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シューゲイザー


 タカに会うのは高校以来だった。つまり五年ぶりだ。だから僕は最初、それがタカだとは気付かなかった。バイト帰りにたまたま立ち寄ったコンビニの、可もなく不可もない接客をこなす店員。顔なんて見ない。僕のスマートフォンがタイミングよく鳴らなければ、きっとそのままスルーして帰っていた。
「マイブラ」
 つい、ポロッと口にしてしまった、というような声音だった。僕のスマホから鳴ったのは、確かにマイ・ブラッディ・バレンタインのオンリーシャロウだった。ソーシャルゲームのイベントの開始を知らせるアラーム音に設定していた。普段、あまりこの曲に気付いてくれる人はいない。コアな趣味を共有できそうな人間が目の前に現れた高揚感で、胸がキュッとした。マイブラ好きなんですか、と聞こうとして顔を上げた。青のストライプの制服を着てレジ袋を差し出していたのは、間違いなくタカだった。長い前髪で隠された目には、昔みたいな輝きはない。視線が合ったときに、けれどもそこには、青臭い親しみが見え隠れしていた。
「タカ、だよな」
 そう聞く前に、彼も僕に気付いたらしい。照れたような、泣く前みたいな、独特の笑顔を作ったまま、昔と変わらない温度で僕を見ていた。

 タカは高校の同級生だ。保育園も一緒らしいが、僕は覚えていない。入学式の後に母さんが教えてくれた。
「タカちゃんは、かわいそうだったよ」
 タカには母さんがいなくて、父さんは日雇いの仕事を転々としていた。保護者の間でもなんとなく、そのことを憐れむような風潮が生まれていたのだろう。母さんの湿っぽい言い方が、嫌だった。
 そんなことを知ってか知らずか、タカは人懐っこい奴だった。初対面の人間でも臆せず話しかけることができたし、人の輪の中にスッと入っていくこともできた。けれども、特定の誰かと親しくすることはなかった。誰とでも仲良くできるけど誰ともつるまない。十代の僕には、タカのスタンスがとてもクールでかっこよく見えた。
 つまり、僕とタカは、親友同士だったとか、そういうわけではない。言ってしまえば、ただのクラスメイトだ。けれども僕は、タカとの記憶で、一つだけ忘れがたいものがあった。

 なんてことのない、普通の放課後だった。何故か僕とタカは二人で、誰もいない教室の床に、べたりと座っていた。吹奏楽部の練習音が遠くから聴こえる中、タカが音楽をかけた。
「何この曲」
 音の洪水が押し寄せてきて、隙間から幽霊みたいなボーカルの声が聴こえてくる。タカの音楽プレイヤーから流れていた音楽は、変だった。
「マイ・ブラッディ・バレンタイン」
「バンド? 曲名?」
「バンド。シューゲイザー知らねえの」
「シュ? なんだって?」
「ださ」
 そう言いながら、僕の足元を見る。タカと同じ上履きなのに、彼は顔を歪めて、それからプハッと噴き出した。
「きったねえ靴。洗えよ」
「上履きなんて洗わなくね?」
「洗うわ。マジありえん」
 タカには母さんがいない。それなのに上履きなんて洗うのか。自分でやるのだろうか。聞こうと思ったけれど、会話はそこで途切れた。タカの彼女が迎えに来たからだ。ぼやっとしていた顔つきが、急に明るくなる。僕なんて最初から居なかったみたいに、そのまま教室を出て行ってしまった。誰ともつるまないタカが、一人だけ、完璧に心を許している相手が、中学から付き合っていたという彼女だった。彼女の前では、タカは小さな子どもみたいになる。周りを憚ることなく甘える姿は、見ているこっちが照れるくらいだった。
 この日のタカは、おそらく、たまたま教室に残っていた僕に適当に絡んでいただけだったのだろう。学年が上がって、クラスが離れてからは、話をすることもほとんどなくなった。それなのに、この日のことは、何故か鮮明に覚えている。とろけた橙色が窓から差し込む教室。地べたに座ったままの僕ら。音楽プレイヤーから流れる奇妙な音の洪水。汚い上靴。放課後の湿った匂い。全てが強烈なノスタルジーとなって、僕の中で大切な、冒しがたい記憶となって残っている。
 卒業式の直前に、タカは少年院に入れられた。相手が意識不明になるまで暴力を振るったらしい。彼女の浮気相手の男だった。

