は鞭でシャンバラ人の男性を打った。
「オラァ。俺たちの言うことが聞けないか?」
シャンバラ人の男性は言った。
「暴力でわたしたちを動かそうなど愚かなことだ」
兵士はシャンバラ人を鞭打った。打たれた男は床に倒れた。打たれた顔は紫になり血が出ていた。他のシャンバラ人もみなこのような「非暴力の抵抗」をした。決して反撃したりはしなかった。
兵士たちは仕方なく食材を奪い自分たちで調理して食べた。しかし、歓迎会で食べたような美味い野菜料理はシャンバラ人にしか作れなかった。シャンバラ人は自分たちの料理も敢えて粗末なものにし、兵士の略奪を逃れた。
シャンバラ人は決して、暴力で抵抗しようとはしなかった。兵士に暴力を振るわれても絶対に仕返ししなかった。そして、兵士のために働くこともしなかった。
シャンバラ人は歓迎館前の広場に何百人も集まって声を上げた。
「アガド軍、出て行け!」
「アガド軍、出て行け!」
「暴力反対!」
「暴力反対!」
アガド軍の兵士のひとりは、歓迎館前に集まったシャンバラ人の先頭にいる男の右頬を鞭打った。そのシャンバラ人は倒れた。しかし、起き上がり、左頬を差し出した。兵士はたじろぎつつも男の左頬を鞭打った。男は倒れた。だが、起き上がった。兵士はその男を蹴飛ばした。
「貴様、死にたいのか?」
地面に倒れた男は立ち上がりながら言った。
「死にたくはない。だが、おまえたちに従いたくないという気持ちのほうがもっと強い」
「従え!従え!死にたくなければ従え!」
「嫌だ!嫌だ!誰もわたしたちを支配できない。自由と平和のシャンバラをおまえたちに変えさせない。出て行け!」
兵士は言った。
「抵抗しなければ、おまえたちは平和に暮らせるのだぞ!」
「暴力に支配された世界に平和はない」
兵士は言った。
「暴力?違うな。権力だ。偉大な権力に統治されてこそ人々の平和はあるのだ」
シャンバラの男は言った。
「違う。シャンバラには政府はない。ひとりひとりの人間が本当に平和を尊重するのならば政府はいらない。警察も軍隊も」
「ふん、そんな夢物語、こんな田舎にしか通用せぬわ。この鞭の痛みで目を覚ませ」
兵士はシャンバラの男を鞭打った。男はまた倒れた。そして、言った。
「おまえはかわいそうな人間だ。おまえたちの世界より優れた世界に来ているというのに、自分たちの劣った世界の常識でシャンバラを見ている。おまえの世界では軍事力がものを言ったかもしれないが、シャンバラは違うぞ」
「俺たちはシャンバラを制圧するよう、アガド将軍に命じられているんだ。命令に従うのが軍人だ」
「ようするに自分で考えることを放棄しているのだろう?間違ったことをしていると思っているのに、命令に従っているだけだと自分をごまかし・・・」
また兵士は男を鞭打った。
周りからシャンバラ人たちが叫んだ。
「やめろ!愚か者!平和なシャンバラに暴力を持ち込むな!おまえたちもシャンバラで暮らしてみろ!暴力の無意味さがわかるはずだ!」
兵士たちは躊躇いながらもシャンバラの人々を弾圧し続けた。
ライは闇夜に乗じて山を降りた。葉野菜の畑の中を匍匐前進した。そして、畑から道に出るところで周囲を見た。道に見張りがいないことに気づいた。川を飛び越え、サファリ学長の家に向かったが、アガド軍の見張りはどこにもいなかった。シャンバラ人はアガド軍に対して暴力を振るわないとわかったため、見張る必要はないとアガド軍は手を抜いたのだ。ライは学長の家の戸を開けた。鍵はなかった。学長は眠い目をこすり出て来た。
ライは言った。
「学長、入れてくれ」
「うむ、入りたまえ」
学長はライを木造平屋の家に入れてくれた。ライは言った。
「学長、なぜ、シャンバラの人々は武器を取って立ち上がらないんだ?」
サファリ学長は言った。
「なぜ、武器を取って戦う必要があるのだ」
「だって、物は取られ放題だし、女は犯され放題じゃないか」
「それはそのうちに収まることだ」
「収まるまで耐え忍ぶのか?俺は女じゃないからわからないけど、犯された女の気持ちはどうなるんだ?その悔しさは・・・」
「それを治めるためにシャンバラの教育はあるのだ」
「犯されても抵抗しないための教育か?」
「犯すという行為が悪い。強姦がこの世にあることが罪で、犯した者も犯された者も罪はない」
「それはおかしい。犯された者に罪はないのは当たり前だ。でも犯した者には罪はあるだろう」
「ない」
「なぜ?」
「それは彼らの無知、無明から来るからだ。無知無明を取り除くことが大切であって、罪があると言って罰することに意味はない」
「でも、あいつらは罪のない女性を犯して快楽を得ているんだぜ。物みたいに女性を扱って、女性のほうは悔しい思いをする」
「あの男たちは快楽を得ていない」
「え?は?」
「快楽ではなく苦しみを得ているのです」
「は?」
そのとき、引き戸を開ける音がした。
サファリ学長は戸のほうを見て言った。
「誰だ?」
「僕です。レンです。ルミカもいます。入れてください」
「うむ、入りなさい」
レンとルミカが入って来た。ライは笑顔になった。
「レン、ルミカ!」
「ライ、無事だったか?」
「ああ、キトが攫われた。ラパタ城に連れられて行ったらしい」
レンは答えた。
「ああ、そうらしいな」
ライは言った。
「それにしてもこのシャンバラはひどいと思わないか?誰も抵抗しようとしないんだ」
サファリ学長は言った。
「抵抗はしている。アガド軍のためには協力しないという抵抗だ。暴力も使わない。非暴力抵抗運動、サティーヤグラハだ」
「非暴力?」
レンは言った。
