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【超短編小説】もう、厭なの急

 労働と言うものに対して具体的な想像を持っていなかったにせよ、まさかスーツを着ないでシフト労働に従事するとは思わなかった。

 そもそも社会と言うのは多かれ少なかれシフトが組まれた体勢で回る事を前提としている。
 9-17時の労働などと言うものは存在しないと言うのは労働に接してみて初めて理解するものだ。
 そうやって自身を納得させながら、まだ暗い道を自転車に乗って職場へと向かう。

 朝は垂直にやって来ない。
 水平にやってくる。だからまだ終わらない夜の中を仕方無しに進む。
 吐く息が白い。
 夜中は既に秋の深い懐の中だ。

 路面の細かな感触を拾うタイヤ、スポークからハブに伝わりベアリングが笑い声を立てて激しく回転する。
 賃労働について考えるのが馬鹿馬鹿しくなる瞬間のひとつだ。
 その快感に身を任せて大通りを東へと向かう。

 通い慣れた道を軽快に行くと、見慣れた交番の前にあるゴミ集積所に人がいるのを見た。
 別に深夜だろうが早朝だろうが、ゴミを捨てにくる人間はいるだろう。そこに誰がいても何の不自然さも無い。

 だがその影はゴミ集積所にうずくまり、何かごそごそとやっている様子だった。
 ゴミを漁っているのだろうか。
 厭なものを見た、早く通過してしまおうとペダルを踏み込んだ瞬間だった。

「もういやなの」
 ゴミ集積所にしゃがみ込んでいた女が叫んだ。
 驚いてハンドルを切ってしまい、スレスレを通過したトラックにクラクションを鳴らされた。
 咄嗟に後ろを振り向き
「驚かすな馬鹿野郎」
 と怒鳴りつけた。

 そこに女が存在していたかは知らない。
 仮に非実在であったとしても、あれから遭遇していないのなら問題は無い。
 危うく事故を起こしかけたんだ、冗談じゃあない。
「もういやなの」
 口に出してみると、案外と悪くない響きだ。

「もういやなの」
 自転車を飛ばしながら少し大きな声で言ってみる。
「もういやなの」
「もういやなの」
 労働なんてごめんだ。通勤もいやだ。
「もういやなの」

 いつしか叫んでいたが、誰もこちらを気にしなかった。
 

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