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ベンガル・サトウ。最高のインド料理人は、ただ愛する人たちだけのために、自分の料理をふるまった。

夜明けまえに目が醒め、窓の外を見ると路上が濡れていて、ぼくが眠っていたあいだに雨が降っていたことを知った。PCの電源を入れ、メールボックスを開くと、とてもひさしぶりにやすのさんからメールが届いていた。そしてぼくはベンガル・サトウの死を知った。おもえば些細ななりゆきでぼくはかれともう十年以上、音沙汰がなかった。かれは8月末から膵臓を悪くして、闘病生活の後、2023年11月4日午前2時32分に永眠した。享年66歳。


ベンガル・サトウ、その名は愛称で本名は佐藤隆、かれは亀岡出身の純然たる日本人。優しい笑顔の似合う、背の高い男だった。いつもこざっぱりな着こなしで、クリーニング屋を利用する習慣を持ち、ちょっと特別な日にはアルマーニをさりげなく着こなした。かれは一流のインド料理人でありながら、しかしかれはシャイな人柄と欲のなさによって、レストランを開くこともなく、国分寺の白く瀟洒なマンションのオウナー兼大家さんとして生きた。たしか15世帯のマンションで、そのうちのひとつにかれもまた住んでいた。かれは「カレー上手の大家さんとして」住人たちからも好かれていた。夏には、「草取りが大変ですよ」とこぼした。


なによりも語るべきことは、かれのインド料理である。かれはかつて若かった頃、アジャンタで覚えたインド料理を基礎に、中年期になってあらためて独自に発展させ、00年代の半ばから、週末ごとにかれが愛する人たちだけを集め、マンションの部屋でかれのインド料理をふるまった。ちょうど2004年に登場したmixi が大人気になって、人と人が出会うことがただひたすらハッピーだった時代でもあった。誰もがPCをADSLで使っていて、まだスマートフォンも存在していなかった。



ベンガル・サトウが作るインド料理には気品があった。茹で上げたバスマティライスは細長く伸び純白に輝き、ほのかな香りを放っていた。ダルがまた濃すぎず薄すぎず、美しいターメリックカラーでありクミンの香りを優美にまとっていた。「サツマイモのコザンブ」がまたタマリンドの酸味とサツマイモのほの甘さをスパイスで輪郭づけていてその風味のバランスが絶妙に魅力的だった。(なお、料理名は正しくはタミル語のコロンブなのだけれど、しかし当時はコザンブというまちがった読み方が流通していた。そんなことさえもぼくは懐かしい。)細かくダイスカットされたナスやじゃがいものスパイシーフライもおいしかった。揚げたてのワダはふっかふかで最高だった。砂肝のマサラもスパイスの味わいが深くおいしかった。マトンカレーにいたってはほどよい辛味のキレがあって、それなりにオイリーで、マトン片はカレーのなかでスパイスを染みわたらせ微笑みつつ、それでいて肉のうまみをグレイヴィーに提供してもいて、ひとつの優美な世界が香り高くできあがっていた。輝くばかりの完成度、マトン・カレー界のメルセデス・ベンツだった。


かれの調理は緻密だった。毎回十品の料理には、一品ごとにそれぞれ正確にスパイスが調合され、ターメリック、クミンパウダー、レッドペッパー、コリアンダーパウダーなどが違った比率で白い陶製の小皿にそれぞれ盛られ準備されていた。かれはけっしてインド人料理人の目分量の粗っぽさにあこがれたりはしなかった。これもまたプロの在り方だった。(なお、ある時期までは、たしか干し鯵のジョルかなにかの一品だけいたずらっぽくナイルレストランのインデラカレー粉が使われた。)かれはステンレス製の箱型スパイスボックスを使っていた。四角い箱のなかには小さな四角い箱が8個収まっていて、色とりどりのスパイスと純白の海塩が並んでいた。かれが使うオイルのなかにはマスタードオイルもあって、効果的に使われていた。かれの包丁は長短2本、いずれも上等でそれなりの重さがあって、ていねいに研いであって、長年使いこまれ刃渡りはかなりちびていた。かれのキッチンはいつもぴかぴかだった。



