人は絵を見て物語を語る。

あなたは美術館にいる。その絵にはなにかが描いてある。たとえば女。テーブルの上の果物。麦畑。マリアの受胎告知。戦争。輪郭線だけで描かれているもの。はたまた色彩の組み合わせだけで描かれているもの。あなたは絵を見た後でタイトルを読む。画家の名前をチェックする。添えてある解説を読む。ふたたび絵を見る。同じ画家の他の絵も見る。あなたは関心を持つ。画家の出身地、家族環境、貧富、人格の傾向、デビューの仕方、評価の変遷、結婚歴、離婚歴、どんな家に住んだか。どんな暮らしをしていたか。どんな友達とつきあったか。酒はどのくらい飲んだのか? 品行方正だったのか、それともふしだらだったのか。


やがてあなたは画家の物語を作りあげる。あなたの語り口が魅力的であるならば、その物語を聞いた人もまたその画家に興味を持つでしょう。世の中はこういうふうにできているし、誰だっておもいあたることでしょう。ただし、これは少し不思議なことでもあって。なぜなら、いつのまにか絵は物語の口実になっているのだから。もしもせっかくの絵が物語のきっかけに過ぎないならば、絵の立つ瀬がない。


逆の例もある。物語を絵に起こす。たとえば中世からルネサンスにかけて、画家はキリストの生涯の名場面の数々を絵に起こし、キリスト教徒は絵を見るだけで、キリスト教のエッセンスを理解したものだ。すなわち、絵は読み書きができない人にとっての〈本〉だった。


けれども、実は一枚の絵はただその絵だけで、とても雄弁なもの。その画家が有名であろうがなかろうが、むかしの人だろうがいまの人であろうが、どこの国に暮らしていようが、コドモだろうが、精神病であろうが、犯罪者であろうが。たとえそこに解説や画家の生涯についての記述が添えてなかろうとも。とはいえ、やはり人はその一枚の絵を見ながら、その画家の物語をも、つい、想像してしまう。ヒトはそういうふうにできているのだろう。他人の作る料理を食べても、人の書いた文章を読んでも、人の服の着こなしを見ても、人はその人の物語を想像してしまう。





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