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生者を騙り命を叫ぶアイドル フランシュシュ──ゾンビランドサガのススメ

こんばんは~

最近アニメを観まくっているので区役所に行って名前をアニメに変えてもらいました。アニメです。
アニメ今日はね、『ゾンビランドサガ』の話をしようと思います。

ただいま2期が絶賛放映中のTVアニメシリーズ、『ゾンビランドサガ』。

最新2話挿入歌『風の強い日は嫌いか? FranChouChou cover』の映像が5日で10万回弱再生されるなど、その盛り上がりは今や最高潮に達しつつあると言っても過言ではないでしょう。

まずは聴いてください。曲を。そして乗れ。このビッグウェーブに。

はい。

正直これ見て本編に入っていただければ俺なんかにできることはもはや何もないのですが、一応いち視聴者として「これを踏まえていると1期および2期を観ていくうえでちょっぴり面白さが上乗せされるのでは?」みたいな主観的な思い込み、もとい解釈を提示することで、みなさんのアニメライフを多少なりとも豊かなものにできればと思ってこの記事を書いています。

「現代のアニメオタクはコンテンツを食事のように"消費"している」みたいな言説にみんなどんどん抵抗していこう。そんな感じのレジスタンスなリベンジのスタンスで行かせていただきます。よろしくお願いします。

【読んでほしい!】
・ゾンビランドサガ1期を観た人
・ゾンビランドサガ1期を観る可能性があり、知ると面白さが損なわれるようなネタバレでなければ多少の前知識を許容できる人
・ゾンビランドサガ1期を観るつもりはないが、アニメの文章を読みたい人、知ったかぶりたい人など
【読むべきではない】
・ゾンビランドサガ1期を観る可能性があり、かつネタバレ絶許主義の人

1.死者蘇生というルール違反

というわけでまずはこの作品のあらすじと、それからこの作品が一見犯してしまっているように見える「ルール違反」について見ていきましょう。
公式サイトによる紹介文は以下の通りです。

いつもの朝。いつもの音楽。いつもの自分。
7人の少女たちの安寧は、突如崩壊する。
死して蠢く、ゾンビによって……
否応なく踏み込んだ世界、そこは“最高×最悪のゾンビワールド”
少女たちの願いは、たった一つ。
「私たち、生きたい。」
これは、少女達が起こす奇跡の物語(サガ)。
「ユーリ!!! on ICE」MAPPA × 「おそ松さん」エイベックス・ピクチャーズ ×「ウマ娘 プリティーダービー」Cygamesの3社が偶然にも手掛けた100%肉汁オリジナルアニメが誕生!
年齢も性別も時代も超えて、びんびんに刺激する『新感覚ゾンビ系アニメ』の幕がいま上がる。       

―公式サイトINTRODUCTIONより引用

はい。

このあらすじと周辺情報を見た俺たちはこう思います。


「なるほど、ゾンビがアイドルやるわけね。ゾンビアイドルってことね。アンデッドなガールがブルーなフェイスでチャカチャッチャカーって感じなわけね。了解了解……」



了解了解……



了解了解……



……



……



……………………………………


……………………


…………………


いや…………………


生きとるやろがい!!!!!!!!!


そうなんですよ。これ、完全に生きてますよね。

もちろん通常時のビジュアルはもっとゾンビなのですが、プロデューサーの巽幸太郎から特殊メイクを施されることによって、彼女たちは生前と遜色ないような容姿を手に入れることができます。まるで死地から蘇ったように。

ところが、死んでしまった人間を蘇らせる行為はフィクションでは通常「御法度」とされています。なぜなら死者は蘇らないからです。乗り越えられるべき「死者の死」という事件をなかったことにしてしまう展開は、結果として物語全体の主張を大きく歪ませてしまうことになります。

そのため、死者を生前と変わらぬ姿で活動可能にしてしまうゾンビランドサガは一見するとこのルールを破ってしまっているように見えるわけです。

2.違反を埋め合わせる2つの「断絶」

しかしこのルール違反は見かけ上のものであり、実際には作品の評価を貶めるようなものにはなっていません。
というのも、作中においてゾンビたちは真の意味で「蘇った」わけではないからです。一見普通に生きているようでも彼女たちと生者との間には明確な「断絶」があり、それが彼女たちの生を単純な蘇りではないものにしています。