「さすが、仏国土だ」
ライはレンに言った。
「さすが?レンは、これでいいと思うのか?女たちがおもちゃにされてるんだぞ。その悔しさはどうなるんだ?」
ルミカは言った。
「きっと、シャンバラの娘たちはよい教育を受けているのでしょう?」
ライはルミカに言った。
「よい教育?じゃあ、ルミカ。あんただったら自分を強姦した人間を許せるのか?」
ルミカは言った。
「それは・・・たぶん許せない。でもそれはわたしの修行が足りないからです」
ライは言った。
「違うだろ?シャンバラの哲学が間違っているんだ。真実がどうとか俺にはわからない。だけど、現実のひとつひとつの行為にその真実が生きてこなければ意味はない。どう行動するか、それが大事だ」
サファリ学長は言った。
「その行動がサティーヤグラハだ」
ライは言った。
「俺はそんなの認めない。戦うべき時は戦うべきだ。とにかく俺はキトを助けに行く。もちろん武力を使って。学長、文句あっか?」
「それが地上の流儀ならばそうするがいい。だが、真実はシャンバラにある」
ライは言った。
「じゃあ、俺はそんな真実はごめんだ」
サファリ学長は言った。
「では君たちに、ひとつ教えておきたいことがある」
ライは言った。
「教えなんて、俺は嫌だね」
「まあ、聞きなさい。お説教ではない。このシャンバラと地上を結ぶ通路のことだ。あの液体に満たされた空間の歪みに、再び震空波を当てることであの門を閉ざすことができる。ただし、閉ざしたら百年はどんなに強力な震空波を当てても開くことはない」
レンは訊いた。
「なぜ、それを僕たちに?」
「震空波ができるのは君たちだけだ。涅槃寂静を宗とするシャンバラ人には感情を爆発させる震空波はできない。そして、あの門を閉ざして欲しいのだ。アガド軍のような地上の人間たちにはシャンバラはまだ早すぎる。これ以上あのような者たちを侵入させたくない」
「わかりました」
レンは答えた。
ライは言った。
「じゃあ、レン、俺と一緒にキトを救いに行けるか?」
「もちろん」
レンがそう言うと、サファリ学長は言った。
「それから、もうひとつ、グルドがアガドに狙われている理由だが・・・それはグルドがシャンバラの秘宝、黄金のダイヤを盗んで行ったからだ」
「黄金のダイヤ?」
ライは訊いた。
サファリ学長は答えた。
「それを手にした者は地上の支配者になれると言われている物だ。アガドはそれを手にし、世界の帝王になろうとしているようだ。だが、グルドが持って行った物は偽物だ。本物はまだ、シャンバラにある。それに、それを手にしたところで地上の支配者になれるなど迷信なのだ。それだけは伝えておく」
ライは言った。
「シャンバラの秘宝か。俺にとっては、ニルヴァーナより真実っぽいや」
ライはレンのほうを向いて言った。
「じゃあ、行こうぜ、レン」
レンは言った。
「ああ。サファリ学長、ルミカをお願いします。すべてが片付いたら、戻ってきます」
サファリ学長は頷いた。
「うむ。ルミカはしっかり守る。安心しなさい」
ライとレンは旅の支度をした。迷宮洞窟を通り、ラパタ国まで七つの峠を越えて行かねばならない。しかも、途中、アガド軍の見張りがいるかもしれない。戦いも覚悟しなければならない。
ルミカはレンとライに言う。
「必ず、キトを助けてください。そして、もしラパタ国が混乱していたら平和を取り戻せるようにしてください」
ライは笑った。
「平和を取り戻すか・・・すげえスケールがでかいな」
レンは言った。
「ルミカ、やれるところまではやる。だけど、僕たちはただの武道家だ。国をどうこうとまではいかないかもしれない。とにかく、キトを連れて戻ってくるよ。そしたら、このシャンバラで修行をしよう」
サファリ学長は言った。
「入り口は閉ざしてくれないのか?」
レンは言った。
「これ以上アガド軍が来られないようにすればいいのでしょう?」
「そんなことができるのか?」
「わかりません。僕としてはできればシャンバラへの入り口は開けておきたい。一度閉めたら百年は開かないなんて、僕らにとっては二度と開かないのと同じ事ですからね」
「うむ、頼んだ。こちらもサティーヤグラハでアガド軍を治めてみせる」
レンは言った。
「じゃあ、また、会いましょう」
ルミカは言った。
「絶対に帰って来てね」
レンは頷いた。
「うん、絶対に」
ライは言った。
「じゃあ、行こうぜ」
ライとレンは月の出た夜の道を歩き始めた。アガド軍兵士の見張りはいなかった。
ふたりきりになるとレンは夜空を見上げた。
「あのひときわ大きな星が、このシャンバラの北極星だそうだ。そして、その周りを囲むように円を描いている星々を『北の大円座』っていうらしい」
「ここは俺たちの星からどれだけ離れているのだろうな?地下で繋がるなんて不思議だな」
「ああ」
「今頃キトはこの夜空の星々のどこかに囚われているのか。そう考えると遠い。でも俺たちは地下で繋がっている。キトは待っている」
「無事だといいな」
「早く行こうぜ」
ふたりは足を速めた。
第四章 ラパタ城
一、キトの鞭打ち
ラパタ城は七百人のアガド軍に制圧されていた。ほとんどのラパタ国民は城壁の外に追い出された。
ラパタ城内東門内側の広場。昼間はこの広場のみ一般のラパタ国民が入ることを許された。
その広場の真ん中に、十字架が建てられ、キトが全裸で縛られていた。足は縛られ地面についていた。両腕は広げられ十字架の横棒に縛られていた。
周りにはラパタ国の国民とアガドの兵士が取り囲んでいた。
人々は囁いた。
「あれが、山賊グルドの娘か。やはり悪いことをすると、結末が悲惨なんだな」
