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ジョナサンは光に向かって飛んだ訳じゃない

 ジョナサンは光に向かって飛んだ訳じゃない。
 その速度は何のために在るのかは彼自身にもわからないし、もちろん俺にだってわからない。でも俺が乗っているこのツーストロークで走るバイクがどこに向かうかは明確だ。俺はジョナサンじゃないしジョナサンにもなれない。それにツーストロークのバイクは速度の限界がある。そして湿度の高い粘性の空気を押し退けて走った先にあるのは単なる疲労だ。
 仮に光の射す方に走ったとしよう。
 そう、例えばディズニーランドの巨大なアーケードに立てられたクリスマスツリーの様な、概念としても物理的なものとしても強力な光があって、そこに向かって走ったとしよう。見る者すべてを幸福にして見せると言う自信に満ち溢れたその光に向かう。誰もいない遊園地を走り回るツーストロークのバイクから手を放してその光に身を委ねる。仮に俺はその光に包まれる権利を持っていて、ハンドルから手を放したバイクがそれでも真っ直ぐ走るのだとしても、俺がひとりなのであればあまり意味は無い。
 幸福とは誰かと共有する事で初めて価値を持つ。ひとりで得られる幸福とは果たして幸福と呼べるのか俺には分からない。
 だから手を伸ばしてくれ。俺の手を引いてくれ。
 ツーストロークのバイクは咳き込む様に走る。俺は引き付けを起こした様にペダルを踏んでギアを下げる。俺の手はハンドルから放れていない。俺の手を引く手は無い。エンジンの回転数が上がり甲高い声を上げる。俺は再び引き付けを起こしたような動作でペダルを蹴り上げてギアを上げる。細いタイヤは何かを轢いていく。光に向かって飛ぶ虫とかジョナサンとか、影だとか。
 そう。光を踏みつけて走る反対側の影も足から放れる事は無い。
 ツーストロークのバイクは警告灯が点けた。オイルが切れかけている。エンジンが焼け付く前にどうにかしなきゃならない。俺はジョナサンのフリをやめた。俺はどこへも行けない。光には届かない。速度は下がっていく。ギアを下げる。バイクが止まる。光は止む。影は離れない。一人乗りのバイクは小さな影を落とした。
 例えばこのバイクのエンジンが焼き付いてもう走れなくなったとしたら、新しいバイクを買えば済む。でもそれは物質的な話でしかない。このバイクで走った道だとか轢いた虫だとか押し退けた風や空気だとか引き離した光だとか突っ込んでいった影だとか、そういったものは買い替えたバイクには付随しない。物質は単なる物質でしかない。
 俺が失ったものは何なのか指折り数えたところでそれを取り戻せる訳が無い。
 煙草に火を点ける。煙が細い影を落とす。
 小さな光が消える。短い希望が燃え尽きる。
 煙草だって物質だ。だが燃え尽きる度に記憶だとか価値だとかの話はしない。新しい煙草の箱を買う。それだけで済む。その違いは何か俺にはまだわからない。新しい煙草を買って火を点けて吸い込み煙を吐き出す。その度に積み上げられる記憶があり、新しく買う煙草に価値が積み重なっていく。
 ひとくち吸わせてくれとせがむ唇に押し当てた指を焼く小さな火、短い希望。乾いた部屋を掻き混ぜる空調の風に揺れる煙。閉じたカーテンの向こう、知らない街、斜陽、希望だとか後悔だとかが横たわる。吐き出した煙が落とす薄い影。灰皿に押し付ける煙草の先にある小さな光。短い希望。
 すぐに終わる。そう、光は消える。

 どこまでも遠くに広がる青い空に山のような入道雲がその大きなからだを四方に伸ばしている。それを背景に立ち並ぶマンションを眺めながら何階から落ちれば確実に死ねるだろうか、と考えていたが検討している間に新幹線の窓は薄汚れた空のビニールハウスとソーラーパネルの畑を写していた。
 新幹線の窓は開かない。

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