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言葉の牢獄

答えは言葉で出せるものなのか?

哲学的な追究では、言葉の外に出ることはできないのではないか?
 
アリストテレスも言っているが、言葉を一言発しただけで、その言葉についてほとんど無限に、批判を受けることになる。
言葉を発しなければ、その態度や言葉を発しないこと自体に批判が来るかもしれないが、哲学史においては、言葉を残さなかった哲学者の思想は無かったことになる。
哲学を歴史上に残すとなると、必ず言葉を発しなければならない。
哲学は言葉でできているからだ。
 
思想とは哲学よりも幅が広いものとされている。
その中には文学も含まれるだろう。

ゲーテは哲学書を読む詩人だったが、いつも哲学の外から、哲学を批判してきた。若い頃は人生は恋愛だ、とか言って女を抱いていたらしい。
禁欲的な哲学者からは羨望の的だったに違いない。

時代を超えて、女がいなかった哲学科の学生の私もゲーテを羨ましく思った。
私は女を手に入れることに専念すればできたに違いないと思う。
しかし、それだけでは平凡な若者だと思った。
私は文学や哲学、芸術などで成功し、その上で恋愛がしたかった。
だから、それを実現しているゲーテは羨望の的だった。
 
私はわかっていた。
哲学で人生の答えは出ないということを。
 
私にとって哲学とは、芸術家になるために必要な教養であり、哲学で真実を見つけたいなどとは、もともと思っていなかった。
マンガ家になりたい、小説家になりたい、そのような夢、アメリカンドリームを叶えるために必要な教養に過ぎなかった。
別に才能があれば野球選手でもサッカー選手でもなんでも構わなかったのである。
たまたま、マンガ家を選び、それには知識が必要だから、読書したに過ぎない。
画家や音楽家になりたかったら、知識に対して別のアプローチをしたに違いない。
そして、マンガ家を諦めても、その知識へのアプローチは小説に生かせそうだと思い、小説家を目指すことになった。

小説は言葉を使うが、哲学とは言葉の使い方が違う。
脳の使いどころが違う。
哲学みたいな小説を書く作家もいるが、私はそのような小説を書こうとは思わない。

あのゲーテも、『若きウェルテルの悩み』という小説でデビューしたはずだ。
哲学は論理で真実を追究するが、小説はそうではない。
哲学よりも自由であると思う。

私は哲学科の学生だった頃、いつも独りだった。

あるとき、独りで夜の繁華街の裏通りを歩いていたら、同世代の男女のグループが酒に酔って、大きな声で騒ぎながら歩いているのを見た。
中には酔い潰れた女を負ぶっている男がいたりした。
それを見て私は思った。
「あれが青春だ。あれが人生だ。俺は何をやってるんだ!」
しかし、私は自由になれなかった。
 
すでに言葉の牢獄の鍵は固く閉ざされていた。
何をやろうとしても、頭の中で自己批判の声が聞こえた。
一挙手一投足に批判が集まった。
私は結局哲学書を読むしかなかった。
まるで手枷足枷をつけられ、囚人のように独り哲学書を読むしか。
 
あれから二十年以上経った。

まだ、私は独身で小説家を目指している。
 
しかし、あの哲学の牢獄からは抜け出したように思える。
もう哲学書など何年も読んでいない。
そういえば、マンガも十年くらい読んでいない。
 
マンガ家を目指していながら抜け出したかったマンガ的思考。
哲学書を読みながら、抜け出したかった論理的哲学的思考。
今は両方を抜け出している。

もしかしたら、小説的思考も抜け出すべきものかもしれない。
しかし、小説は私の夢の途中で、人生を賭けたものだ。
そう簡単に捨てられるものではない。
 
人生の真実とは哲学のように論理的に言語化するものではない。

と言ったところで、この文章も言葉を使っているゆえに、哲学者は言葉で批判をするだろう。
昔の私もそうだった。
 
しかし、ゲーテに嫉妬したことは確かだし、裏通りを酔って歩いていた若い男女のグループを見て、「あれこそが青春だ、人生だ」と思ったところに人生の真実はある。

「これが人生の真実だよ」

そう示すのは言葉ではなく、生き様で示すべきものなのだ。

人生を生きるには言葉の牢獄の外へ出なければならない。

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