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感情と理性、どっちを大切にすべきなのだろう。

理性で感情を律するのは、善いことなのだろうか。


理性は我々ヒトにとって、どれだけ大事なのだろう。


 デカルトの言葉の中に「人間だけが理性をもっている証拠は、人間のみが言葉を話すからである」という言葉がある。

 理性というのは、物事の道理を考える能力のこととして扱われている。つまり、道理や善悪というのは言語によって形成されるものだから、言語を操る人間のみが理性を持っているのだとするのが、デカルトの言説なのだそうだ。


 冒頭にこんな小難しい言葉を並べておきながら、今回はこのデカルトの言葉の是非や正誤について議論したいわけではない。人間が持つとされる”理性”というものは、どれだけ私たちにとって大切なのだろうということを、ふと考えてみたいと思ったのだ。


感情は余計なものなのだろうか。


 「感情に流されるな」「感情的に話すとうまくいかない」という意見も、よく耳にするものだ。時には人の感情が余計なものになる、ということを示唆する言葉なのだと思う。

 実際、この言葉が正しく感じられる局面もあるし、自身の感情をコントロールできることは大切だと、個人的にも感じる。感情論は建設的ではないこともあるし、物事の解決をより複雑化させることも多い。


 かといって、感情を無碍にすることが全ての物事の解決に大切なのかといえば、そうでもないと思うのだ。「理性に流されろ!」「理性的に話すとうまくいく!」が必ずしも正しいとは思えないからだ。

 それは、感情を殺して生きていくことが、やはり人間的ではないと思ってしまうからだ。


理性は”正しさ”や”善さ”を指南する。


 次は、冒頭にも登場した”理性”について改めて考えていきたい。

 感情の対義語として扱われる理性は、「物事の道理を考える能力」のことを指すという話をした。個人的には、もう少し噛み砕いて表現すると、善悪を判断する性質のことだと思っている。

 これに則って考えると、人間にはやはり理性が備わっているのだと思う。どんなに憎い人がいても簡単には人を殺したりはしないし、素敵だなと思う人がいても既婚者なら多くの場合身を引こうとするものだ。人間にはやはり、正しさや善さを判断する”理性”が備わっているのだ。


 ただ、それが善いと分かっていてもその選択を取れないこともあるし、理性的にいつも判断できるわけではない。朝早起きしたいと思っていても目覚ましを止めて寝てしまうこともあるし、ダイエットをしていてもついマックに吸い込まれてしまうこともある。

 動物の一種であるヒトはやはり、感情からは逃れられないからなのだ。


理性と感情は、上下関係ではない。


 上記の例を考えると、感情的に生きるのが、一時的にはハッピーなのだと思う。二度寝はしたいし、ダイエット中にもマックは食べたくなるのである。

 ただ、そうすることが長い目で見た時に、正しく善いものだと思えるのかを判断するために、理性が備わっているのだと思う。

 そう考えると、理性は感情よりも大切なものに思えてしまう。


 ただ一方で、感情を大切にしなければいけない局面もあると思うのだ。

 感情は一時的であるように見えて、一時を積み重ねると、それは長い時間として積もっていくからだ。いつも会う上司が苦手な人だと長期的に辛いし、一回目の浮気は許せても二回目の浮気は許せないのである。

 結局は、自分が一つ一つの物事に対して、理性と感情をうまく使い分けていくしかないのだと思う。​​理性で感情を制御するところと、感情に従って行動するところがあって初めて、人間らしく生きられると思うのだ。


 理性で感情を常に押さえ込んでしまうのは、人間にとって正しくはあるが優しくない、と思うからだ。


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