具体的には以下の2つを挙げることができるでしょう。

①生者と死者の断絶

当たり前ですが彼女たちは既に死んでいるため、生きた人間との間には決して埋めることのできない隔たりが存在しています。

そして作中で彼女たちが徹底して「ゾンビバレ」を回避しようとしていることからもわかるように、ゾンビのままの彼女たちが生者に受け入れられることは決してありません。

1期1話から警官によって幾度となく繰り返される拒絶のエピソードは、この断絶を強く強調するものです。

彼はゾンビの姿の主人公たちに銃を向け、明確に拒絶します。そしてその態度は、アイドルとして活躍する主人公たちの姿を彼が見た後でも変わることはありません。
全体としてギャグチックな雰囲気をもつストーリーの中に繰り返し組み込まれるこのシリアスな展開は、それだけ断絶が避けがたいものであることを受け手に意識させます。


1期4話でアイドルとしての彼女たちを認めてくれた製薬会社の社長の場合も同様です。彼女たちがアイドルとして勝ち取った信用は「ゾンビバレ」によって記憶ごと社長の中から失われてしまいました。ゾンビの姿のままでは、彼女たちはどうあっても生者と交わることはできないのです。

②時間的な断絶

とはいえこれだけであれば、既に述べたように特殊メイクによってどうとでもすることができます。「蘇り」を否定する上で決定的なのは、彼女たちが時間的にも生者と隔てられた存在であるということです。

死んでしまった主人公の源さくらはゾンビとなって目覚めますが、この死亡から覚醒までの間には10年のタイムラグがあります。そのため、眠っていた彼女と生者との意識の間には時間的なズレ=断絶が生じています。

同様の断絶はゾンビとなった他のメンバー全員にもありますが、特に顕著なのは二階堂サキとゆうぎりのものです。

二階堂サキは世紀末、九州制覇を成し遂げた伝説の暴走族チーム“怒羅美”の特攻隊長でしたが、その当時の姿のままでゾンビとなった彼女に対して、生前彼女の相棒的存在であった女性は既に高校生の娘を持つ母親になっていました。

ゆうぎりの場合は更に顕著です。彼女が生きていた時代は幕末の動乱期であり、100年以上が経過した現代で再び目覚めてみたところで、それはとても「生前の("ゆうぎり"としての)生を取り戻した」と言えるようなものではありません。本来存在していたはずの時間軸から切り離されてしまったゾンビたちは、もはや生前とは別の存在になってしまっているのです。

そしてこのズレはこれからも広がり続けます。ゾンビとなった彼女たちは、もはや老いることもできなくなってしまったからです。肉体的な意味でも、彼女たちと生者はそもそも同じ時間を生きてはいません。

この時間的な断絶は現在放送中の2期『ゾンビランドサガ リベンジ』2話においても描かれています。二階堂サキはホワイト竜という共演者に「もっと大人の女になったら~」みたいな感じの言葉を掛けられますが、彼女の身体が成長することは永遠にありません。

「ゾンビだから」とおどけてみせて涙を流す彼女の姿は、ゾンビたちの「蘇り」がいかに歪な形で実現されたものであるかを強烈に示しています。

そのため少なくとも①②の2つの意味において、ゾンビたちを手放しに「生き返った」とみなすことはできないでしょう。死者を再び活動可能にすることの危うさは、ゾンサガにおいてはこれらの断絶と引き換えにして乗り越えられているわけです。

3.断絶をなかったように「見せかける」存在としてのアイドル

しかしこれらの断絶が見かけの上でだけ解消される場面があります。
それがライブです。

特殊メイクによってゾンビであることを隠匿し、アイドルグループ「フランシュシュ」のメンバー0号~6号としてかりそめの存在を与えられた彼女たちは、ライブの場でだけ断絶を乗り越えて生者との間につながりを持ちます。

しかしそのつながりはあくまで見かけ上のものでしかありません。8話『GOGO ネバーランド SAGA』のエピソードはそのことをよく象徴しています。

この回では星川リリィ(かわいすぎる……)の父親が登場しますが、リリィさんがライブに訪れた父親との対面を果たすのはあくまで「フランシュシュのアイドル・6号」としてであって、生前の「星川リリィ」としてではありません。

そのことを弁えず、境界線を乗り越えて仮面の下の「星川リリィ」に触れようとした父親は「おさわり禁止」として制裁を受けることになります。

そしてこれはアイドル→ファンの場合でも同様です。アイドルの仮面を脱ぎ捨てたゾンビに対して、生者は銃を向けます。両者の間には依然として深い断絶が存在し続けており、それが解消されることはないのです。(この文脈において「ゾンビ」は、アイドルが一般に持つ素顔というものを戯画的に表現したモチーフとしても読まれることができます)