「でも、若いな。なんだかかわいそうだ」
その広場を見下ろす位置にあるバルコニーからアガドは言う。
「さあ、鞭打て、山賊グルドが現れるまでその娘をいたぶるのだ」
鞭を持った兵士はキトの裸体の胸から腹にかけて鞭を打った。
ビシッ。
「ぐ」
キトは耐えた。
兵士はキトの太ももを鞭打った。
ビシッ。
キトは歯を食いしばった。
「ライ、レン、もしくは親父が助けに来てくれる。それまで我慢だ」
だが、鞭は痛かった。キトの裸体の鞭打たれた部分が紫色になった。
ライとレンはシャンバラの出口の洞窟の前にいた。そこにはアガド軍の置いていった見張りがいた。
「誰だ?貴様らは?」
見張りが言うとライはニヤリと笑った。
「俺の名はライ」
レンはライに言った。
「ライ、殺すなよ」
「わかってるよ」
ライは見張りの兵士五人を一気に倒した。
ふたりは洞窟に入った。
液体の出入り口を通り洞窟の中でさらに何名もの兵士を倒して地上の世界に出た。地上は曙だった。
洞窟の出口になっている建物には多くのアガド軍兵士が守備に就いていた。ライとレンが出てくると兵士たちは居眠りから覚めて二人を囲んだ。ライとレンは波動拳で囲みを突破し、槍を躱し、剣を躱して建物の外に出た。
ツォツェ村にいた百人のアガド軍兵士にライとレンは囲まれた。
ライとレンは百人の兵士と戦いたくなかった。殺したくない。殺されたくない。時間がかかる。七つの峠を越えていくために体力を消耗させたくない。
ライはそこで震空波を放って脅すことにした。
ライは百人に取り囲まれている中で右掌を突き出して震空波を放ち、その広場の中央にある、石を積んだ饅頭型の白い仏塔を破壊した。
その威力に百人の兵士は度肝を抜かれた。
「ライ、仏塔を壊すのはちょっと・・・」
というレンの言葉は聞かず、ライはアガド軍兵士たちに言った。
「これが奥技震空波だ。おまえたちを皆殺しにするなんてわけもないことだ。殺されたくなかったら道を開けろ」
兵士たちは怯えて、ライとレンのために道を開けた。ライとレンは速足でツォツェ村を出た。
日が沈むとラパタ城では十字架からキトは解かれ全裸のまま牢に入れられた。これはキトが死なないようにするための措置だった。牢では食事が与えられた。利用できる者は生かして置く、アガドの考えだった。
牢の中でキトは米とスープだけの食事を摂った。
すると、向かいの牢からキトを呼ぶ女性の声がした。
「あなたは山賊の娘のキトさんね」
キトはそちらを見た。松明の灯りの中に見えるのはラパタ国王妃だった。
「山賊の娘とはいえ、かわいそうに。わたしにはあなたと同じくらいの娘がいます」
キトは声を出すのも苦しいが、なんとか声を出した。
「ルミカのことか?」
「ルミカをご存じなの?」
「あたしはルミカとライとレンと行動を共にし、一緒にシャンバラへ行ってきた」
王妃は驚いた。
「そう?ルミカはシャンバラに行けたのね?で、あの子は今どうしてるの?」
「シャンバラはアガド軍に荒らされている。ルミカは隠れている」
「ではお姉様は無事なのですか?」
キトの牢の隣の牢から声だけがした。ルミカの弟コタリ王子だ。
キトは言った。
「あたしが捕まったときにはルミカはレンとシャンバラの学校の二階に隠れていた。そのあとのことは知らない」
すると王妃の隣の牢から男の声がした。
「ルミカは帰って来られるのかね?今、国はこんな状態だ。あの子が帰って来ても迎えることはできない」
それはラパタ国王の声だった。キトはその姿を松明の光のもとに見ることができた。
「王様か。山賊のあたしとは正反対の立場の人だね。これが平時なら、あたしはあなたに囚われて処刑されてもおかしくない」
王は言った。
「王というのは絶対に正しいものだと思っていた。だが、このような状態になって初めて権力というものの恐ろしさを知った。王は正しいから権力があるのではない。権力があるから正しいのだ。今のアガドは正しいか?」
コタリ王子が言った。
「正しくありません、お父様」
「では誰がこの世に王道をもたらしてくれる?正しい者が平和に暮らす世界を」
そう国王が言うとキトが言った。
「闘林寺の僧侶、ライとレンがこの世を救ってくれる。あたしたちの運命はあのふたりに掛かっているんだ」
「ライとレン、ルミカを護衛して旅立ったふたりか。そうか、あのふたりが」
国王は遠くを見つめる眼差しで言った。
翌朝、再びキトは広場へ連れ出され、十字架に縛られて鞭打たれた。
若い娘が全裸で縛られ鞭打たれるというこの人間を人間として扱わない非道に、普通なら死にたくなるだろうな、とキト自身は思った。だが、キトには希望があった。ライがいる。レンがいる。父親と山賊の仲間がいる。キトは絶望しなかった。
二、山賊グルドとライとレン
グルド率いる山賊たちはラパタ城の西の山の中に隠れていた。岩肌の露出した山だが、岩がごつごつしていて、隠れる場所には事欠かなかった。ラパタ国を通らねば東のマール国には行けない。ラパタ国を占領しているアガド軍がグルドたちを足止めしていた。
隠れているグルドたちの所に城よりスネルが情報を持って来た。
「『山賊グルドの娘キトがラパタ城に囚われ、拷問を受けている。グルドはシャンバラの秘宝を持って、ラパタ城に来い。そうすれば娘は釈放する』と触れが出されています。実際、キトが十字架に縛られ鞭打たれています。まったく残忍な男です。アガドという男は」
グルドは言った。
「なに?キトが?鞭打たれている?我が娘が?」
片眼の剣士バドは言った。
