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村上春樹さんの短編『タイランド』を読む。

主人公のさつきはアメリカで一流のキャリアを築いてきた病理医(研究医)で、彼女は更年期という人生の乗り越えの時期を迎えています。ただし、彼女は研究者ゆえ診療経験はなく、機内で病人が出たときに、自分は街の古参の診療医たちに適わない、と引け目を感じてもいます。また、彼女は結婚に傷つき、そのうえアメリカでは何者かに自分のホンダ Accord の窓ガラスを割られ、ヘッドライトを叩き割られ、ボディにJAP CAR とペンキで書かれて以来、さつきはもう日本へ帰ろうとおもっている。なお、さつきが Accord (450万円ていど)を選ぶのは彼女が見栄よりも実を取るタイプであることがわかると同時に、小説修辞的には、その事件によって〈彼女の人生のAccord 調和が破壊された〉ことを意味しています。



彼女は世界甲状腺会議に参加するためにタイへ来ました。なお、甲状腺はホルモンを分泌し、そのホルモンは新陳代謝を促進させ、脈拍数や体温、自律神経などの働きを調節し、エネルギーの消費を一定に保つ器官です。甲状腺ホルモンの機能は代謝に重要でしかもあらゆる細胞を動かしています。なお、甲状腺ホルモンの機能を健全に保つためには運動が必須です。彼女は水泳を欠かしません。ただし、彼女は研究者としては甲状腺の専門家ですが、しかし彼女の一流の医学知は更年期を迎えた彼女の体も魂も救ってはくれません。


世界甲状腺会議はさつきにとって仲間たちとの再会でありとてもリラックスできてたのしいものだった。さつきは会議終了後も一週間ばかりタイで骨休めをする。タイの街は猥雑で空気は汚く、人々は怒鳴りあい、クラクションが空襲警報のように空気を切り裂く。そのうえ街中を象が歩いています。まさにカオスです。ニミットがさつきを乗せて高速を走るとき、カーステレオから I Can't Get Started が流れます。 彼女にとってジャズは懐かしい父のおもいでとむすびついています。ここではインストゥルメンタルですがもともとは歌で、いろんな歌手が歌い継いできました。



ざっとこんな歌です。「わたしは派手な人生を送って来た、世界中をまわり欲しいものはなんでも手に入れて来た。ゴルフの腕前はプロ並み、映画の主演依頼もたくさんくる。英国王室にだって謁見できる。そんなわたしはあなたに夢中になった。でも、あなただけはおもいどおりにはならない」



この曲(歌)はさつきが研究者として一流のキャリアを持ちながらも、しかし、恋愛にだけはめぐまれなかったことと呼応しています。そのうえさつきは神戸にいるある男に悪意を抱きつづけていることも伺えます。どうやらその男はかつてのいさつきの伴侶で、さつきに生まれるはずだった子の命を損なったらしい。しかも離婚訴訟においてはさつきがコドモを持とうとしなかったことを離婚理由にあげた。男がいかに欺瞞的だかよくわかります。さつきはこの男が地震によって「一家が一文なしで露頭に迷えばいい」とおもっています、「わたしにしたことの当然の報い」として。


さつきのしもべとしてタイを案内するニミットという男の名前にはなにか意味があるだろうとぼく(ジュリアス・スージー)はずっと睨んでいました。さいきん知ったことには、ニミットというニックネームは仏教用語のNimitt に由来しているそうで、「瞑想用語としてよく使われ、心の中に生じてくる種々のしるし、記号 という意味がある 」そうな。( このことはタナポーン・トリラッサクルチャイ氏が指摘されているそうで、ぼくはダルミ・カタリン氏の 村上春樹「タイランド 」論 を通じてそれを知った。 )



ニミットはさつきを霊能者に案内します。霊能者たる老女は彼女に告げます、〈夢のなかであらわれる蛇をあなたがつかめば蛇があなたの石を飲み込んでくれる〉。石とはなんでしょう? おそらくはさつきが抱え込んでいるかつての伴侶への悪意、あるいはわだかまりでしょう。ニミットは言う、〈あなたはゆるやかに死ぬ準備をしなくてはならない。〉それはいったいどういうアドヴァイスでしょうか? さつきに尋ねられてニミットは答えます、「わたしはもう半分死んでいます、ドクター。」



小説内に書かれていることではないけれど、タイは仏教国ですが、同時にヒンドゥー教ともまじりあい、さらにはタイの仏教は輪廻転生を重んじ、過去にあなたがどんな生を生きたか、あなたがどんなカルマをもっているのか、そしてあなたの未来もあなたの生き方によって変わりうると考える。そしてまた仏教において死は、「岸辺に打ち上げられた波が深くて広くて果てしない大海に帰っていくように、静かな本来の世界に帰っていくこと。涅槃、すなわち死の国は寂静であり、すべての意味づけを必要としない世界」です。だからこそタイ人は霊魂や精霊とともに生きています。しかもタイは、クメールルージュによってむちゃくちゃにされた地獄の時代を乗り越えて、いま現在がある。


この小説は、五十歳を越えたら死を受け入れながら生きてゆくことを勧めます。そして、「言葉をお捨てなさい。言葉は石になるから」というニミットのせりふが効いています。小説の末尾でさつきは I'll Remember April をおもいだす。この曲ももともとは歌で「いま自分はひとりぼっちだけれど、わたしはかつて幸福だった四月をおもいだす」という歌です。さつきの心がふたたび人生と和解しつつあることが暗示されます。



なお、この短篇は『神の子どもたちはみな踊る』(英訳題 After the quake )に収録されています。オウム事件の後であるとともに、阪神淡路大震災の後でもあった時期の日本人の心の動揺を描いている連作短編集です。なおアメリカでは911の後に出版され多くの共感を得たそうな。



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