4.星川リリィが「つなぐ」もの

しかし注目したいのは、星川リリィのエピソードにおいて見かけの上だけでも父子の対面が達成されている点です。

本来実現されることのない「死者との再会」は、特殊メイクを施されることによって、生者であると「見せかける」ことによって、不完全ながらも成し遂げられています。これはとんでもないことで、なぜなら死者は蘇らないからです。物語の「御法度」を破る可能性を持ったこの現象にこそ、我々は目を向けるべきでしょう。

越えられないはずの断絶を、なかったように「見せかけ」、そうして見かけの上でだけ越えてみせる。

一見虚しいようにも見えるこの行為は、まるで会えるはずのない死者と生者とを対面させるかのように「つながり得なかったはずのものをかりそめにつなぐ」という重大な積極的意味を持っています。

そしてライブという限られた場においてのみ生じるこの見かけ上のつながりは、リリィの父に「我が子の死を受け入れ前に進む」という実質的な変化をもたらし、そして本物の涙を流させるのです。

これ。これですよ。フランシュシュのみなさんがライブを通して俺たちに伝えたかったことはこれ。単なるウケ狙いでゾンビやってるわけじゃないんです、彼女たちは。
かりそめの関係を通じてフランシュシュとつながった俺たちは、このことをしっかりと受け止め、そして咀嚼していかなければならないと思います。

ちなみに星川リリィさんが見かけ上乗り越えている「断絶」にはもうひとつとんでもないものがあるのですが、そちらの方は本編を観て確認していただければと思います。(個人的にはこれがめちゃくちゃすこでした)

5.もうひとつの主題:理不尽

さて、当然ですがこの作品におけるゾンビというモチーフは「断絶の表現」というただ一つの「正解」を持つようなものではありません。
我々はそこに様々な解釈を見て取ることができ、その可能性は原理的には無限であると言えるでしょう。

その中で最後に取り上げたいのは「理不尽」というテーマです。
なぜならゾンビアイドルであるフランシュシュのメンバーはみな若くしてその生命を絶たれるという究極の理不尽を経験しているからです。

特に主人公の源さくらは生前、努力をすれば必ずそれを無意味なものにする不運に見舞われるほどに「持ってない」人間であり、それでも諦めまいとアイドルのオーディションを受けようとした矢先にトラックにはねられ死亡しています。うーん理不尽。

そしてここで、さくらがゾンビである、死亡しているという事実は極めて重要な意味を持ちます。

生者が理不尽を嘆く場合、そこには「生きてるんだから諦めてはいけない」という反論の与えられる余地が原理的には必ず存在しています。

ところが、前のめりに死んだゾンビのさくらに対してはその反論が成り立ちません。彼女のもとにあって、理不尽というテーマは脱線を許さず純粋に理不尽として捉えられ検討されるような有意味性を持ちます。

そしてそんな理不尽を体現したような、ニコ動の赤字コメントで「理不尽の擬人化」とでも書き込まれていそうな生き様を身に宿した彼女が叫び歌うからこそ、そのメッセージはのほほんと生きる生者が発するのとは比較にならないほどの重みを持って、我々の心に届くわけです。

繰り返しになりますが、ゾンビと生者との間には致命的な断絶が存在します。その断絶ゆえ、ゾンビが生者として元の人生を取り戻すことは決して叶いません。その意味で彼女たちは確かに一度死んでしまったのです。

しかし、生者としての死はそのまま終わりを意味するわけではありません。

死という究極の理不尽に文字通り叩き潰されたフランシュシュは、それでもゾンビとなって立ち上がり、希望の唄を歌い続けます。

OP曲で彼女たちが叫ぶ「枯れても走ることを命と呼べ」「心を無くすことが死(おわり)と知れ」という命の定義は、死を以て彼女たちの尊厳を奪おうとしたこの世の理不尽に死してなお抗おうとするゾンビたちの、一世一代の復讐(リベンジ)の意思表明です。(うまいこと言えたか…?)

彼女たちはこれからも歌い続けるでしょう。希望を。生を。命を。自らの心がまだ死んでいないことの証明を。ゾンビとしての命が尽きる、その日まで。
ならば俺たちはその姿を見届けなければいけません。(見届けたいよな!?)

というわけでTVアニメ『ゾンビランドサガ リベンジ』、ただいま絶賛放映中です。この記事を最後まで読んでくれた寛大なあなたと、次はフランシュシュのライブ会場で出会えることを楽しみにしています。以上。乙でした。


※本文で引用したすべての画像に関する著作権は、©ゾンビランドサガ リベンジ製作委員会 に帰属します。

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