若かった頃かれはコーヒーの焙煎の仕事をしたこともあったらしい。コーヒーの香りに好みがあった。かねがねからかれはいたずらっぽい顔で、ぼくにコーヒーの好みのあるなしを知りたがったものだ。かれの趣味に適うような趣味がぼくにあるはずもない。ぼくは言った、「しいて言えばトラジャかなぁ。」するとかれは言った、「トラジャですか! あれはどくとくな香りですね~」まるでベンガル・サトウは脳内でトラジャの香りを味わっているかのように微笑んだ。


いつだったかかれは洒落でサンドウィッチを作ってみせてくれたこともあった。サンドウィッチもまた惚れ惚れするほどプロの美しい仕上がりだった。余談ながら、ぼくもまた洒落で一度だけかれのキッチンでオムレツを焼いたことがあった。かれの調理には及びもつかないぶさいくな仕上がりだったけれど、しかし、かれは褒めてくれた。「いやいや、他人のフライパンでの調理ですから、立派なものですよ。スージーさんも口ばっかりじゃなかったんですね。見直しました。」かれは優しい男だった。ついでに言えば、実はぼくは落語好きで、食事会仲間の誰かれを題材に落語仕立ての破天荒な話芸を披露したこともたびたびあった。ベンガル・サトウはまるで漫才の相方のように、いつも苦笑しながら解説を入れてくれたものだ。


ベンガル・サトウはけっして人を学歴、肩書、年収などでえり好みしなかった。かれが好きになる人は、ただその人がのびやかにその人らしく生きている人で、その人が喰いしん坊ならばますます好きになった。かれは食事会に招いた美女たちを花のように眺めるのが好きだった。音楽をやる美女たちがいた。素敵に奔放な抽象画を描く美女がいた。まるでイスラエル人と日本人のハーフのような背の高い美女もいた。かれが野鴨のように愛らしいと愛でる美女もいた。ベンガル・サトウは水木しげるのマンガが好きで、美女たちを水木マンガの登場人物たちになぞらえて、愛でた。


かれの男の好みは、頭ではなく自分の舌で食べている食いしん坊たちだった。トルコ料理好きがいた。中華料理好きもいた。当時ぼくはフランス料理好きとして目されていた。サトウさんちのご近所に住み、サトウさんの料理を大好きな、京大卒の薔薇を愛するおじいさんもいた。かれの食事会には笑いが絶えなかった。


実はかれのことをたわむれにベンガル・サトウと呼びはじめたのはぼくだった。命名の由来は、当時サトウさんが愛しかつまたたいへんしたしくしてらした板橋のバングラデシュ料理店、ルチにちなんでいる。ルチの料理はいかにもバングラデシュの定食屋らしい素朴で質実なおいしさがあって、ダルはこってりおいしかったし、ゆで卵とゆでじゃがいもをマスタードオイルで和えたサラダもかわいくおいしかった。バングラから輸入した冷凍魚を揚げた料理にも異国情緒があった。しかも、オウナーの奥様タニアさんがまた綺麗な女性だった。ルチは、美女好きのベンガル・サトウが好きにならずにはいられないバングラ定食屋だった。サトウさんはルチをサポートしながら、着実にルチの料理を学び、それをベースにさらにいっそうサトウさんのインド料理の世界を広げていった。かれの料理はつねに成長していった。


