変人たちの、幸福の作り方。

対価を求めず、人のためになにかをする。相手がよろこぶ顔を見ると自分もまたうれしい。しかも、うれしさが循環しはじめると、幸福はさらにいっそう大きくなる。奉仕、ヴォランティア、あるいは贈与、そこには大事な、人生の秘密がありそうだ。


都市で暮らしていると、なにをするにもカネがかかるもの。カネがなくては生きてゆけない。(もしも田舎ならば、自分ちで採れた野菜をただであげたり、もらったりすることはあたりまえのこと。しかし、都会でそんなことはありえない。)したがって、都市民はどうしてもカネをかせぐことにあくせくしてしまう。もしも心がすべてなら、愛しいおカネはなんになる??? なるほど、もしも極貧に落ち込めば、人格を保つことさえもかんたんではない。ただし、それはいかにも極論ではあって。ちょっと視点を変えると、別の世界が見えてくる。カネと無縁な、ただひたすら幸福の循環が。



ぼくがまず最初におもいだすのは、大森の南インド料理店ケララの風、オウナー・シェフの沼尻さんのことだ。沼尻さんがまだ商社マンだった頃のこと。かれはアマチュア南インド料理人として、インターネットで告知して、南インド料理に興味がある人を集め、公民館そのほかで参加者実費の食事会を開催し続けたものだ。プロの料理人たちは呆れたものだ。たとえ実費だけとはいえカネ払ってしろうとの作った料理を食べて、なにがうれしい? ところが、これが参加者たちをよろこばせた。参加者たちは、みんなで沼尻さんの作った料理を食べてたのしむのみならず、買い出し、調理補佐、皿洗いでさえ楽しかったものだ。そこに幸福を振り撒く男、沼尻さんがいたから。こうしてファンは増え、沼尻さんの料理も回を重ねるごとに上達し、主催の食事会は2000年から2006年までの6年間で北は北海道から南は九州沖縄まで260回、参加者はのべ6000人にものぼった。その後沼尻さんはレストラン、ケララの風を開き、一流の南インド定食屋料理をふるまっています。沼尻さんの作ったドーサ、ワダ、チャトニは最高だ。


次におもいだすのが、ぼくらがベンガル・サトウと呼んでいた佐藤さんのこと。ベンガル・サトウは国分寺の瀟洒なマンション、15世帯のオウナーでその一室にかれも住んでいた。沼尻さんが食事会をやってらした時期、ベンガル・サトウは調理補佐をしていたし、また、週に一回板橋区役所前にあったバングラデシュ料理のルチでヴォランティアで給仕もしてらしたものだ。(もともとかれは若かった頃、アジャンタで働いていたゆえ、レストランの仕事はプロだった。しかもルチにはタニアさんという美女がいた。ベンガル・サトウがルチを好きにならないわけがない。)そしてベンガル・サトウは週末にかれが好きな人たちを招待して、かれが作ったインド料理をふるまう会をざっと20年以上、持ち続けた。会費一回1000円、ベンガル・サトウはプロより巧いアマチュア料理人、おまけにビール飲み放題。映画鑑賞や、武蔵野散歩などのオプションがつく日もあった。招待客たちは誰もが自分自身であることを存分に楽しんだ。とうぜんベンガル・サトウはマンションの住人たちから「カレー上手な大家さん」としてしたしまれ、またもちろんかれが選んだたくさんの招待客たちからも好かれ、いかにも幸福な人生を生きた。


もっとも、当時沼尻さんは商社マンで、ベンガル・サトウはマンションの大家さん。ふたりとも比較的裕福だった。けれども、似たようなことは誰でもできることではあって。たとえば、あの時期トルコ料理を愛するおうさるさんは、IT関係の仕事のかたわら、持てあますほどのトルコ料理愛にせきたてられて阿佐ヶ谷のトルコ・レストラン、イズミルでヴォランティアで週一回給仕をしてらしたものだ。


実は、ぼく自身もまた近所づきあいのなりゆきで、2014年の春から2019年末まで西葛西の南インドレストラン某店で土日のランチブッフェの店頭黒板に料理名を書いたり、料理に添える料理名を書いたりしたものだ。また、2022年の6月からいま現在なお別のパンジャビレストラン某店で土曜のランチブッフェで同様のヴォランティアをしています。両店ともにインド人経営のレストランゆえ、日本語ができる人間がひとりでもいると、多少なりとも重宝なもの。ぼくはヴォランティアの代価として、おいしい料理をたらふく食べて、仲間に手を振り、「じゃあ、また」とひきあげる。



読者のなかには呆れる人も多いでしょう。なんて粋狂な変人たちよ。資本主義の考え方とまったく合ってない。しかし、こういう粋狂なこともやってみると、おもいがけないことに気づくもの。ぼくの場合は、レストランの仕事がどういうことかよく理解できたし、インド料理にもさらにいっそうくわしくなった。季節ごとのインドの祭事も知った。インド人の清潔好きにも驚いた。かれらが家族の大切な日には夕方まで断食することも。ちょっとした切り傷にはターメリックの粉をはたいて止血することも知った。噛み煙草の味も覚えた。しかし、もっともありがたかったことは、ヴォランティアによって、インド人たちはもちろんのこと日本人客たちにも何人ものしたしい知人を持てたこと。つまり、一見カネがすべての資本主義社会にぼくたちは生きているけれど、しかし、それとはまったく無縁の、しあわせの作り方もまたあるもの。



おもえば(ぼく自身は親になった経験こそないけれど)育児もまた贈与であり奉仕、つまりヴォランティアですものね。この件について、ぼくはもらもらいっぱなしだったことになる。ところが、かつて若かった頃ぼくは年長者になぐさめられたことがある、「人はみんな三歳までに親をいっぱいよろこばせているのよ」。なるほど、コドモはたいていかわいいもの。信じられないことながら、ぼくにもそんな時代があったらしく、ぼくは親にさんざん世話になりながらも、同時に親をよろこばせてもいたでしょう。もっとも逆に言えば、その言葉はぼくがいわゆる親不孝者であることを前提としたなぐさめではあって。ぼくはよろこんでいいのか、哀しんでいいのか、わからなかった。


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