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小説家を目指すならば自作を「拙作」とか言うな

小説家を目指す人で、謙遜して自作を「拙作」などと言う人がいるが、私はそういうのが嫌いだ。
私は小説で天下を取りに行っているのだ。それなのに自作を拙作などと言っていたら、誰かに作品を否定された時に、「たしかに私の作品は拙作です」と言わねばならないだろう。そうすると本当に自信がなくなると思う。謙遜は日本の美学なのかわからないが、大学教授などでも自分の本を「拙著」などと言う人が多い。大学教授の本が拙いならば、拙くない本はこの世にどれだけあるのだろう。
日本人の美意識として謙遜があるとしたら、私は、もうその思想は古いと思う。そういう思想的な変化の先陣を切るのが、文学系の人間の役割ではないか。自分の人生をかけてやっていることに無駄な謙遜をすることは自分の人生を卑下することになる。
私は小説家に絶対なってやると決めたのだが、ネットに投稿した小説はヒットしているとは言い難い。だからこそ、ここで謙遜してはならないのだと思う。おまえは才能がないよと言われたとしても、そう言う人は私ではないので、私の一部を見て才能がないなどと無責任なことを言うのだから、自分を最後まで信じてあげるのは自分自身であると思う。
どんな分野でも天下を取りに行くのは面白いことである。たとえ挫折したとしても、挑まなかった人生より、挑んだ人生の方が面白いと思う。私の場合、挑んでいるのが小説だから、これは死ぬまで挑める分野だと思う。
私は大学生の頃までマンガ家を目指していた。現実的な母は「マンガは十代で芽が出ない人は才能がないらしいよ」などと言っていたが、私は「それは他人であり、自分の人生は自分の人生」と思っていた。その後、マンガ家を諦めたのは、マンガ的世界観で生きることが私には合わないと思っだからだ。才能がないと認めるのはもっとあとの話だ。
私は五十代で小説が売れなくとも、六十代で売れなくとも書き続ける覚悟だ。死ぬまで書く。しかし、結婚をしたいし、子供も欲しい。小説にすべてを捧げるようなことはしない。人生を楽しみながら、夢を追い続ける人生がいい。
小説を志したがために人生に悲劇の影が差すようではそんな志は捨てた方がいい。
冒頭に戻るが、謙遜は自分が惨めになるだけだから意味がないと私は考える。

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