「スネル。おまえはシャンバラに行ったとき姿が見えなかったがどこにいた?」
スネルは言った。
「女を漁っていました」
「ふ」
グルドは笑った。
「スネルよ。どうしたらキトを助けられると思う?」
「シャンバラの秘宝ともども財宝をここに隠して、ラパタ城に行くのです。親分の身柄とキトの身柄を交換します」
「うむ、それならキトは助かるな。だが俺が危ない」
「財宝のありかを教える代わりに釈放させるのです」
「なるほど、だが、もっと安全なやり方はないのか?」
「相手は七百人の軍隊です。四十人の山賊ではどうしても策略を使うしかありません」
と、スネルが言うと、剣士バドは言った。
「山賊が頭を人質に差し出すのか?」
グルドはしばらく考えた。そして頷いた。
「ここに財宝は隠して置こう。みんな、ラパタ城に行くぞ。俺は投降する。キトの身柄と交換だ。みんなにはキトを守って欲しい」
片眼の剣士バドは言った。
「父親だな」
グルドは四十人の山賊を引き連れ、谷底の道に降りた。スネルは独り財宝の隠し場所に残り、冷笑を口元に浮かべて谷底のグルドたちを見下ろしていた。谷底の道はラパタ国からシャンバラの入り口ツォツェ村を繋ぐ道だ。そこで、グルドたちはライとレンに出くわした。
ライは言った。
「グルド!なぜ、おまえがここにいる?」
グルドは言った。
「それはこっちのセリフだ。なぜ、おまえらがここにいる?」
「キトを助けるためだ」
「なに?娘を?おまえたち、それは本当か?」
「嘘を言ってどうなるんだよ。キトは俺たちの仲間だ」
「キトは俺の娘だ。俺も娘を助けに行こうとしている」
キトを救出するという目的が一致した。
レンが言った。
「じゃあ、協定を結ばないか?僕たちはキトを救いたい。グルドもキトを救いたい。キトを救出するまで僕たちは味方だ」
「む」
グルドは言葉に詰まった。
「俺は今から投降し、キトと俺の身を交換することになっている。シャンバラの宝は隠してある。だからアガドと取引ができる」
レンは言った。
「シャンバラの秘宝か?」
「そうだ、黄金のダイヤだ」
「あれには世界を支配する魔力があることを知っているか?」
グルドは驚いた。
「なに?知らない。そうか、それでアガドはあんな物に執着するのか?」
「しかも、おまえが盗んだ物は偽物だ。本物はまだシャンバラにある」
「なに?」
レンは言った。
「あれは黄金に輝くガラスの玉だ。地面に叩きつければ簡単に割れる」
「マジか?」
「マジだ」
グルドは言った。
「だが、それはアガドには知られていないんだろ?」
「たぶんそうだ」
「じゃあ、取引の材料にはなるな。偽物ならばこちらが有利だ」
「僕たちはキトを救出したらシャンバラに向かう。ルミカを連れて来てシャンバラへの入り口を閉ざす」
ライは驚いてレンの顔を見た。
「え?レン、シャンバラでの修業は諦めるのか?」
レンは言った。
「僕には真実よりも大切なものができた。ルミカだ」
ライは笑顔になった。
「レン、おまえ・・・」
グルドは言った。
「入り口を閉ざす?どうやって」
レンは言った。
「震空波だ」
「そうか、俺が闘林寺で会得できなかった奥技だ」
「閉ざしてしまえば百年は開けることはできない。つまり、アガドは本物の秘宝を取りに行くことができない」
グルドは言った。
「それも取引の材料になりそうだな」
「あくまで取引か?武力は使わないのか?」
と、ライが言うと、グルドは言った。
「こっちの手勢は四十人だ。相手は七百人、勝ち目はない」
ライは言った。
「俺たちは震空波を使える。実際、ツォツェ村で脅しに使ってみたら効果はあった。百人の兵士が道を開けたぞ」
グルドは言った。
「娘が人質になっているんだ」
ライは下を向いた。
「キト・・・」
グルドは言った。
「暴れるのは俺とキトが人質として交換されてからだ。だが、俺の考えでは秘宝を取引に使える。しかも偽物の秘宝だ。暴れる必要はない」
レンは言った。
「僕たちの仲間、ルミカの両親と弟が拘束されていると聞いた。助け出したい」
グルドは言った。
「じゃあ、俺が取引をしている間に国王夫婦と息子を救出したらどうだ?キトは俺が交渉で取り戻す」
レンは言った。
「わかった。僕たちとグルドは手を組まない。別行動だ。あとはなるようになれだ」
グルドは笑った。
「そのほうがいい」
三、交渉
ラパタ城の東門は開いている。
東門はラパタ城の正門であり、その前には広場があって広場の周りは田畑が広がっている。
朝、その門前の広場の門から距離を取ったところに四十人の山賊が立っていた。無論、グルドの一味だ。山の中を隠れて移動し、城の東側に回り込んだのだ。初めからこのコースを取っていればラパタ城で足止めされることなく東のマール国へ抜けることができたことがいまさらわかった。しかし、今では状況が違う。キトが囚われているのだ。グルドは大音声で言った。
「交渉したい!」
「何者だ?」
東門を守る衛兵は言った。グルドは答えた。
「囚われの娘、キトの父親、グルドだ。俺の身柄と娘の身柄を交換したい」
伝令が玉座の間のアガドに報告した。アガドはニヤリとして顎を撫でた。
「ほう、父親が娘の身代わりに?それはどんな意味があるのかな?」
伝令は言った。
「秘宝のありかを教えるとのことです」
「そうか、わかった。そのために娘を公開拷問していたのだ。よし、娘の縄を解け。門の前に連れ出せ。私も行く」
地下牢にいたキトは連れ出された。
牢を出るときに、また、キトが拷問されると思っていた王妃が言った。
「しっかりね。必ずあなたのお父様やお友達が助けに来てくれるわ」
