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富嶽・ツァーリボンバ・百景

 「手をつないでもいいですか?」
 カウンセラーに訊いた航空自衛官の手は震えていた。最後にそうやって俺の手が震えたのはいつだ?5月だと言うのに帰らない冬将軍はタチの悪いOBの様だったが震える程の寒さでは無かった。地獄でもあるまいに。寒い地獄と言うのは聞いた事が無いが行った事のあるやつは教えて欲しい。だがそれは生きていると言えるか?俺には言えない。
 覚えているか?茨城の海岸に巨大な風車が回り続けているのを!俺はよく覚えている。登りゆく朝日に向かって幾匹もの虫が飛んでいった朝だ。つまり朝が死そのものだったんだ!
 府中も調布も嫌いなら勝手にしやがれ。武蔵野はクソだ。喫煙所が無いからな。地球は大きい灰皿と言う事か?ジャン・ポール=デルモントがくちびるを撫でる。ボルサリーノの帽子が風に飛ばされる。そうだ、こんな死に方をするつもりはなかった!あまりにも馬鹿げている。
 俺の好きだった女はよく知らないカメラマンに記念ヌードを撮られたらしい。ルンタッタ、大丈夫だ。既にそいつはどこかの絵描きに抱かれていた。干潟に立つ女。テトラポットの上に立っている気まぐれな女は波に飲まれて死んだ。社会の荒波だ。嗤えない冗談だ。
 ある日のことだ。男の腕の中で眠る女の腕の中で眠っていると、男は俺の頭を踏みつけた。
 怒りと言うよりは驚きと嫌気がさして離れたよ。昔からそうだ。悪意とか敵意とかに対しては驚きしかない。自分のそれを他の人間に向けないように生きていても他人は遠慮なく俺の人生を蹂躙する。蹂躙する権利があると思っている事に驚くしそんな人間と関わってしまった事に対して嫌気がさす。
 部屋を出ると藤沢の西日がゆっくりと群青色のベールを引っ張っているところだった。空が不愉快なグラデーションを作りながら地動説を叫んでいるのを曖昧な気持ちで眺めていた。朝は死そのものだが夕方は惨めさの塊だ。ファン=ゴッホの星月夜は煮詰まって焦げついた惨めさそのものだ。
 だからみんな死ねばいい。
 数万年前に俺たちの祖先が馬鹿げたピクニックをした所為で現在こうして不愉快さを頭蓋に反響させながら歩く羽目になっている。呼び出された新宿の喫茶店で男と女が俺を見ながらニヤニヤ笑っている。逆光。ゴミ溜めに生まれたレンブラントだってあんな醜悪な笑顔を描く事はできない。俺は机にクソをして帰った。ニヒルだろ?コピルアクを飲んだ事は無いが少しニンニク臭いかも知れない。家系コーヒーだ。咲き誇る花は散るから美しい。盛られたラーメンは完まくされるからこそ美しい。
 さらば俺の人生!海!月!地球!銀河!円環は閉じる!ドーナツは曼荼羅だ。そのドーナツの形をした錘に数字が刻んである。それはその大きさのドーナツに相当するカロリーを消費する為に持ち上げる回数だと説明に書いてある。虚無そのものだ。
「あなたを好きになった人を好きになっているだけじゃん」
「自然発生的にお互いを好きになる神話を信じているのか?」
 俺たちの祖先がピクニックをした頃の光が今の世の定めを俺たちに告げる。信じるも信じないも俺たち次第だ。きっと彼女は今頃ラフォーレにでも行って赤髪と眠る。俺は色んな悪夢を信じ過ぎた。お好み焼きを食って吐き出したもんじゃを食っている様なものだ。
 女。唐突に現れる救い。女。手を差し伸べる女!その女の視線だとか微笑み、俺に話しかける声は俺の人生を肯定するのに十分だったし存在を正当化するのに十分だった。俺はそうやって与えられた快楽の中で溺れて死んでいくミトコンドリアだ。俺の愛はそうやって与えられた優しさに対する感謝であって返せるのはコミックス全巻だったりホテル最上階のレストランだったりする。だけど結局はどちらも燃やすか飲み込むかすれば終わる。
「生まれてきちゃったね」
「お恥ずかしながら」
 手に入らないものが好きなんじゃない。手に入らなかった過去が好きなんじゃない。手の中にそれしかないから握りしめているだけだ。ガキの手の中の昆虫が弱っていくようにそれだってとっくに腐っている。朝を迎える必要も無い。
「生まれるところからやり直せ」
 夜を迎えに行く。
「歯並びが悪い」
 名前の曖昧な女の肩についた歯型を見ながら呟く。女はボンヤリとしていた。それは現実だ。祈りは通じない。労働は祈りじゃない。俺はプロテスタントじゃない。労働者だ。自由は無い。俺たちに自由は早過ぎた。
 ゴーポスタル。俺たちにはそんな自由が無い。
 月曜日が嫌いなだけ。俺たちにはそんな自由が無い。
 自由からの逃走。だからその手を放してくれ。
 いや、俺はその背中を押す。
 細長い顔をした新幹線が滑らかにホームにやってくる。
 結局のところ俺はディズニーランドに行かない側の人間だ。考えておくと言って返事を保留したままにしてある約束未満のそれは宙ぶらりんになって消えていく。何故なら彼は気が狂っているから。一緒にいる俺が恥ずかしいから。
