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意味消失した僕。魂が死んだ僕が「意味」を感じる努力をする理由。

僕は、死の世界で生き続けている。僕は、2017年12月29日に死んだから。

2017年、末期癌となった家内を、僕は自宅介護することに決めた。春先から体力がなくなり、夏になる頃には、寝たきりとなった。

僕は、家内の寝床の横に布団を敷き、24時間、ずっと側にいて介護をしていた。

酸素吸入器なしには生きられなくなった家内。定期的に酸素濃度を測りながら、酸素吸入器のレベルを調整していくのが、最初の日課になった。

末期癌は、日に日に状態が悪くなると聞いていた。本当にそうだった。

春には「最後の旅行」に行きたいと言って、家内はパリに旅行に行った。まだその時には、自力で歩くことができた。

しかし、夏になり寝たきりになってからは、日に日に、家内の体の機能が、一つずつ、失われていった。

喉が渇く、と言っていた翌日には、唾液を出す機能を失った。

上半身を起こせない、と言った翌日には、寝返りを打つことも困難になった。

呼吸が苦しいと言った翌日からは、酸素吸入器を24時間外すことができなくなった。

そうやって、家内の体から、一つずつ、機能が失われていった。僕は、ずっと伴走しながら、家内が死に向かっていく状況を、疑似体験していった。

僕の体からも、一つずつ、何かが失われていくようだった。

僕は家内に、「口からご飯を食べられる間は、人間は死なない。だから、ご飯を食べようよ」と、何の根拠もないことを言いながら、家内を励ましていった。

僕は毎日お粥を作り、家内の口に運んだ。

家内は僕の言葉を信じ、どんなに体調が悪いときでも、僕が作ったお粥を必ず口にして、何度も噛みながら飲み込んでいた。

僕は家内の下の世話をしながら、排便があることを喜ぶようになった。排便があるということは、僕が作った食事が、家内を生かしてくれている証拠だからだ。まだ、生きる力が残っている、と、その時だけ、僕の心は落ち着いた。

ある日、家内が僕に、「領一さん、領一さん」と弱々しく話しかけた。

僕は、疲れ切っていて、家内の横で仮眠をしていた。でも、気合いを入れて、家内の顔の真ん前に、僕の顔を寄せ、彼女が何を言おうとしているかに集中した。

「私、結婚した時、領一さんのお城に入ったの。お城の中に入ったと思ったの」

当時孤独だった彼女が、僕の元に嫁いだ時、ようやく自分を守ってくれるお城の中に入れた、と思ったのだろう。結婚式直前、そんな雰囲気を感じていた。でも、それを言葉として聞くのは初めてだった。

「だから、死ぬときは、領一さんのお城の中で死にたい」

その言葉を聞いたとき、僕は目をそらしてしまった。

その言葉に頷くと、家内に忍び寄る死を肯定してしまい、彼女の最後の気力を奪ってしまうと思ったからだ。

でも、家内はずっと僕を見続けていた。僕は、彼女の目をみて、軽く頷いた。

「分かった」

そうしか、言えなかった。

それから数日後の12月29日の早朝。寝たきりになってから聞いたこともない家内の大声で、僕は目が覚めた。

「あーーー うぁーーーー あーーー」

うめき声なのか、悲鳴なのか分からない声を上げる家内。僕は何が起こったのか分からずに、体をさすったりしていた。

「背中が痛い。背中に毛布を入れて」

僕は近くにあった柔らかい毛布を、彼女の背中の下に入れてあげた。それでも、痛がり、もうどうしようもなかった。

「もっと背中に…」

顔を歪ませて苦しむ家内に、何もしてやることができない。数ヶ月に及ぶ介護で、すでに疲労のピーク、体力の限界、精神の限界を超えていた僕は、天を仰ぎながら泣き叫ぶように、「もう嫌だ」と言ってしまった。

