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西田哲学の行為的直観を知る

西田哲学の大事な概念の一つは

行為的直観

です。しかしながら、岩波文庫33-124-5『西田幾多郎哲学論文集Ⅱ』の、行為的直観を読んでも

解った!

と言える人は少ないと思います。

私も、解ったと言えるレベルか悩みますが、取り合わず、少しばかり見通しがよくなったので、ここに書いておきます。

西田幾多郎は、西洋哲学を熟知したが、その限界もよく知り、それを超えようとしました。そこで大事なことは

西洋哲学の抽象化・単純化

の危険性を知り

現実の複雑さ

に正面から向き合いました。例えば、西洋文明の議論では

抽象化したモデル世界
(時間的変化などない世界)

で考えます。こうした、モデル世界を、数学的な事実のように、絶対的と考える。一方、西田哲学では

常に変化する歴史的世界
(過去からの因果・未来への目的)

で考えていきます。

特に、西洋文明の思考では、モデル世界のなかで

理想的なイデア

で論理を展開します。これは、古代ギリシャの哲学者のプラトンが『洞窟の比喩』で示した発想で

人間はこの程度しか見ない

と言う諦めが入っています。しかし、注意すべきは、このイデアは

神の世界に近い絶対的なモノ

という信仰的な発想に支えられています。

そして、この発想は20世紀のマックス・ヴェーバーの『職業としての学問』などにも繋がっています。

ここで、西田哲学では

我々の行動は種的

と考えます。この『種的』という観点が

個別の多様性
イデアの固定した抽象化

の両面の中間を拓きました。つまり

個物一つ一つは皆違う
そこで
一般的なモノで考える
しかし
理想化し固定的な概念ではない

と言う『種』で考えます。例えば

という『種』で判断し、恐がって逃げる、またはもう少し慣れた人なら

毒蛇

かもしれないと逃げる。こういう感じです。生物学なら、蛇の種類に色々な議論があるでしょうが、実際の行動には

必要な『種』の判定

が関与します。更に、この『種』は経験や、知識の伝達で変化します。例えば

田舎に行って青大将を見る
これは害がないと学ぶ

と言う風な経験での変化もあるし

1974年以降はヤマカガシは毒蛇扱い

と言う研究成果による変化もあります。

こうした

変化する
歴史的世界と種的概念
の中で
自ら世界と『種』を制作することで
直観する

のが『行為的直観』だと思います。

もう少し言えば

多様な現実を記述し尽くすことはできない
しかし
それに対応する
人格を作ることはできる

と言う発想です。

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