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父と別れていま想うこと

父が亡くなってひとつき。

天に召されるとはよく言ったものだなぁ・・
ひとつのいのちが消えゆくことが、かなしみだけではなくて、
とてもふしぎなことに思えた。父は、召されて、この世を去っていった。
これはどこからか誰かが糸で操っていたと思わざるを得ないような、
そんな去り方だった。
父には、いろいろおもう事があり、むすめとしてさみしい思いをさせてしまったとは思うけれど、父ならわかってくれているという気持ちもあるし、
わたしと親子で出会ってくれた、そのことに心から感謝している。

わたしって冷たいのかもしれないけれど、死ぬことが、永遠の終わりではないと、父との別れを通して強く感じたこと。

正直、成仏とか供養とか、慣例で行われている仏事事もなんだかあまりよくわからなくって、でも、すごく物質的で、父がいつまでも父でしかない存在にしているようで、すこし息苦しい気もする。
父はわたしにとって父ではあるし、実家に帰ったときにお墓の前に立って手を合わせ、わたしは元気にやっています、というと思う。

でも、わたしは、父の葬式の翌日に、わたしの上で結構長い時間、気持ちよくとぶ大きな鳥をみて、なんとなくだけれど、あれは、父だと思って、すごくすごくわたしの心が晴れやかになった。からだが不自由だった父が、鳥になって優雅に空をとんでいた。

9年前に、母が亡くなった時には、火葬場で煙突から出るけむりをみて、母が煙になって、空気になって、ただよっているなあと空を見渡した。

もう、あの顔の、あの声の、父と母に会えないことはすごくさみしい。
もどってきてほしいとか、そういうのではなくて、
ただ、もう会えないのだなあ、さみしいなあ、それだけ。

今のわたしには、まだ、うまくいえないけれど、生と死の境が、くっきりとしたまっすぐな線ではない気がしてきて、
だからこそ
わたしが、いま、ここにこうやって存在していること、それがとても貴重な事なのかもしれないとも思う。




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