キトは服を着せられ、表に出て拷問されていた広場を通り過ぎたので、「あれ?」と思った。そして、東門の外に出された。そこにはアガドがいた。
アガドは言った。
「小娘、見ろ。おまえの父親がおまえとの身柄の交換を申し出てきたぞ。よかったな。おまえは自由だ。そして、父親が囚われるのだ」
グルドは東門前の広場の距離を取ったところに山賊を引き連れ立っていた。キトは疲れていて声が出なかった。
アガドは言った。
「グルド、そちらから一人で歩いて来い。こちらから娘を歩かせる」
キトは解き放たれた。キトはグルドのほうにゆっくりと歩いて行った。グルドもゆっくりと歩いて東門に近づいた。山賊とアガド軍の対峙する間で親子は抱き合った。
グルドは言った。
「情けねえな。山賊なのに。父親なんだよな」
キトは言った。
「ありがとう。親父」
グルドは言った。
「じゃ、俺はアガド軍のお縄につく。おまえはバドたちに守られて逃げろ」
グルドはアガドのほうにゆっくりと歩いた。キトは後ろを振り返りつつ山賊たちが立つほうへ歩いた。
グルドはアガドの手下によって捕縛された。
そのとき、城の西のほうで爆発音がした。
「なんだ?」
アガドは城の中を振り返った。そこに縛られたグルドは体当りをした。アガドと共に地面に倒れたが、周りの兵士に取り押さえられた。グルドは地面に押し付けられた。
「ちっ」
アガドは立ち上がってグルドの顎を蹴った。
「この、山賊が!くだらん真似をしおって」
グルドは何度も蹴られた。すると、山賊たちが攻めてきた。
「親分を蹴るなぁー」
親分が人質になっているというのに感情的になると攻めてしまうところがグルドの子分たちだった。
キトはその間に数名の山賊に守られてその場を去った。
キトは言った。
「みんな、ありがとう。あたしも戦えればいいのに」
「その傷では無理だ。どこかの民家に隠れて治療しましょう」
キトはもっともだと思い、山に近い森の中にある民家に隠れることになった。その民家の住人は山賊を受け入れてくれた。アガドは住民に嫌われている。
さて、東門の前では山賊がアガド軍と矢の応酬のあと入り乱れて戦った。
アガドは捕縛されたグルドを連れて城の中へ急いだ。
アガドは訊いた。
「なんの爆発音だ?」
兵士が言った。
「何者かが、西門から侵入しました」
アガドは言った。
「その数は?」
兵士が言った。
「わかりません」
「わからない?そんなに多いのか?」
「いえ、少ないのです。ひとりという報告もあれば、ふたりという報告もあります」
「たったそれだけでこんなに大騒ぎなのか?」
「敵は奇妙な技を使います」
アガドは理解した。
「闘林寺の者か?」
「は、もしかしたらそうかと」
「殺せ!」
西門で暴れているのはライだけだった。レンは敵の陣形を崩すと、城の中へ走り込み、追っ手を倒しながら地下への階段を探した。牢屋は地下にあるというのが、ルミカからの情報だった。手薄な城内を守るアガド軍兵士を倒してその鎧を奪って自ら着てアガド軍兵士に成りすまし、城の地下へ侵入した。
ライは震空波を撃ちまくった。石を積んで建てられた城壁の西側はメチャクチャに壊れた。アガド軍の兵士たちはじりじりと城内に退却した。ライは矢の的にならぬよう俊敏に動いた。武装したアガド軍兵士に対して黄色の武道着を着ただけの素手のライが優勢に戦いを進めた。十一年間の闘林寺での修業が存分に生かされた。槍を躱し相手の懐に入って拳で顎をぶん殴る。刀を躱して飛び蹴りを喰らわす。槍を奪うとぶん回して敵を寄せ付けない。跳び上がって兵士たちの頭を踏んで飛び石を渡るようにピョンピョンと越えていく。波動拳で兵士たちをぶっ飛ばして道を開けると、城の西側から北側へ進む。そこは城が城壁内の北西寄りに建っているので建物のない石壁に囲まれた通路となっている。アガド軍の守備は手薄で、北側から応援部隊が押し寄せてくる。ライはたったひとりでアガド軍を蹴散らす。
変装したレンは地下牢に侵入した。
途中、見張りの兵士に呼び止められるとレンはこう言った。
「アガド将軍からラパタ国王への秘密の言伝を預かっている」
看守はまさかアガド軍の鎧を着た男が不審者であるとは思わず、独裁的なアガド将軍ならこのような秘密のやり取りもあるのだろうと考え、その言葉を信じて、レンをラパタ国王のいる牢へ案内した。暗い地下牢には松明が灯っている。
レンは他の兵士の眼がない場所まで来ると、自分の前を歩く看守の背部を突然殴り気絶させた。倒れた看守の腰から牢の鍵を奪いラパタ国王一家の牢を開けた。
国王は言った。
「君はレンだね?ルミカは?」
「シャンバラにいます」
「助けに来てくれたのか?」
「ええ、城から出ましょう。外ではライが暴れています。山賊も東門で合戦しているようです。城内は混乱しています。陛下たちはとにかく安全な場所へ移動しましょう」
「うむ、わかった」
捕縛されたグルドは玉座の間にしょっ引かれた。アガドは言った。
「おい、グルド、シャンバラの秘宝はどこにある?そのありかを言え」
「言ってたまるかよ」
アガドは鞭でグルドの顔を打った。
「貴様、死にたいか?」
グルドは言った。
「世界を支配するというあの石をおまえが手に入れたらどうせ俺を殺すんだろ?俺だけじゃない、マール国王だって・・・」
「黙れ!」
アガドは鞭でグルドを打った。グルドは床に顔から倒れた。こめかみから血が流れている。
グルドは言った。
「俺が死んでもいいのか?俺が死んだらおまえの夢は消えるんだ」
「うるさい!」
またアガドは鞭で打った。グルドの左瞼は切れて流血した。
