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文人主義。優柔不断の倫理学

先日、『「分人主義」∈「文人主義」』という記事を書いた。これは小説家平野啓一郎が提唱する「分人主義」にかけて、「文人主義」というものを考えてみたのだが、そこから、私は文人主義について真面目に考えるようになりつつある。
文人とは文人墨客のあの文人である。
小説家や詩人など文学者を指すとみていいだろう。
平野の「分人主義」には対する語として「個人主義」がある。「文人主義」に対するは「文武両道」とあるくらいだから「武人主義」と言ったらいいだろうか?いや、これは誤解がありすぎるか?武人とは戦士であり戦場で戦う者だ。人を殺す者だ。しかし、現代日本において「武」とは「文」に対してスポーツや政治、ビジネスなどを指すと言ったらいいだろうか。つまり、「武人主義」は「現実主義」と言えるかもしれない。いや、文学にはリアリズムがある。平野の分人主義だって、現実がそうだと主張していると思う。現実の捉え方が、政治やスポーツと文学は異なると言っていいかもしれない。「武人主義者」にとって平野のような文人が考える分人主義など面倒くさいと映るかもしれない。あるいは仕事で忙しく働いているときに文人は優柔不断に見え役に立たない人間かもしれない。
優柔不断とは文字通りに解釈すれば、「優しく、柔らかく、不断である」そういう人のことで、ここには良い点と思われる「優しく、柔らかい」がある。「不断」であるところが欠点である。決断力があり勇ましく戦う者は戦場では頼れる人かもしれない。しかし、そんな勇猛果敢な人が家族にいたら、少し鬱陶しいかもしれない。優しく柔らかい人のほうが、家族としては安心できるかもしれない。
優柔不断に見えがちな文人は内側に独特の世界観や価値観を持っている場合が多いと思う。彼らは社会的に弱者かもしれない。しかし、優しさ、柔らかさは絶対に社会に必要で目的ですらある。そんな文人を尊重するのが「文人主義」だ。
優しく柔らかく不断であるのは大抵の文学では当然のことだ。不断の文学の魅力はいろいろな解釈が可能というところにあるかもしれず、要するに何が言いたいの?という問いにはもじもじして答えることができないものかもしれない。いや、明確なメッセージがある文学など面白くない。一言で言えるメッセージを伝えたいならば一言で言えばいいのだ。文学はそういうものではない。だから優れた文学作品はその作品自体の大きさより、それに対する評論感想などの文献のほうが膨大になることもよくある。それは優柔不断の作品ほどそうである。
では文学ではなく、優柔不断な人間はどうだろう?カネにならない価値を持っていないだろうか?これを読んでいる読者は自分の周りの優柔不断な人を思い浮かべて欲しい。何か内面に勇猛果敢な人よりも優れたところはないだろうか?
社会の価値観が人間の価値を決めて負の烙印を押すことはやめたほうがいい。金儲けが目的の資本主義はよく稼ぐ人を高評価する。しかし、それは民主主義ではない。資本主義よりも民主主義を重視するならば、そこに文人主義が入り込む余地は多分にあると思う。
 
以上、思いつくままに文人主義を論じてみたが、今後もこの方向性で考えを深めてみたいと思う。

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