僕はその時、神様を恨んでいた。なぜ、こんなに酷い仕打ちをするのか。なぜこんなに理不尽なことを家内にさせるのか、と。

僕が泣くように天を仰いで叫ぶ姿を見た家内は、すっと、声を出すことをやめ、気がつくと、僕の太ももを、手でさすってくれていた。

じっと僕を見ながら。ごめんね、と言いそうな目で。

その数時間後、家内は意識を失った。静かに、意識を失い、一定のリズムで、肩で呼吸をしていた。

神様は、家内から、一つずつ機能を奪っていき、最後には、意識も奪っていった。残されたのは、呼吸だけだった。

二時間ほど、呼吸をする家内を見つめながら過ごした。子供達を呼び、手を握らせた。僕は、生存確認するように、ときどき、頬にキスをしながら、見守っていた。

午後4時。家内は、最後の一呼吸をした。小さな、小さな一息だった。

その瞬間、僕の魂も、あの世に行ってしまった気がした。長時間、ずっと側にいて、家内の変化を疑似体験しながら過ごしてきた僕の魂も、すっと、あの世に引き込まれるようだった。

家内の死を目の当たりにして、悲しい、辛い、納得できない、認めたくない、悔しい、腹が立つ、そんな、複数の感情が目がぐるしく交錯する僕の脳から、魂だけがどこかに飛んでいくようだった。

アニメの「攻殻機動隊」で「意味消失」という言葉がある。電脳化された脳が、死ぬことによって、電気信号で認識していた世界の意味が消失していき、無になっていく様を表現したものだ。(トップの画像は、映画「攻殻機動隊」のオープニング)

脳の認識もシナプスの電気信号に過ぎず、それは電子的に作られた人工記憶(データ)との区別ができない、という近未来の電脳世界の観点から、人間の認識とは何か、人生とは何かを問う、それが「攻殻機動隊」の裏テーマでもある。

僕が体験した家内の死は、まさに、「意味消失」だった。

これまで普通だと思っていた世界の色が、家内の死によって、完全に失われ、価値あると思ったことに、価値を見いだせなくなった。まさに字の如く、あらゆるモノや出来事の「意味」を「消失」してしまったのだ。

家内の死から一年以上、「意味」を失った世界に、一つ一つ、「意味」を与えていく作業を、僕はしていくことになった。色を失った世界のパーツに、一つ一つ色を置いていくように。

なぜそうしたか。僕にはまだ守るべき子供がいたからだ。

もし、子供がいなければ、「意味」を失った世界に、僕は生きる「意味」を見いだすことができず、自然に、死んでいたと思う。いや、実際に、魂は抜けていったのだから、実質的に、生きる屍だった。

しかし、未来に生きていく子供達が、僕の側にいた。だから、僕は、全身の力を総動員して、世界に「意味」を与える努力をすることにした。

毎朝、朝食を作り、子供を学校に送り出す。そんな単純な日常から「意味」を見つけ、愚直に繰り返す努力を続けた。

僕には、まだ生きる理由がある、それを少しずつ認識できるようになった。そこに「意味」があるのだと。

夜に寝ることも、朝起きるための「意味」がある。

僕がご飯を食べるのも、僕が死なずに子供の面倒を見るために「意味」がある。

僕が、何かのアイデアを思いつき、メモに残していくのも、僕がこの先生きるための「意味」があるのだ、と自分自身に確認をしていった。

以前の僕なら「意味」も考えないことに、「意味」を与える努力を、馬鹿になって繰り返すことで、人生とは、そういうものなんだな、と思うようになっていった。

そもそも、人生に意味はないんだ。

でも、そこに「意味」を与える努力をすることで、「意味」が生まれてくるんだ、と。

努力なしには、人生に「意味」を見つけることができない。

ただ愚直に、何気ない目の前の些細な事に「意味」を与え続ける作業。それこそが、人生であって、その努力を失った時に、本当の死が訪れるのだろう、と。

今、僕の体には、飛んでいた僕の魂の一部が、戻ってきたように思う。

僕は、この世に「意味」を与え続ける愚直な作業を、ずっと続けていくだろう。

そうすれば、あの世に飛んでいた魂の片割れも、また、戻ってくるのではないかと、思う。

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