そこへ、国王一家を連れたレンが現れた。地下牢からは玉座の間を通って北門に行くのが外への近道だったからだ。
レンはグルドを見た。
「グルド!」
グルドはレンの姿を認めた。
「レン!」
アガドは振り返った。
「なんだ、小僧・・・は、国王か?」
グルドは言った。
「レン、シャンバラへの入り口を閉ざせ!」
グルドは後ろ手を縛られたままアガドに体当たりした。アガドはグルドもろとも倒れた。グルドは倒れたまま言った。
「レン、キトには俺の心配はするなと伝えてくれ。娘の幸せが父親の幸せだと」
アガドは立ち上がり床に転がるグルドを蹴飛ばして言った。
「なにが父親だ、娘の幸せだ、この薄汚い山賊が!」
そして、兵士たちに号令を出した。
「国王一家を逃すな!」
レンは国王一家を玉座の間の西側の壁に寄せた。兵士たちはレンに向かって行った。レンは波動拳を撃った。先頭の兵士が吹っ飛んだ。レンは叫んだ。
「邪魔だ!雑魚ども!道を開けろ!アガドの言いなりの奴隷ども!志のないイエスマン。おまえらに歴史を動かす資格はない!」
敵の多勢のため、レンは国王たちを守りながらではグルドを助けることはできず、国王一家三人だけを導いて城の北側から外へ出た。そこに兵士たちと格闘しているライがいた。レンはライに声を掛けた。
「ライ、国王一家を連れて来たぞ」
ライは戦いながら、レンを見て笑顔になった。
ふたりは協力してアガド軍兵士たちを蹴散らし、閉ざされている北門の木製の扉を震空波で破壊した。そして、レンが先頭で兵士を蹴散らしながら北門から城壁の外へ出て、国王たちがそれに続き、ライが殿を勤め波動拳で追っ手を阻んだ。
そのニュースを聞いたラパタ国の一万人の国民のうち体力のある戦える者は武器を持って立ち上がった。城を占拠したアガド軍に対して城外の国民が玉座の間へ攻め込もうと戦いを挑む、城の内外が反転した形になった。
レンたちは国王らと共に北側の森深い山の中へ逃げ込んだ。そして、山伝いに東に歩いて、森の中の民家に降りた。その民家ではキトがグルドの子分により手当てを受けていた。
ライはキトに言った。
「キト。大丈夫か?」
「ライ、来てくれた、ありがとう」
キトは泣いた。
レンは言った。
「キト、僕たちはシャンバラへの入り口を閉ざしに行く。これ以上、あの世界に混乱を持ち込むことはできない」
「親父は?」
「今、アガドから拷問を受けている」
「親父を助けないのか?」
「助けたい。だが、グルドが言ったんだ。シャンバラへの入り口を閉ざせ、と。それからグルドはこうも言った。娘の幸せが父親の幸せだと」
「親父が・・・?」
「それにグルドは秘宝の隠し場所を教えなければ殺される心配はない」
「本当か?」
「ああ、アガドの野望はシャンバラの秘宝の魔力で世界の帝王になることだ。その秘宝のありかをグルドが吐かない限り、アガドはグルドを殺せない。だから、山賊とラパタ国民がグルドを救出する可能性は大いにある。それにグルドが盗んだ秘宝は偽物だ。本物はまだシャンバラにある。それがわかればアガドは再びシャンバラを目指すだろう。だから、すぐにでも、シャンバラへの入り口は閉ざさなければならない。グルドが囚われたことを無駄にはできない。彼が拷問を受けて時間稼ぎをしている間にシャンバラへの入り口を閉ざすんだ」
キトは言った。
「親父は拷問で口を割るような柔な男じゃない。親父のことは山賊の仲間に任せて、あたしもシャンバラへの入り口を閉ざす旅に行く」
レンは言った。
「その傷では無理だ」
キトは言った。
「ライも行くんだろ?あたしはライの花嫁だ」
ライはキトと目が合った。レンは黙った。そして言った。
「わかった。三人で行こう。そして、ルミカを連れて戻って来よう」
四、シャンバラへの入り口を閉ざせ
ラパタ城の東門から山賊とラパタ国民は中へ攻め込むことができなかった。仕方がないので、森の中に退却した。
夜になっても山賊とラパタ国民はアガド軍とにらみ合いを続けていた。
ライ、レン、キトの三人はこっそりと夜陰に紛れて、シャンバラへの入口へ向けて旅立った。
アガドは城の寝室で疲れて眠っていた。
グルドは地下牢に閉じ込められていた。
そして、翌日、拷問が再び始まった。グルドは自分の娘が縛られていた十字架に同じように全裸で縛られた。
「秘宝はどこにある?言え!」
アガドは鞭でグルドを打った。
「ふん、言ってたまるか?」
そんなことを一日やっていた。グルドは口を割らなかった。
数日後、広場でアガドが十字架に縛られたグルドを拷問していると、そこへ鼠(ねずみ)のような顔をしたスネルがやって来た。
「将軍様、グルドの隠していた秘宝を持って来ました」
「なに?」
アガドは喜色満面となった。アガドは布に包まれたそれを受け取り、取り出した。
「おお、美しい。まさに黄金のダイヤ。この世を我が物にできるという」
グルドはスネルに言った。
「なんだ?スネル、おまえ・・・」
スネルは言った。
「おや、山賊の親分。相変わらずアホ面ですな」
グルドは怒り心頭した。
「貴様、裏切ったな!」
スネルは笑った。
「今頃遅いわ。もうおまえに用はない。ここにアガド様を世界の覇者にする黄金のダイヤがあるのだからな」
グルドは笑った。
「ふん、おまえは情報屋にしては情報不足だな」
「なに?死が怖くて血迷ったか?さあ、アガド様、その宝石の力を試す時が来ました。マール国に侵攻しましょう」
アガドは言った。
「だが、何か変化が起きるわけではないな?」
スネルは言った。
「行動に移せば力を発揮できるのでは?」
グルドは笑った。