 タカの休憩時間を待って、コンビニの裏で落ち合った。賞味期限切れの缶コーヒーを「廃棄するから」とくれた。曖昧に頷いてお礼を言いながら、プルトップを引っ張った。
「まさか、お前がマイブラとはな」
 クックッ、と笑いながら、タカも同じく缶コーヒーを開ける。さっきまでの緊張がほぐれて、距離感が一気に十代の頃へと戻っていくのを感じた。
「タカが教えてくれたんだよな」
「よく覚えていたな」
 そう言いながら、タカは僕の足元を見た。カッコイイ靴だな、と、履き古したコンバースを褒めてくれた。雪解けが済んでいないこの時期に、汚れても構わない靴を選んで履いていた。タカのスニーカーは僕以上にボロボロだった。
 冷たい空気の中に、日向のような匂いが混じる十六時。夕方だというのにまだ空は青さを残している。三月の空気はなんとなく、ふわふわと頼りない気持ちにさせてくる。
「元カノとも、よく聴いたよ」
 唐突に切り出された言葉は、最初、何を指すのかわからなかった。加えて、「元カノ」というワードに、ギクリとする。タカの事件のきっかけとなった人。
「何が」
「何って、マイブラ」
「ああ。そうなんだ」
 下手くそな僕の相槌に、タカは昔みたいに噴き出した。相変わらず、わかりやすいのな、そう言いつつ、真剣な声音で、
「話、聞いてくれるか」
 僕はただ、頷くしかなかった。

 タカの彼女は、進学予定の大学の学生と浮気をしていた。タカが偶然、二人が歩いているところを見てしまった。何かの間違いだと思い、日を改めて、冷静に話を切り出すと、彼女はワッと泣き出し、あっさりと不貞を認めた。別れたくない、とタカに必死で縋り、タカも彼女を許した。数日後、彼女のスマートフォンの通知で、大学生との交際が続いていることを知った。混乱したタカは再び彼女を問い詰めた。「どちらも好きだから、選べない」彼女の言い分は、こうだった。言っていることがめちゃくちゃだし、最低だ。けれどもタカはそれを受け入れた。タカがどれだけ彼女を大切にしていたか、僕でさえ覚えている。話を聞いただけで、やりきれない気持ちになった。
「電気が消えていくみたいな毎日だった」
 タカがぽつりと溢す。タカの中にある複数の部屋の電気が、物凄いスピードで、順番に暗転した。彼女の裏切りによって。消えても消えても部屋はあって、どこまでもどこまでも暗くなる。スイッチの場所を知っているのは彼女だけだから、灯りが欲しくて、タカは彼女に縋り、タカを手放したくない彼女は、それを良いことに一時の光を与える。脆い回線は、一人になった瞬間に途切れて、ついた電気はすぐに消える。暗闇の後の灯りは強烈で、ずぶずぶとのめり込んでは突き落とされる。
「ヤク中と一緒だよ、完全に依存してた」
 大切な人からの裏切り。けれど向こうからは手放してくれない。こちらから離れることもできない。お互いに求めあっているのに、手を伸ばすほど、差し伸べるほど、どんどん深みにはまっていく地獄。底なしの絶望の中に、タカは居たのだ。
 そんなときに、タカは彼女と浮気相手が一緒にいる現場に遭遇してしまった。そこで男がタカに言ったのは、
「母親を求めてるみたいに甘えてきて、怖いって、彼女は言っているよ、お前のこと」
 タカには母さんがいない。特定の、親しい友人もいない。タカが唯一心を開いているのは、中学から付き合っている、彼女だった。
 彼女はその言葉を否定しなかった。
 気が付いたら、ぐったりと倒れている男と、青ざめた顔の彼女が居たらしい。
 信頼関係が脆かったんじゃない。裏切りが鋭利過ぎた。