なお、ベンガル・サトウの私設食事会の仲間たちの数人はその後、インドレストランを開くことになる。インド料理好きならば、(2008年開店の)大森のケララの風の沼尻さんを愛する人は多いでしょう。もっとも沼尻さんをベンガル・サトウの私設食事会のメンバーとしてだけ語るのは不当で、沼尻さんは沼尻さんの食事会で絶大な人気を誇り厖大な支持者たちを得てもいた。また、ベンガル・サトウもまた沼尻さんの食事会のサポートだけはまめにしてらしたものだ。はたまた(2013年開店の)荒川遊園前のなんどりの稲垣さんの南インド料理を絶讃する人もいるでしょう。2014年~2023年の十年間すばらしい料理をふるまい、その閉店に涙した桃の実の瀬島さんのファンもまた。(なお瀬島さんのキャリアのスタートは、サトウさんの私的食事会における、サトウさんの二番手料理人だった。)さらには、北九州にこの人あり、2013年開店のSpice & Dining KĀLAの番長は、いまや人気のイノヴェーティヴインド料理人です。ついでに言えば、インド料理おたくのなかにはかつてジュリアス・スージーのレストラン・レヴューを愛読(?)した時期を持つ愛すべき変人たちも多少はいるでしょう。当時はみんなほぼ無名で、誰ひとりレストランを開くこともなく、またぼくの場合はレストランレヴューを書くこともなく、ただただみんなそれぞれインド料理に夢中で、みんなおたがいのことを認め合っていた。ベンガル・サトウもまたその仲間たちのなかにいて、ぼくらはみんな、優しく微笑むサトウさんを愛し、かれの料理を絶讃した。ベンガル・サトウの食事会には小岩サンサールのウルミラさんが美しいパンジャビドレスで現れたこともあった。後に麻布十番にエルブランシュなるフォアグラ自慢のレストランを開くことになる小川シェフが参加したことも。もちろんサトウさんの料理に讃辞が捧げられた。(他人の料理を褒めることがほぼない正直者のウルミラさんでさえも!)プロより料理のうまいアマチュアインド料理人、それがベンガル・サトウだった。



ベンガル・サトウはありあまるインド料理愛によって、二度死にかけた。心筋梗塞だった。以来、かれはふだんは蕎麦を食べるようになった。そしてかれはぼくをからかった、「スージーさんに似合うのは蕎麦と鮨ですよ。似合うなぁ、スージーさんには蕎麦と鮨が。どう見たってスージーさんはフレンチって顔じゃない。」後年ぼくはその言葉に潜むぼくへの愛情を理解した。そしてぼくもまた脂肪過多を警戒し、日々の食事のジャンルとその量にメリハリをつけるようになった。


かれは武蔵野の自然を愛しよく散歩をした。背の高いかれが飄々と歩く姿は単館上映の映画の趣きがあった。ぼくも何度かご一緒したものだ。ぼくははしゃいで例の落語仕立ての話芸をさんざん披露した。かれもしばらく笑ってつきあってくれたものの、しかし最後にはうんざりしてつぶやいた。「スージーさんと散歩をしても話芸ばっかり聞かされて、武蔵野の自然をまったく味わえませんよ。」


そんな他愛ないことがらのすべてが代えがたいおもいでになった。まさかこんな日がこんなにも早く訪れるなんて、おもいもしなかった。コロナとワクチンの時代の残酷を恐怖せずにはいられない。


歴史というものはべつに偉大な人物や有名になった人たちだけでできているわけではなくて。むしろ、ほんとうの歴史はぼくらのような無名な人たちによってできている。ぼくはここにベンガル・サトウへの追悼文を捧げ、かれが生きたかけがえのない無欲でチャーミングな生涯を讃える。かれはかれが食事会に招いた人たちを全員愛し、笑顔で肯定し、ユーモアをもって勇気づけ、そしてかれのすばらしい料理で、ぼくら全員を幸福にしてくれた。


やすのさんがぼくにくれたメールのなかにはこんな一節があった。「サトウさんは、会うたびにスージーさんの話をしていましたよ。”僕は、スージーブログの一番の読者だと思う”とよく言っていました。」


ぼくの目がしらは熱くなる。実はぼくは料理についての文章を、いつもベンガル・サトウの視線と優しい微笑み、そしていたずらっぽい表情でのツッコミや、共感あふれる賛同の声を感じながら書いてきた。ぼくはベンガル・サトウのその言葉を誇りにおもう。


イラストレーション:いずみ



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