「はっはっは、バカども。それは偽物だ。本物はシャンバラにある。俺も騙されたんだよ」
スネルは笑った。
「バカだな。いまさら、そんな嘘を言ってもおまえは助からんぞ」
グルドは言った。
「じゃあ、試しにそいつを地面に叩きつけて見ろ。ガラスだから粉々に割れるぞ」
アガドは少し躊躇ったあと、実際に叩きつけてみた。すると、その黄金のダイヤと思われていたものは、粉々に砕け散った。
グルドは笑った。
「はっはっは、おまえの野望は運が尽きた。今頃、ライとレンがシャンバラへの入り口を閉ざしに行っている。もう、おまえが黄金のダイヤを手にすることはない。入り口が再び開くようになるのは百年後だ」
アガドは激怒した。
「お、おのれ!」
アガドは刀を抜き、グルドの首を刎ねた。グルドの首は血しぶきを出して飛んだ。地面に転がった顔は目を見開き笑ったままだった。
アガドは号令した。
「今からシャンバラへ向かう。彼(か)の地への入り口を閉ざそうとする愚か者を殺せ!」
アガドは騎馬軍を率いてラパタ城を出て西へ向かった。途中から馬が通れなくなったので徒歩になった。ほとんど眠らずに行進した。
その頃、ライとレンとキトはツォツェ村に入っていた。そこにシャンバラから帰って来たアガド軍がいた。
アガド軍のシャンバラ制圧本部長が言った。
「シャンバラのサティーヤグラハにより私たちは目を覚まされました。彼の地を侵略することが、虚しく感じられるようになり、全員一致の決断でシャンバラから地上に帰って来ました」
ここのアガド軍の守備隊はライたちを通してくれた。ライとレンとキトは洞窟に入った。
洞窟の中はアガド軍が設置した松明によりほんのりと明るかった。これが異世界への入り口に繋がっていると思うと納得できる神話的な雰囲気があった。
キトがかつて付けた印に沿って洞窟の中を三人は進んだ。そして、ついに、シャンバラへの入り口のある広い空間に着いた。
レンは言った。
「じゃあ、ルミカを連れて来よう」
三人は液体の壁を通り抜けシャンバラに入った。
シャンバラにはやはり、もうアガド軍はいなかった。
ライたちはルミカのいるサファリ学長の家に行った。
ルミカはライたちを出迎えて言った。
「みんな、アガド軍はどうなりました?シャンバラからは退却したけど」
レンは言った。
「まだ、ラパタ国で攻防が続いている。ルミカの両親と弟は助け出したよ。国王一家が助けられたことで国民は立ち上がった。僕たちはシャンバラへの入り口を閉ざしに来たんだ。ルミカ、帰ろう」
ルミカは迷った。まだ真実を学んでいない。
サファリ学長は言った。
「四人全員が帰ることは不可能だ。少なくともひとりはこちらに残ることになる」
レンは訊いた。
「え?どういうことですか?」
サファリ学長は言った。
「入り口を閉ざすにはふたりで地上側からとシャンバラ側から同時に震空波を放たねばならない。ライとレンのうちどちらかがシャンバラに残ることになる」
しばらく四人は声が出なかった。
が、沈黙を破ってレンは言った。
「じゃあ、僕が残るよ。僕はシャンバラで生きていく。ライよりも僕のほうがシャンバラに合ってるだろ?」
「レン、おまえ・・・」
ライはレンの想いについて考えた。
ルミカは何も言えなかった。
サファリ学長は言った。
「さあ、早くしなさい。もしかしたら、アガド将軍はこちらに向かっているかもしれない」
実際、このとき、アガドは兵を連れてツォツェ村に到着していた。
シャンバラから戻った兵士たちがたくさんいるのを見てアガドは解釈に困った。
「なぜ、こんなに我が軍がいるのだ?」
「将軍閣下、シャンバラは理想郷です。我々の行くべきところではありません」
とシャンバラ制圧本部長が言った。
アガドは言った。
「このバカどもが。おまえたちはあとで軍令違反で罰してやる。さあ、急ぐぞ、精鋭部隊よ、我に続け」
アガドは洞窟に入った。
ライは洞窟内の広い場所にシャンバラへの入り口を向いて立っていた。隣にはキト、そしてルミカがいる。そして、液体の壁の向こう、シャンバラ側にはレンが立っている。
「レン・・・本当にいいのか?」
ライは涙を溜めて言った。
「おまえは親友だ。一緒に闘林寺で修行したかけがいのない親友だ」
レンも涙を溜めて言った。
「僕もライのことは親友だと思っている。今までありがとう。それから父上には僕はシャンバラに永住することになったと伝えてくれ」
ライは頷いた。
「レン・・・お前がそう言うならそうするよ」
そして、レンはルミカを見た。ルミカもレンを見つめた。
「レン・・・」
そのとき洞窟の上のほうから大勢の足音が聞こえてきた。
キトは言った。
「アガドたちか?ライ、急がないと」
ライは震空波を放つ構えを取った。左足を前に出して腰を落とし、右手を肩の高さに林檎を握るような形を取った。
液体の壁の向こうでもレンが構えている。
そのとき、ルミカが突然、液体の壁に飛び込んだ。
「え?ルミカ?」
レンたちは驚いた。
ルミカはシャンバラ側に行き、レンに抱きついた。頬は涙で濡れている。
「わたしはレンと共にシャンバラで生きていきたい」
レンは戸惑った。
「ルミカ、何を言ってるんだ。君は王女様じゃないか」
ルミカは言った。
「わたしにはコタリという弟がいます。彼が王になります。わたしはいいの。あなたと共に幸せになれれば・・・」
ルミカはレンの眼を見た。レンもルミカの眼を見た。ふたりは唇を重ねた。ライとキトは抱き合う恋人たちを温かい気持ちで見つめていた。
レンとルミカは体を離してライたちのほうへ向いた。レンは言った。