「ダサいよなあ」
 あまりのやりきれなさに、長い瞬きをする。タカの話をどう処理すればいいのかわからなくて、相槌すら打てなかった。
「暴力はいけなかったよ、どんな理由であれ」
 タカが少年院に行った後、大人たちは言った。
「やっぱり、あの子には母さんがいないから」
 タカの事情や感情を一切無視して、境遇だけにスポットを当てて、そんなことを、言ったのだ。生まれや育ちなんて、子どもは選べない。ただそこに生まれて、ただそこで生きてきただけなのに。タカはいい奴だった。母さんがいなくても、とてもいい奴だった。
 タカがしゃがみ混む。僕も倣って、膝を曲げた。もうすぐ休憩時間は終わる。風がさっきよりも冷たくなってきたし、空は少しずつグラデーションしてきていた。
「かっこ悪い話を聞かせて、ごめんな」
 タカはかっこいいよ。言葉にしたら安っぽくて、薄っぺらくなってしまうから、飲み込んで唇を噛んだ。もちろん行為は非難する。けれども僕は、彼を全肯定する。高校時代の二人を思い出す。教室に迎えにきた彼女の、ふっくらとした幼い笑顔。彼女を見るタカの、優しい瞳。二人が丁寧に築いてきた信頼を、大切に慈しんできた時間を、容赦なく殴って、蹂躙して、ボロボロにしたのは、その男と彼女自身なのだ。
 タカのしたことと、その男のしたことの、何が違うって言うんだ?
「あ」
 スマートフォンが再び鳴った。別のソーシャルゲームのイベントの開始を知らせる音楽。大事な話をしているときに、と舌打ちしたくなったが、タカはプハッ、と昔みたいに噴き出した。
「ウェン・ユー・スリープ」
「……ああ」
「本当、マイブラ好きなんだな」
 タカとの放課後以来、奇妙な音楽にすっかり魅了されてしまい、マイ・ブラッディ・バレンタインの音楽を聴き漁った。頭がボウッとトリップするような感覚は、音の大洪水でしか味わえない。なんとも快感だった。
「なんていうんだっけ」
「ん?」
「この音楽のジャンル。シューなんとか」
「ああ。シューゲイザー」
 娯楽として楽しんでいただけで、深く掘り下げることはしていなかった僕は、タカが昔教えてくれた言葉を、覚えていなかったのだ。シューゲイザーか。語感がかっこいい。
「なんか、前向きになれそうな言葉だな、シューゲイザー」
 なんとかタカを励ましたくて、適当なことを言う。マイブラを聴いて前向きになれるかって言ったらそうではないけれど。タカに元気を出して欲しかったのだ。タカは僕の言葉を聞いて、一瞬、目を丸くした。そして直後、盛大に笑い始めた。
「ギャグセン高いわ」
 今までの緊張が一気にほぐれたみたく、大きな声で笑うタカ。そんな彼を、ポカンと見つめるしかない僕に、
「シューゲイザーの名前の由来、知っているか」
 僕は黙って首を振る。タカは僕の足元をチラリと見た。
「シューは靴、ゲイザーは見る。ギターの足元の機材を見ながら演奏する音楽なんだよ」
 なんでも、ギターの足元には、音を歪ませる機材があるらしい。それをフル活用して、音の洪水を作り出しているから、シューゲイザー。
「マジか」
 前向きどころか、下向き。見当違いも甚だしい。浅知恵で物を言うものじゃない、と自分を恥じた。
「そろそろ戻るわ、休憩終わるし」
「ああ。今度、飯でも行こう」
「ありがとな」
 立ち上がって、グーッと大きく伸びをしたタカ。正面から陽光が当たって、後ろから見ると逆光になっている。消えてしまいそうな気がして、慌てて僕も立ち上がった。
僕らは多分、お互いの連絡先を知らない。僕が頻繁にこのコンビニに通って、約束を取り付けるか。或いはもう二度と会えないか。どちらでもいいし、どちらになったとしても、僕とタカの関係性は変わらないという確信があった。
表のコンビニに戻るだけの道のりが、少しだけ名残惜しかった。僕はこっそり、彼の足元を見る。
「タカ」
「ん」
「今、幸せか」
 雑な質問だとは思いつつ、どうしても聞いておきたかった。タカはゆっくりと瞬きをした。そして一度、僕の目をじっと見て、全て諦めたみたいな顔で笑った。心の底から静かになるようなその笑顔で、わからない、と言った。
「ずっと空っぽなんだ、あの日から」
 質問の迂闊さを謝罪しようとした僕をそっと静止して、彼は、でも、と続けた。
「今日、お前に会えて、幸せだったよ」
 今度の笑顔は、高校時代のものに似ていた。
空の濃淡はすっかり夕暮れのそれに変わってきている。僕はタカとマイブラを聴いた、橙色の教室を思い出す。シューゲイザーが鳴り響く、奇妙な空間。音の渦の中で、ボロボロの上靴を見て笑った僕ら。あのときの僕は、楽しかった。タカと出会えて、馬鹿な話をして笑えたことが、とても幸福なことだと、強く思った。でも、こんなこと、タカにとっては何の救いにもならないんだろうな。だからせめて、一言、タカに言った。
「ありがとう」
 タカは振り向いて、「何が?」と返した。僕は笑顔で首を横に振った。
「そういえば、お前は今、何しているんだ」
「聞くの遅くね? フリーターだよ」
「俺と一緒じゃん、だっせ」
「ダサくねえよ」
 なんでもない会話をしながら、二人で、あの日みたいに、笑う。前向きでなくても、下を向きながらでも、今、この瞬間の面白おかしさ、ほんのちょっとの幸せ、そういうものをいっぱい見つけながら、生きていけたらいい。過去でも未来でもない、今のタカが、そう思える時間をたくさん見つけられますように。願いながら、下を見る。タカのスニーカーは、よく見ると、丁寧に使い古された味があって、汚れや傷さえも、綺麗だった。

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