 新幹線に乗り込むと椅子に座る前に喫煙室に入る。乾燥した空気が静かにかき回されている。燐寸を擦ってショートホープに火をつける。煙が目に沁みる。
 本来なら車で行くべきなんだろうがそれは恥とか外聞と言った格好つけの問題でもある。そもそも俺の精子を抱えた女を連れ戻すかすら決まっていない。
 なんの話かと言えばこう言うことだ。安全日だと言うので避妊をしないでセックスをした。すると女は翌朝に姿を消していた。実際の肉体的な問題として困るのは女の方だ。追いかける必要も無い。だが俺は今こうして新幹線に乗っている。
 俺が何を確かめたいのかはわからない。新幹線は静かに長い廊下を走っていく。その廊下に点在する畑と家。窓の外を流れていく景色はセックスの匂いが濃厚だった。気が狂いそうになる。俺は狂ってなんかいない。だからまだ狂う余地がある。
 よく見てみろ。全ての窓にセックスが映っている。俺が愛した女たちと俺が憎んだ男たちのセックスだ。お前が愛した女とお前が憎んだ男たちのセックスだ。愛した女の幸福を願うのが優しさだと言うのなら俺は優しさなんて要らない。俺に必要なのは記憶の彼方へと飛んでいける長距離爆撃機と全てを焼き尽くす爆弾だ。または拳銃や日本刀と言う現実だ。俺は新幹線の窓から見える数々のセックスやその恥ずかしさに泣き崩れた。鼻血を流してると隣の席に座っていたストライプスーツの男がティッシュをくれた。男の世界とは優しさの事だ。裏切られた青年たちの優しさだけがこの世界を作っている。
 でも俺は預かっていた子どもの背中をそっと押したんだ。子どもの身体が大型トラックに巻き込まれて車体の下で跳ねて回る。思ったより血は出なかった。遅れて急ブレーキがかかり誰かの悲鳴が聞こえる。頭痛が止むかと思ったけれどそうでもなかった。あの日に踏みつけられた痛みは死ぬまで続くんだろう。彼の子どもがこうして死んだところで彼の頭が痛くなる事はないだろう。とても不愉快な気持ちだ。この不愉快さは死ぬまで残り続けるだろう。同級生が死んだ翌日に「月毎日のお参りをしよう」と言った彼はもうその命日すら覚えていないだろう。きっと子どもの月毎日すら弔えない。口先だけの奴は不愉快だ。
 俺が女の中に放出した精子の中には俺の不愉快さが残っていて仮にあの女の卵子と結合した時にその不愉快さは遺伝するのだろうか?俺の歪な歯並びの様に。神経性線維腫症やアトピー性皮膚炎の様に。それとも成長する過程で不愉快さが刷り込まれていくのだろうか?そして不愉快さの輪廻が脈々と受け継がれていくのだろうか?だとすると俺の中にある不愉快さは父親や祖父に由来するものであって、遡っていくと地球に生命が誕生したその瞬間にまで巻き戻るのか?その不愉快さと言うのは希釈されるどころかどんどんと濃度を増していく。煮詰められたホモサピエンスの憂鬱。彼らにも俺にも幸福な瞬間があったはずだがもう思い出せない。不愉快さと言う黒いシミは幸福と言う白いキャンバスに広がって全てを台無しにしていく。人間たちは他人のキャンバスに黒いシミを飛ばし合って生きている。自分のキャンバスが真っ黒になる前に他人のキャンバスを真っ黒にしてしまえば勝ちだ。真っ黒にされた奴は六方沢橋だとかから勢いよくリインカーネーションをする。生きている事は苦しむ事だと考えて、もう二度と生まれてくる事の無いようにと願いながら飛ぶ。
 甲州街道の信号は全部青かった。だから話は通じると思った。それだけで十分のはずだったし返事が来るのは確実だった。彼を狂っていると言った俺も十分狂っているかもしれないが、正気でいられるほどの運を持ち合わせている奴がどれだけいるか考えてみて欲しい。バイクが嗤う。中央線が走る。
 そこにその女が実在する必要は無い。峠の茶屋で婆が掲げた写真の様に俺の手の中で腐って死んでいく女たち。あいつらが死んでいるのと同じならばそれ以上の変化はしない。どうせ約束も守られないなら生きているそいつらより手の中で死んでいく記憶の方が良い。俺が生きている限り腐りきる事は無い。蛆の湧いた記憶を眺めて笑う。地獄の火の中に投げ込む者ではない。いや、俺はその女に焼き殺されたいんだ。
 新幹線の窓からツァーリボンバが落ちていくのが見えた。
 府中が焼け野原になった。
 預かった子どもは静かに眠っていた。
 ブレーキ痕は宇宙の様に黒かった。
 俺が飛ばした赤いシミが広がる。
 踏まれた頭はずっと痛いままだった。
 富嶽は飛ばなかった。
 女は俺の出した不愉快さを抱えたままだった。
 日出ずる国の処。盗まれた太陽。止まない頭痛。個人的な憂鬱。
 それは何だ?横倒しになった150ccのバイクが燃えていた。新幹線の窓から見える景色が恥ずかしくて俺は泣いた。結局のところ俺は自分勝手で空っぽなんだと理解した。早く朝が来ればいい。

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