僕が僕であるために?いじめについて
私にとって、尾崎豊は若い頃、そして、今も結構好きなミュージシャンなのだが、その歌の歌詞というか思想に少し疑問があった。
『僕が僕であるために』という曲と、『卒業』という曲の部分を組み合わせたものが、私の疑問点なのだ。
『僕が僕であるために』の「僕が僕であるために勝ち続けなければならい」という部分と、『卒業』の「ときには誰かを傷つけても」という部分を組み合わせると、私は「僕が僕であるためには、ときには誰かを傷つけてもいいよね」と読んでしまう。
高校生のとき、ギター部の尾崎を好きな同級生からいじめを受けた私は、この歌詞に非常にいじめ肯定の意味合いを感じてしまった。
ニーチェは、困って苦しんでいる人がいても笑って飛び越えていけ、みたいな思想を語っている。強く生きろと。
そこに犠牲になる者の人生はどうでもいいのだろうか?
資本主義社会は、自由競争の社会だ。これは世界の富が不均等に偏ること前提の思想だから、強く生きること、貧乏人がお腹をすかしているときに、高級料理と美酒を飲んで楽しく暮らしていくことを肯定する社会だ。いや、その「勝ちたい」「夢を叶える」という意気込みを前提にした社会だ。誰もが金持ちになりたがるが、限られた世界の富は偏って分配されるので必ず貧乏人が生まれてしまう。
私もベストセラーの小説家になりたく、金持ちになりたいのだが、今は貧乏をしている。貧乏をしていれば、あとで贅沢してもいいよね、という感じだ。自分の人生の富を時間軸で分散すれば、他の人の富を奪うことにはならないだろう、と勝手に思っている。
それでもサクセスストーリーには隣に敗者を見なければいけない運命なのだろうか?
この文章の冒頭で私は尾崎豊に触れた。これはとくにいじめについて考えたかったからだ。
例に出した、私をいじめたギター部のロック野郎は、フェイスブックを見たら、カッコイイバイクに子供をふたり乗せて幸せそうに笑っていた。私は独身で彼女いない歴=年齢で精神疾患を患い介護士という低収入に甘んじている。別にあいつを恨んじゃいないが、こうやって客観的に見ると私は悲劇の主人公だ。負け組だ。しかもいじめられた負け組だ。
私は小学生の頃、勝ち組だった。あの頃、クラスのいじめられっ子をいじめていてときには罪の意識を感じつつも、平気で生きていた。幼稚園からいじめられていた子もいて、そういう子は、幸福な子供時代をいじめっ子が奪っていたのかもしれず、そのいじめっ子が私かもしれないと小学校を卒業するとき深く反省し、中学に上がったらいじめはしなくなった。しかし、中学二年生ぐらいから、精神が弱くなり、自己主張もあまりしないようになり、高校では先に述べたようにいじめられた。そして、統合失調症という精神病になったのだが、それはいじめが直接の原因ではなく、大きな夢と非力な自分という現実のギャップに苦しんだのが原因だが、夢ばかり見るようになったのは現実が嫌になったからであることは間違いがない。
私は現在、職場で、ある女性職員からいじめられていて、その人ひとりのために、腹立たしい思いをしている。彼女はパート職員で、私は正規職員で年齢も勤続年数も私の方がずっと上なのだが、上司に私がいじめられていることを報告しても、「大人の対応を取ってください」などと言われた。私は怒ったりしないのだが、そろそろ限界である。彼女は私より十五も年下なのだが、叱りつけることも大人の対応なのだろうか?私が怒らないから彼女は嫌がらせをしてくるのだろうか?いじめられる方にも原因があるなどとよく言うが、それはいじめる側の見解である。いじめられて苦しんでいる人には、反省するゆとりはない。現にいじめで被害を被っているのはいじめる側ではなくいじめられる側であるのは火を見るより明らかである。それにしても彼女は三十歳くらいで、高校生のロック野郎とは違い、もういい大人なのである。それがあのような陰湿ないじめをするのはどんな精神構造なのかさっぱりわからない。
尾崎豊が、四十代、五十代になっても詞を書いていたら、どんなことを言っただろう?
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