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わかるとわからないの、あいだ。自分のことも、あなたのことも。ホン・サンスの映画『川沿いのホテル』

モノクロ映画のスクリーンに、雪が降る。初老の詩人が、自分はもうすぐ死ぬんじゃないか、とおもう。かれはかれがかつて捨てた妻のもとに残したまま去ったふたりの息子に連絡を取り、かれらを自分が投宿している川沿いのホテルに呼び寄せる。そんなことするんじゃなかった、とすぐに後悔するのだけれど。



そのホテルの別の部屋には、若い女性ふたりが投宿している。ひとりの女は手首にガーゼを巻いている。どうやら彼女は男に絶望し、命を断とうとしたらしい。もうひとりの女は、彼女に寄り添い、包容力をもって彼女の心を慈愛で包む。



初老の詩人は、ホテルの外で出会ったふたりの女性をまるでミューズのように無邪気に讃美する。この老詩人はまったく懲りていない。



やがてふたりの息子(すでに中年)が初老の父に会いに来る。かつて父親に捨てられたふたりの息子にわだかまりがないわけがない。ただし、映画は努めてエアンシーンワンカットで淡々と進む。Anyo ase-o と挨拶が交わされ、Kam sa hamunida とお礼の言葉が交換される。



初老の詩人には詩才が宿っているでしょう。ただし、おそらくそれは傍迷惑で強烈なわがまま(自己中心性)とともにあって。ただし、けっして映画はそこに踏み込みはしない。また、一度は自殺をくわだてもした若い女が、どんな性格でまた彼女がつきあった男がどんな男だったのかについても同様に、映画はなにひとつ語らない。



いまだけがここにある。人はみないまのなかに投げ込まれていて、過去は(ほんとうの編集者が誰なのかもわからないままにいつのまにか)編集された物語に過ぎない。過去は存在ではない。また、自分のことを完全に理解できるというのはうぬぼれだろう。もちろん相手のことだって、わかるとわからないのあいだみたいなもの。



しいてこの映画の態度を言葉にすれば、禅的と言えるかもしれない。マッコルリ、テンジャン・チゲ、スンドゥブとともに描かれる禅的世界。しかし、その禅という言葉さえも実は余計なもの。禅が意味になってはモトもコもない。



Hong Sang-soo監督によるこの映画、HOTEL BY THE RIVER。静かで、俗っぽく、上品だ。





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