「ライ、キト、僕たちは今、この場所で結婚する。もう僧侶であることは辞めるよ。僕はルミカを初めて見たときから運命の人だと思っていた。旅を続ける間ずっと想いは強くなっていった」
ルミカも言った。
「私も旅をするうちにレンのことを愛するようになっていました。とくにシャンバラで共に行動をしたときにその想いを確信しました」
キトは言った。
「よかったね。でもいいの?シャンバラに残ったらもうこちらの世界には戻れないんだよ。家族に会えないんだよ?」
ルミカは言った。
「キト、お父様たちに伝えて。私はシャンバラで幸せに暮らす。でも、ラパタ国での日々のことは絶対に忘れない」
キトはレンに言った。
「レン、ルミカの決意はあなたがルミカを愛し続けることが前提だからね。絶対ふたりで幸せになるんだよ」
レンは頷いた。
「わかった」
そのとき、ライが叫んだ。
「アガドが来たぞー」
キトは広場の入り口に駆け寄って、侵入しようとするアガドと剣を交えた。アガドがいるのは人ひとりが通るのがやっとという狭い場所なので広場側にいるキトはアガドひとりを相手にすれば後ろにいる他の兵士たちの侵入を防ぐことができる。
ライは液体の壁の前に立って言った。
「いいか?レン?」
ライは左足を前に出し腰を落として右手を肩の位置で林檎を掴むようにして構えた。ライの眼から涙が溢れた。
液体の向こうにいるレンも涙を流していた。レンとルミカは懐かしい地上世界と永久に別れることになるのだ。レンはルミカから離れて腰を落として構えた。
「いいぞ、ライ」
ライは言った。
「『せーの』で行くぞ」
「わかった」
ふたりの右手に気が集中していった。
「「せーの!」」
「「震空波!」」
ふたりは同時に右掌を前に突き出し、震空波を放った。ふたりの間の空間が歪み、液体の壁は七色に変化した。そして、一瞬眩しい光を放った後にはもう、ライの前には液体の壁ではなく石板の壁が立っていた。
レンとルミカが別世界に行ってしまったようにその存在すらも消えたように壁は沈黙していた。
アガドがキトを押し込み、広場に兵士たちと共に入って来た。
ライは言った。
「残念だな。アガド。もう、シャンバラへは行けないよ」
アガドは悔しがった。
「おのれ!ガキども!おのれ!」
ライは言った。
「おまえは世界の帝王になりたかったのか?」
アガドは怒りながら言った。
「そうだ、俺は世界の帝王に・・・そうだ、こうなったらラパタ城を拠点にマール国に攻め込んでやる。あの無能なブタの首を取って俺がマール国の王になってやるのだ!」
アガドはライとキトなどすでに眼中にないらしく、ふたりを捨て置いたまま元来た道に取って返した。
「皆の者、続けっ!」
アガドはツォツェ村に残してあった全軍を率いてラパタ城に帰ろうとした。
「今から、我が軍はマール国を攻める!」
ほとんどの兵士は付いてこないのに、アガドは七つの峠を越え、ラパタ城に帰還した。
ラパタ国にはすでに戦火はなく、城にはアガドが入城したときよりずっと多い、数えきれないほどのマール国の赤い旗が翻っていて、アガドは不思議に思いながら玉座の間に走り込んだ。玉座には太った若いマール国王が座っていて、ラパタ国王夫妻とコタリ王子が横に控えていた。玉座の間にはその他、大勢の兵士が槍を持って立っていた。
アガドは面食らった。
「こ、これは、どういうことだ?」
マール国王の玉座の近くに背の低い頬肉の垂れた初老のゲンク大臣が控えていた。アガドは理解した。
「ゲンク、貴様?」
床より数段高くなっている玉座から見下ろすマール国王は言った。
「アガド将軍、貴様には謀反の疑いがある」
アガドは抜刀して玉座のマール国王を睨んだ。
「おのれ!この無能なブタめ!マール国は俺が貰う!死ね!」
アガドはマール国王に向かって走り寄ろうとした。
マール国王は周りの兵士に言った。
「殺せ!」
アガドは兵士たちの長槍に次々と刺され、あと数段上がれば玉座のマール国王に手が届くという所で床に崩れ落ちた。
「おのれ、生まれさえ、王室ならば、この俺が・・・」
アガドは絶命した。
マール国王は言った。
「ラパタ国王よ。我が家臣が迷惑をかけた。すまなかったな。ラパタ国は再び、朝貢国としてマール国に朝貢してくれるな」
ラパタ国王は恭しくお辞儀をした。
「はい、もちろんでございます」
マール国王は玉座より立ち上がった。
「よし、すべてよし。我が軍よ、国に帰るぞ」
マール国王軍はアガドの残していった軍隊もすべて引き連れ、ラパタ国をあとにし、東のマール国へ向けて峠を越えて行った。
*
ライとキトはツォツェ村から七つの峠を越えてラパタ国へ戻った。その道中、野宿するたびに、ふたりは晴れた夜の星空を見上げた。この宇宙のどこかにシャンバラがありレンとルミカがいる、遠くにいても自分たちの友情は変わらない、そう思った。
ラパタ国に着くと、ライとキトはルミカがシャンバラに残りレンと結婚したこと、そして、もう帰って来ないことをラパタ国王夫妻に伝えた。夫妻は抱き合って泣いた。
それから、ライとキトはラパタ国にあるグルドの眠る墓で冥福を祈った。盛土に木の札を立てただけの質素な墓だった。山賊でありながらラパタ国に貢献したことを讃えられ、石の墓に建て替えられるのは後のことだ。
グルドの墓参りをすると、ふたりはすぐに闘林寺を訪問し、レンがシャンバラの人となったことを大僧正に伝えた。大僧正はただ大きく頷いただけだった。
その後のライとキトについてはよくわかっていない。
(了)
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